第55話 トカゲ
新聞による告発と世論の暴風雨によって、ジャコバン・クラブの威信は地に落ちていた。
「ロベスピエール同志! 街の民衆だけではなく、我が派の若い議員たちまでが『暗殺未遂の説明を求めよ』と離反し始めています! このままではジャコバン派は瓦解します!」
悲鳴のような報告が飛び交う中、ロベスピエールは血走った目で沈黙を守っていた。
かつて「不可侵の清廉の人」とまで称えられた自分が、いまや「卑怯な暗殺を裏で指揮した汚い政治家」としてパリ中から唾を吐きかけられている。この狂った状況を打破するには、もはやなりふり構っていられなかった。
「……刺客を動かした幹部のデュヴァルを捕らえろ」
ロベスピエールは、掠れた声で冷酷に言い放った。
「え……? デュヴァル同志は、あなたのために命を張って暗殺計画を指揮した男ですよ!?」
「奴が勝手に暴走して、アランソンのマサト殿を襲撃したのだ!」
ロベスピエールは激しく机を叩き、凄惨な顔で叫んだ。
「私は何も知らなかった! 奴が我がジャコバン派の名を汚すためにやった独断の愚行だ! 今すぐデュヴァルを逮捕し、公衆の面前で処刑しろ! それで我が派の潔白を証明する!!」
側近たちは息を呑み、絶句した。
自分の保身のために、忠実だった部下を「身代わり」としてギロチンへ送る。そのあまりに惨めなトカゲのしっぽ切りに、ジャコバン派の内部に深い亀裂と冷ややかな不信感が走った。
翌日、アランソン公邸。
「……ふん、デュヴァルを切り捨てたか」
ベッドの上で傷を休めていたマサトは、ジャンから届いた報告を聞いて失笑した。
「身内を惨めに殺して責任逃れとはな。ロベスピエールも焼きが回ったぜ。おかげでジャコバン派の中からは『次は自分が切り捨てられるんじゃないか』って怯えて、脱退者が相次いでるそうだ」
ジャンが可笑しそうに笑う。
「奴は自ら仲間を殺し、組織を崩壊させているんだ。まさに自爆だな」
「だが、追い詰められたネズミは次の一手を打ってくる」
マサトは遠くテュイルリー宮殿の方角を見つめた。
「身内を売っても回復しなかった求心力を取り戻すため、あいつは国民の目を逸らす最大の事件を仕掛けてくるはずだ」
「最大の事件……?」
「国王ルイ16世の裁判と処刑だよ」
マサトの予言通り、その数日後、国民議会に登壇したロベスピエールは、狂気すら感じさせる迫真の演説を行った。
「諸君! 我々は下悪な陰謀に惑わされてはならない! 今、フランスが直面している本当の危機は何か! それは捕らわれの身でありながら、なおも外敵と内通し続ける国賊ルイ・カペー(ルイ16世)の存在だ!」
青白い顔を汗で濡らし、ロベスピエールは声を張り上げた。
「祖国を裏切った国王を生かしておいて、どうして革命の正義が成り立とうか! ルイは死なねばならない! 国民の未来のために、彼を即座に裁判にかけ、断頭台へ送るのだ!!」
かつて民衆を熱狂させた演説。だが、今や議員や民衆の冷ややかな視線が彼に注がれていた。
「マサト暗殺未遂の醜聞から目を逸らそうとしているだけだ」と誰もが察していたからだ。
しかし、彼が投げかけた「国王の処分」という問題自体は、議会を大きく揺るがす火種となった。
「……マサト殿、ロベスピエールがルイ16世の裁判を強行しようとしている」
議会を終えたラ=ファイエットが、険しい表情でマサトのもとを訪れた。
「国王の処刑など絶対に阻止しなければならん。もし王の首を跳ねれば、オーストリアやイギリスなど全ヨーロッパが本格的に本気で襲いかかってくる! これ以上の流血は国家の崩壊だ!」
「いいえ、侯爵。裁判はやらせればいい」
マサトの予想外の返答に、ラ=ファイエット は目を丸くした。
「な……!? 止めないというのか!?」
「ロベスピエールは『国王を殺せば自分が革命のヒーローに戻れる』と信じ切っている。なら、その夢を見せたまま、国王を裁判にかけさせましょう」
マサトは包帯から覗く左目を鋭く光らせた。
「国王が処刑されれば、あなたの言う通りヨーロッパ全土がフランスに宣戦布告し、大混乱が起きる。……だが、その時に国を救えるのは誰ですか? 武器と食料を完璧に握っている、俺たちアランソンだけだ」
マサトの冷酷な計算に、ラ=ファイエットは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「ロベスピエールに『王の処刑』という最後の暴走をさせてやるんです。奴が歴史の引き金を引けば引くほど、フランス全体が俺たち無しでは生きていけない体になる。そして……用済みになったロベスピエールを捨てるのは、その時だ」
仲間を惨めに切り捨てて悪あがきを続けるロベスピエール。
彼が必死に手繰り寄せている「国王処刑」という糸すらも、すべてはマサトの掌の上で紡がれた死へのシナリオに過ぎなかった。




