第54話 失墜
「……なんと卑劣な! 国家の危機を救ったマサト殿に暗殺者を放つとは……!」
マサトの滞在先の宿。
痛々しく包帯を巻いたマサトの姿を目にしたラ=ファイエット侯爵は、顔を激怒で真っ赤に染めて拳を机に叩きつけた。
「ロベスピエールめ! 狂気もここに極まったか! 直ちに国民衛兵を動かし、奴を逮捕させる!」
「待ってください、侯爵」
ソファに深く腰掛けたマサトは、静かな声でそれを制した。
「今、決定的な証拠なしに力づくで身柄を拘束すれば、奴らは『温和派の独裁だ』『革命の危機だ』と騒ぎ立て、民衆を暴動へ誘導します。……奴が一番大事にしているのは、民衆からの『潔白な清廉の人』という支持だ。ならば、叩くべきはその『支持』そのものです」
「支持を……叩くだと?」
マサトは側に控えていたラーブルに視線で合図を送った。
ラーブルは恭しく一礼すると、印刷されたばかりの数十枚の新聞校正紙をテーブルの上に広げた。
「我がアランソンの資金で、パリ市内の主要な新聞社および街頭のビラ配り業者を買い占めました。明日の朝一番で、この紙面がパリ全土に撒き散らされます」
そこには、大々的な見出しが躍っていた。
『ヴァルミーの英雄マサト、パリ裏通りにて暗殺未遂!』
『捕らえられた刺客の告白——背後に蠢く、ジャコバン派過激派の影』
新聞には、襲撃の凄惨な現場写真風の版画とともに、前夜捕らえた刺客の「ジャコバン・クラブの幹部から金を受け取った」という詳細な自白調書がびっしりと印刷されていた。
「これを見れば、民衆は否応なしに気づきます」
マサトは冷たい笑みを浮かべた。
「自らを『人民の味方』と偽っていたロベスピエールが、裏では国を救った英雄を泥臭い暗殺で消そうとした、ただの卑劣な権力亡者だったという事実にね」
「……すさまじいな」
ラ=ファイエットは武者震いとともに息を呑んだ。
「武力ではなく、文字と情報で奴の『正義』を撃ち抜くというのか。良し、国民議会側からもこの問題を正式に取り上げ、ジャコバン派への追及演説を行おう!」
翌朝。パリの街頭は、昨日以上の蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれていた。
「おい、これ読んだか!? ヴァルミーで俺たちを救ってくれたアランソンのマサト様が、暗殺者に襲われたんだと!」
「犯人はジャコバン派の手先らしいぞ! なにが『清廉の人』だ、ロベスピエールの野郎、裏でそんな汚いマネをしてたのか!」
街角の至る所で、民衆が新聞を手に怒りの声を上げていた。
昨日までロベスピエールを信奉していた下層民衆たちですら、「英雄を裏から刺すような卑怯者」には強い不信感を抱き始めていた。
同時刻。ジャコバン・クラブの執務室。
「……何だこれは……何なんだこれはぁぁぁっ!!」
ロベスピエールは、テーブルの上の新聞や書類を狂ったように叩き落とし、叫び声を上げた。
外からは、ジャコバン・クラブの建物を取り囲む民衆の怒号が聞こえてくる。
『卑怯者! ロベスピエールは出てきて説明しろ!』
『マサト様を襲わせたのは本当か!?』
「同志ロベスピエール! 大変です、議会でもラ=ファイエット派が『暗殺未遂事件の真相究明委員会』の設置を可決させました! 我々の派閥から離脱する議員が相次いでいます!」
報告に来た部下の顔は青ざめ、ガタガタと震えていた。
「くっ……くそぉッ! マサト……! 命を奪えなかったばかりか、私を……私の『正義』を汚す気か!!」
ロベスピエールは爪が肉に食い込むほど拳を強く握り締め、激しい血の涙を流さんばかりに悔しがった。
彼の築き上げてきた完璧な「人民の代弁者」という城塞が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
今や彼は、うかつに暗殺者を送ることも、過激な演説で民衆を煽ることもできない。動けば動くほど、「暗殺未遂の犯人」という疑惑が深まり、自らの首を締め上げる籠の鳥と化したのだ。
「……良い顔だ。実に醜い」
滞在先の窓辺から、遠くジャコバン・クラブの方角を見下ろしながら、マサトは包帯の上から目を細めた。
「マサト、ロベスピエールの奴、完全に詰んで逃げ場を失ってるぞ。今すぐ連行してギロチンに送るか?」
ジャンが身を乗り出す。
「いいや、まだ生かしておけ」
マサトは静かに首を横に振った。
「一気に殺せば、奴は『悲劇の殉教者』になってしまう。……ジワジワと権力を剥ぎ取り、味方に裏切られ、恐怖に怯えさせながら、自分が作った恐怖政治の仕組みの中で絶望させなきゃ意味がない」
マサトの不敵な笑みに、ジャンとドニは背筋が寒くなるような恐ろしさを感じた。
「さあ、ロベスピエール。孤立したお前が、次にどんな愚かな手を打ってくるか……楽しみに見せてもらうぞ」
首を跳ねる前の、最も残酷な「生殺し」の期間。
マサトの張り巡らせた見えない蜘蛛の糸が、ロベスピエールを完全に絡め取っていた。




