119話 相互防衛
サント・ドミンゴ港を見下ろす旧スペイン総督府。
豪華な会議室では、顔を真っ赤にしたスペイン総督が卓をドンドンと叩いていた。
「な……納得がいかん! 我が国の領土でありながら、なぜ治安維持権から行政権、果ては港の管理権まで、すべてフランス軍に接収されねばならんのだ! これではまるで我が国がフランスの占領下におかれたようではないか!」
怒号を上げる総督に対し、豪奢な軍服に身を包んだ男が、あくびを噛み殺しながら優雅に紅茶を啜っていた。
フランス海軍大臣兼海軍総司令官、そしてマサトから今般のカリブ海平定における「フランス全権大使」の全権を委任された男、ラトゥーシュ=トレヴィル提督その人である。
「あのねぇ、総督。いい加減に現実を見たらどうだ?」
ラトゥーシュ=トレヴィルはカップを置くと、呆れたように肩をすくめて一枚の書類を卓上に滑らせた。
「そもそも新生同盟の『相互防衛』ってのは、加盟国が外敵に攻め込まれた時の協定だ。貴国が勝手に植民地で奴隷を痛めつけて爆発させた『内輪の反乱』なんて、我が国が助ける義務は一ミリもないんだよ。勘違いしてもらっては困るな」
「な、なに……!?」
「本来なら『自業自得だから自分たちでなんとかすれば?』で終わりなんだ。それをマサト総裁が『まあ同じ同盟国だし、無能な君たちを見捨てるのも忍びないから助けてあげよう』と、わざわざ温情で主力艦隊と物資を貸してくださったんだよ。助けてくれと泣きついておいて、助け方にまで口を挟むなんて、厚かましいにも程があるだろう?」
名将にして全権大使である提督の容赦ない皮肉と小馬鹿にしたような笑みに、スペイン総督の顔は赤から青へと変わっていく。
「ふ、無能とはなんだ! 我がスペイン本国が黙っちゃ……」
「あ、本国ならもう納得しているぞ?」
提督はニヤリと不敵に笑うと、マドリードのスペイン王宮から届いたばかりの正式な合意書を突きつけた。
「マサト総裁がマドリードの国王陛下と首相に『手も足も出ないサント・ドミンゴの件、代わりにフランスが完全主導で収めてあげましょうか? ただし現地でのやり方に一切口出ししないのが条件です』とお伝えしたらな……『ぜひお願いします! フランス様々です!』と、二つ返事で私への全権委任にサインをくれたよ。ほら、これ本国の印章だ」
「な……本国が……全権を丸投げだと……!?」
本国からも見捨てられ、フランスに完全にお手上げ状態にされていた事実を知り、スペイン総督は膝から崩れ落ちた。
「……そういうわけだ、総督。スペイン本国も認めた通り、この島の仕切りはすべて全権大使である私がフランス主導で行う。君たちスペイン駐屯軍は、自分たちの蒔いた火種も消せないんだから、砦の隅っこで大人しくスープでも飲んで指を咥えて見ていなさい」
圧倒的な正論と小馬鹿にしたような対応、そして港に圧巻の威容で鎮座するフランス主力艦隊を前に、スペイン側は完全にぐうの音も出ず沈黙するしかなかった。
こうしてサント・ドミンゴは、完全に「フランス全権大使の管理下」へと置かれることとなった。
フランス軍の動きは爆速だった。
提督の指揮のもと、兵士たちは銃を置き、ドニ率いる技術省が送り込んだ専門技師たちと共に、港から町全体へと「インフラの爆速建設」を開始した。
汚染された井戸には携帯型蒸気浄水プラントが取り付けられ、街中に清らかな水が溢れる。
病気で倒れていた現地民や避難民には、薬と温かいスープが無償で配られた。
「あ……あの威張るだけで何もしないスペイン人どもとはまるで違う……」
「僕たちを人間として手当てしてくれる……!?」
過酷な搾取しか知らなかった現地の人々は、フランス軍が見せる信じられないほどの「温情と圧倒的な技術力」に激しい衝撃を受けていた。
わずか数日で、街からは飢えと病の悲鳴が消え、スペインへの憎しみはフランス軍への絶大な信頼と感謝へと変わっていったのだ。
そして、その様子を森の奥からじっと観察していたのが、反乱軍の指導者トゥーサン・ルーヴェルチュールであった。
「首領……無能なスペイン軍は砦に押し込められ、フランスの海軍大臣兼全権大使が街を完全に主導しています。ですがフランス軍は我が方の身内を撃つどころか、病を治し、食事を与えています」
スカウトからの報告を受け、トゥーサンは深く思案した。
「……パリにいるフランスの新しい総裁、マサトという男の手腕か。無能なスペイン人を黙らせ、武力ではなく圧倒的な豊かさで我らの戦う理由を奪いにきたというわけだな」
トゥーサンは静かに立ち上がると、腰の剣を鞘に納めた。
「フランス全権大使へ伝令を出せ。『我が方はラトゥーシュ=トレヴィル全権大使との対話に応じる準備がある』とな」
サント・ドミンゴ港のフランス陣地。
伝令を受け取ったラトゥーシュ=トレヴィル提督は、豪快に笑いながら髭を撫でた。
「ハハハ! 上出来だ! マサト総裁へ打電せよ! 『予定通り、スペイン側を完全に黙らせ全権を掌握。反乱軍首領トゥーサンとの直接交渉へ向かう』……とな!」
無能なスペイン本国と現地総督府を完全に手玉に取り、全権大使ラトゥーシュ=トレヴィルが直接乗り出す前代未聞の「無血平定交渉」。
パリでどっしりと構えるマサトの手のひらの上で、カリブ海の歴史が鮮やかに塗り替えられようとしていた。




