第47話 逃亡
パリ・テュイルリー宮殿の闇に紛れ、一台の仕立ての悪い馬車が静かに滑り出した。
中に乗っていたのは、変装したフランス国王ルイ16世と、王妃マリー・アントワネット、そして幼い子供たちだ。
パリでの軟禁生活と過激化する革命の狂気に耐えかねた王家は、王妃の母国オーストリアの支援を仰ぐため、深夜の国境逃亡。歴史に名高い『ヴァレンヌ逃亡事件』を決行したのだった。
だが、その軽率で不格好な計画は、あまりにもお粗末な結末を迎えることになる。
翌日、国境手前の小さな村・ヴァレンヌ。
馬の乗り換えのために立ち寄った宿駅で、顔写真を見比べた宿駅長によってあっけなく正体を見破られ、王家の一行は集まってきた民衆と国民衛兵に取り囲まれたのだ。
「国王陛下が……我々を見捨てて敵国へ逃げようとしたぞ!」
「裏切り者だ! 国王は人民を捨てたんだ!」
フランス全土に、怒りと落胆、そして激しい絶望が駆け巡った。
アランソン領主館の執務室。
「……マサト! 大変だ! 国王陛下がパリを脱出しようとして、ヴァレンヌで捕まったそうだぞ!」
青ざめたジャンが、駆け込んできながら大声を張り上げた。
「ああ、知っている。捕まったらしいな」
マサトは、驚く様子もなく冷えた紅茶を口に含んだ。
「知っていたのか!? なぜ止めなかったんだ! あるいは……俺たちの部隊を出して、秘密裏に救出してやることもできたんじゃないのか!?」
「救う理由がない」
俺の冷徹な一言に、ジャンは言葉を詰まらせた。
「いいか、ジャン。民衆が一番許せないのは『飢え』の次が『裏切り』だ。国王自身が敵国に助けを求め、国を捨てて逃げようとした。この事実だけで、フランス国民の『国王への敬愛』は完全にゼロになったんだよ」
俺は立ち上がり、壁に掛けられたフランス全土の地図を見つめた。
「もしここで俺たちが下手に王家を助けてアランソンへ引き取ってみろ。俺たちは全フランス国民から『国賊の国王を匿う反革命の敵』として憎悪の対象になる。そんなリスクを侵してまで、あの優柔不断な国王を担ぎ上げるメリットがどこにある?」
「……じゃあ、国王陛下は見殺しか?」
ドニが眉をひそめて尋ねてくる。
「見殺しというより、自業自得だ。……これで、最後のタガが外れた」
俺の言葉通り、ヴァレンヌ逃亡事件はフランス革命の決定的な分岐点となった。
これまで「王政を維持しつつ憲法を作ろう」と主張していたラファイエットら温和派の立場は完全に失墜。
代わりに、「国王など不要! 国賊ルイ16世を断頭台へ送れ!」と叫ぶロベスピエールらジャコバン派が、民衆の圧倒的な支持を集めることになる。
「パリへ戻された国王一家を待っているのは、公開裁判とギロチンだ。王は死に、絶対王政は完全に終わる」
「マサト……お前は最初から、こうなることが分かってたみたいだな……」
ジャンがゴクリと唾をのみ込む。
「ああ。だが、王が死ねば事態が収まるわけじゃない。むしろ、ここからだぞジャン。外国の介入が待っている。パリは王を殺した混乱と外敵の恐怖でパニックに陥る。……そして、そのとき一番強いのは誰だと思う?」
ジャンとドニの顔に、ハッとした表情が浮かぶ。
「……大量の兵糧と、ライフルを持った、俺たちアランソンだ」
王家を見捨て、史実通りに殺させる。
過激派に狂気の引き金を引かせ、フランス全体が戦争と大混乱に包まれたその時こそ、アランソンが圧倒的な力で表舞台に立ち、全てを掻き集める最高の好機となるのだ。
「ロベスピエールよ、せいぜい王の首を跳ねて歓喜するがいい。……その後に来る本当の地獄で、お前たちが俺に泣きつく日も近い」




