第34話 手紙
パリで消息を絶ち、死んだと思っていた地方長官からの直筆の手紙。
受け取った封筒はひどく薄汚れており、その端には、微かに赤黒い血の跡のようなものまで付着していた。それが生々しい緊迫感を放ち、執務室の空気を一瞬で凍りつかせる。
「マサト、早く中身を……!」
ジャンの焦燥に駆られた声に頷き、俺は傍らに控えていたラーブルに視線を送った。
「ラーブル、すまないがペーパーナイフを持ってきてくれ」
「は、はい! ただいま!」
ラーブルは青ざめた顔で小さく頷くと、すぐに引き出しから銀のナイフを取り出し、震える手で俺に手渡した。
受け取ったナイフを封筒の隙間に差し込み、慎重に開封する。
中から引き出した紙面を開いた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
そこに現れたのは、普段の長官が書くような、貴族特有の流麗で気取った文字とは程遠いものだった。殴り書きのような乱れた筆跡、あちこちにあるインクの滲み、そして激しく震える線。
それらすべてが、これを書いた時の彼の極限状態を、饒舌なまでに物語っていた。
『この手紙が君の元に届く頃、おそらく私はも
うこの世にはいないだろう。
私は王宮へ向かう途中で暴徒に捕らえられた。身分が割れるのも時間の問題だ。私の命は、ここで潰える。
だが、私の心残りは自身の命ではない。アランソンの街と、そこに暮らす純朴な市民たちのことだ。
私が不在となれば、アランソンは必ず利権を狙う職人ギルドの残党や、パリの狂気に便乗する過激派によって内側から崩壊する。それだけは断じて許してはならない。
マサト。君の持つ異質なほどの先見性と、その何も恐れない行動力、私はかねてより恐ろしくもあり、同時に深く信頼していた。
君なら、この未曾有の国難からアランソンを守り抜けると確信している。
地方長官としての私の最後の命令であり、一人の人間としての願いだ。
アランソンの統治権及び、私が蓄えていた財産を全て譲ろう。私の愛した街を、市民を、あの嵐から守ってくれ――』
手紙は、そこで唐突に途切れていた。おそらく、これ以上を書く時間すら残されていなかったのだろう。
「……嘘、だろ……」
ジャンが頭を抱えるようにして、呆然と呟き、絶句する。
いつもプライドが高く、鼻持ちならない貴族で、何より美味い儲け話には人一倍敏感だった、あの強欲とも言える地方長官が。死の間際に、自分の命を乞うわけでもなく、隠し財産を惜しむわけでもなく、街の未来を平民である俺にすべて託したのだ。
己の死を受け入れた男の、あまりにも重い覚悟。
俺は手紙を静かに机の上に置いた。胸の奥が、形にならない妙な熱さで満たされていく。それと同時に、視界がじんわりと滲み、目頭が熱くなっていた。
「……短い間だったが、世話になったな。あんたの遺志、確かに受け取ったぞ」
ぽつりと溢れた俺の言葉に、ラーブルは静かに涙を流し、ジャンは悔しそうに奥歯を噛み締めていた。
歴史の知識を持つ俺だからこそ、痛いほどによく分かる。長官のこの判断は、あまりにも正しかった。これからフランスは、王や王妃ですら容赦なくギロチンにかけられる、狂気と大混乱の時代に突入するのだ。旧時代の「地方長官」という肩書きや権威など、もはやアランソンを守る盾にはなり得ない。
今、この街に必要なのは、時代遅れの権力ではない。
この街を、押し寄せる時代の濁流から物理的に守り抜くための――圧倒的な『力』だ。
俺は涙を拭い、顔を上げた。その瞳からはすでに迷いは消え、冷徹なまでの決意が宿っていた。
「ジャン、ラーブル。泣いている暇はないぞ。すぐに動く」
「あ、ああ……マサト、どうするんだ?」
ジャンが鼻をすすりながら、真っ直ぐに俺を見る。




