第29話 流通と革命
ボスカリ家の隠し倉庫から強奪、いや合法的に買い上げた大量の小麦が市場に投入された翌日、アランソンの街の経済は文字通りひっくり返った。
「本当にこの値段なのか!?」
「神様、アラマサ様……! これで子供たちにお腹いっぱいパンを食べさせてやれる!」
アラマサ自警団に警備代を払っている商店の前に、見たこともないような長蛇の列ができていた。
店先に並ぶのは、昨日まで市場の4倍以上の価格で取引されていた本物の小麦だ。それが、マサトの仕掛けた適正価格で飛ぶように売れていく。
この配給劇の裏には、俺が構築したシンプルな流通システム、通称『アラマサ・システム』があった。
仕組みはこうだ。
俺たちは豪商から適正価格より少し色を付けて買い叩いた小麦を、自警団に加盟している店にだけ、優先的に格安で卸す。店側は仕入れ値が爆発的に安いため、民衆に安く売っても十分な利益が出る。
そして店側は、いつも通りその日にあがった総売り上げの10%を、警備代としてアラマサ自警団に納める。
これが、恐ろしいほどの富を工房にもたらした。
「おいおいおい、マサト……! 今日の分の警備代の集計が出たぞ。これ、見間違いじゃねぇよな!?」
夕暮れ時、工房のオフィスに飛び込んできたジャンが、両手に抱えた金貨の袋を机にドサリと置いた。その顔は興奮で真っ赤だ。
「見間違いじゃないさ。加盟店がこれだけ大繁盛すれば、その10%だけでもかなりの金額になる」
「信じられねぇ……。自警団の少年たちの給料や、ライフルの弾薬代や石炭代を差し引いても、お釣りが山ほど出るぞ! 俺たち、いつの間にかギルドの連中より金持ちになってんじゃねぇか?」
「ああ、しかもこれはただの始まりだ」
俺が窓の外を指差すと、そこには工房の前に群がる、見たことのない顔ぶれの店主たちの姿があった。
彼らはギルドの顔色を伺って、これまでアラマサの傘下に入るのを拒絶していた頑固な店主たちだ。しかし、隣の店が格安の小麦で大儲けしているのを目の当たりにして、プライドなんて放り投げて駆け込んできたのだ。
「頼む! うちの店もアラマサ自警団で警備してくれ!」
「ショバ代でも売り上げの10%でも何でも払う! だからあの小麦を卸してくれ!」
「……現金なもんだな」
ジャンが呆れたように笑う。これで街の商店の9割以上が、事実上アラマサの支配下に入った。経済の主導権は、完全に職人ギルドから俺たちの手に移ったのだ。
これだけの金と民衆の支持があれば、アランソンは安泰。自警団の武力もさらに強化できる。
……そう、この街「だけ」なら。
「マサト、次の仕入れの相談なんだが――」
「ジャン、すまないが少し静かにしてくれ」
俺は机の上に広げた、他領の商人から買い取った小麦の帳簿やフランス全土の最新の新聞や回状に目を落としていた。
大儲けの喜びで沸き立つ工房の中で、俺の背中だけには、焦りが色濃く映っている。
アランソンが奇跡的な豊かさを手に入れた一方で、一歩この街の外に出れば、世界は急速に壊れ始めていた。
地方での飢饉、王室の財政破綻、鳴り止まない民衆のデモ、そしてパリで囁かれ始めた『自由・平等・友愛』という不穏な思想の言葉。
現代日本の歴史知識を持つ俺には、分かってしまう。
この異常な社会の歪み、そして民衆の怒りの臨界点。これは、歴史の教科書で何度も見た、もうじきあの『フランス革命』が近い。
「おい、マサト? どうしたんだよ、そんな怖い顔して」
ジャンの声で、俺は我に返った。
「いや、なんでもない。……ジャン、自警団の訓練と増員のペースを上げてくれ。それと、ドニに言ってライフルや蒸気機関の増産を急がせる。火薬の備蓄も今の3倍は必要だ」
「え? いや、金ならもう十分あるし、ギルドの連中も青ざめてるぜ? これ以上何と戦うんだよ」
ジャンの疑問はもっともだ。今の自警団は、この街のゴロツキやギルド相手なら無敵と言っていい。
だが、俺が恐れているのはそんな矮小な敵じゃない。
「近いうち、国がひっくり返るほどの巨大な嵐が来る」
俺は窓の向こう、夕日に赤く染まるパリの方角を睨み据えた。
「その嵐に巻き込まれたら、王族だろうが、大富豪だろうが、容赦なくギロチンで首を飛ばされる。……何が何でも、その前にアランソンを絶対的な要塞に仕上げるぞ」
お腹いっぱいパンを食べて笑う民衆の声が、遠くから聞こえる。
このささやかな天国を、これから来る激動の地獄から守り抜く。そのためには、まだまだ金も、力も、足りなすぎる。




