第32話 主導権
「地方長官が、不在……?」
長官の屋敷の豪奢な応接室で、俺は出迎えに来た執事の言葉をオウム返しに呟いていた。
「はい。行政手続きの滞りについて、職人ギルドや王宮への直接の根回しを行うため、先週からパリへ出張されております。お戻りは来週以降の予定ですが……」
丁寧にお辞儀をする執事の顔には、まだパリの惨状を知らない暢気さがあった。
だが、俺の背中から一瞬で冷や汗が滝のように流れる。根回しのためにパリへ出張中だと!? 笑えない冗談だぞ。
今、まさにバスティーユが陥落した直後だ。パリの街は特権階級への憎悪に燃え盛る暴徒で溢れかえり、貴族や役人は見つかり次第捕らえられ、街灯に吊るされる可能性がある。
そんな地獄のど真ん中に、このアランソンのトップは自ら飛び込んでしまったのだ。
死んだか?……。良くて監禁、最悪の場合はもうこの世にいない。
つまり、このアランソンという街は、フランス革命という未曾有の暴風雨を前にして、公式なトップを完全に失ったことになる。
「マサト様? いかがなされましたか?」
顔色を変えた俺を見て、執事が不安そうに尋ねてくる。
「いや、なんでもない。長官宛てに急ぎの伝言がある。もしパリからの連絡が入ったら、何があっても俺の工房に一番に回すようにしてくれ」
俺はそれだけ言い残すと、足早に長官の屋敷を後にした。
アランソンの見慣れた街並みを歩きながら、頭をフル回転させる。
トップが不在の街は脆い。もし長官がパリで捕まった、あるいは死亡したという噂が流れれば、ギルドの残党も民衆も一気にパニックに陥る。最悪の場合、権力の空白を狙って街の中で主導権争いが始まりかねない。
だったら、やることは一つだけだ。
工房に戻ると、すでに各店舗への小麦の配給と自警団の配置を終えたジャンが待っていた。
「おいマサト、長官とはうまく話せたか?」
「いや、長官はパリで行方不明だ。生きて戻る可能性は極めて低い」
「はあ!? なんだって!?」
ジャンの目が飛び出んばかりに見開かれる。俺は彼の肩を強く掴み、真っ直ぐに見据えた。
「ジャン、よく聞け。長官がいない以上、今日からこのアランソンの実質的な統治者は俺たちアラマサだ。公式な命令系統が麻痺している隙に、街の防衛権と行政権を事実上、俺たちが完全に掌握する」
驚愕するジャンを余所に、俺の腹は決まっていた。主導権争いが起こる前に俺たちアラマサ自警団が主導権を握る。
地方長官という後ろ盾を失ったのは痛手だが、逆に言えば、もう誰の顔色もうかがう必要はない。
「ドニに伝えろ。城壁の要塞化をさらに加速させるぞ。これからこの街は、フランスからも、革命軍からも独立した中立地帯として、情勢をじっくり見よう」
歴史の濁流がすぐそこまで迫っている。長官の不在という危機をチャンスに変え、俺たちはアランソンを丸ごと乗っ取る勢いで、真の支配者への階段を駆け上がるしかなかった。




