第35話 自由と市民の権利宣言
side: ラファイエット
私の名はギルバート・ラファイエット。侯爵という古き身分を持ちながら、かつて海を渡り、ワシントン将軍と共にアメリカ独立戦争を戦い抜いた男だ。
アメリカの戦場では、正義は常にシンプルだった。イギリスの圧政に立ち向かい、自由を勝ち取る。それだけでよかった。だが、我が祖国フランスの現状はどうだ?
先月、7月14日。民衆がバスティーユ牢獄を陥落させたあの瞬間、私は確かに震えるほどの感動を覚えた。絶対王政の象徴が崩れ去り、新たな時代の幕が開いたのだと確信した。
だが、あの日を境にフランスは手綱を失った暴れ馬と化した。
暴走する民衆の怒りは沸点に達し、私はパリ市民からなる民兵集団『国民衛兵』の初代司令官に任命された。
私の任務は、民衆の『自由』を守ること。そして同時に、暴走する群衆から『秩序と国王』を守ることだ。自由なき秩序は圧政であり、秩序なき自由は混沌に過ぎない。私はこの両刃の剣を握り、綱渡りを始めなければならなかった。
「司令官! 聖アントワール街の連中が、また貴族の屋敷を包囲しています! 早く国民衛兵の出動を!」
「ラファイエット侯、地方の農村からも急報です! 『貴族の軍隊が襲ってくる』というデマを信じた農民たちが、領主の館に火を放ち、借用書を焼き捨てていると!」
1789年、8月。
ヴェルサイユの議場を出た私を待ち受けていたのは、今日も怒号と悲鳴の報告書だった。
私は愛馬の手綱を握り直し、小さくため息をつく。額に滲む汗は、夏の暑さのせいだけではない。
民衆は飢え、怯え、そして怒っている。『特 権を貪る貴族どもが、我々を皆殺しにするために外国の軍隊を呼んだ』という荒唐無稽な大恐怖が、いまやこの国の全土を狂気に染めていた。
飢えた狼のような民衆を鎮めるには、もはや武力では足りない。彼らに希望という名の強固な檻を与えねば、フランスは内側から燃え尽きてしまう。
「……だからこそ、この宣言が絶対に必要なのだ」
私は上着の懐に手を当てた。そこには、私が起草した『人間と市民の権利の宣言』の草案がある。
人は生まれながらにして、自由であり、権利において平等である。
新大陸で見たあの輝かしい理想を、我が祖国フランスにも根付かせる。これさえあれば、民衆は自分たちが守られたと安心し、暴動をやめるはずだ。そして国王陛下も、時代が変わったことを受け入れてくださるだろう。
そして議場に上がった『人間と市民の権利宣言』は、全十七条の美しい言葉で採択された。
割れんばかりの拍手。議員たちの涙。自由万歳の歓声。
その光景を見下ろしながら、しかし私の胸に去来したのは、歓喜ではなく冷や汗が出るような危うさだった。
頭が痛む。ヴェルサイユ宮殿の奥で、未だにこの宣言への署名を拒み続けているルイ16世の顔が浮かんだからだ。
だが、私の懸念はそれだけではなかった。
つい先ほど、私の元に届いた地方からの不穏な報告書を思い出す。
『ノルマンディー近郊の要衝都市アランソンにて、地方長官がパリ出張中に行方不明。それに伴い、現地で「アラマサ自警団」と名乗る謎の民民組織が影響力を拡大。革命の過激派を瞬時に武力鎮圧し、街の防衛権と行政権を事実上掌握。』
報告書を握り締める手に、思わず力がこもる。
アランソン……。王宮の命令にも、我々議会の声にも耳を貸さず、独自で武装しただと? パリの混乱に乗じて、そんな怪物が地方に誕生していたというのか……
民衆の暴走を止め、王室の破滅を防ぎ、さらには地方で産声を上げた不穏な独立勢力をも牽制しなければならない。
「……急ごう。パリの巡回へ戻る」
私は拍車をあて、馬を走らせた。




