第112話 開校
パリ第1公立小学校、開校初日。
かつて旧貴族の館だった立派な建物からは、子供たちの賑やかな歓声と、それ以上に慌ただしいドタバタ劇の音が響いていた。
「こらーっ! 廊下を走るな! ……じゃなくて、静かに席に着きなさい!」
廊下で声を張り上げているのは、教員養成所を卒業して先生となった元兵士のマルセルだった。
かつて戦場で銃を握り、何十人もの部下を率いていた男だが、いまや額に汗をかきながら元気すぎる子供たち相手に悪戦苦闘している。
そんな荒れる教室の様子を、廊下の陰からマサトとジャンがこっそり覗き込んでいた。
「ハッ、手厳しいな。戦場じゃ百戦錬磨のマルセルが、ガキども相手にたじたじだ」
ジャンが楽しそうにニヤリと笑う。
「まあ、最初から上手くはいかないさ。特にあ そこの一番後ろに座ってる子……」
マサトの視線の先には、腕を組んでそっぽを向いている少年がいた。貧民街のガキ大将、ミシェルだ。
「けっ、学校だか何だか知らねえが、文字なんて覚えたって腹は膨らまねえよ! 俺は職人になって金を稼ぎたいんだ!」
ミシェルが毒づくと、周りの子供たちもザワつき始める。
マルセル先生は困惑しつつも、教壇に一冊の教科書を置いた。
「……ミシェルと言ったな。確かにお前が言う通り、文字だけじゃ腹は膨らまん。だがな、文字が読めないと『損』をするんだ」
「損だあ?」
「ああ。例えば、給料の計算だ。契約書が読めなきゃ、悪い親方に給料をごまかされても気づけない。設計図が読めなきゃ、どんなに筋が良くても一生下働きのままだ」
「う……」
ミシェルが言葉に詰まると、教室の扉がガラリと開いた。
入ってきたのは、作業着姿のドニだった。手には何やら金属製の不思議な箱を抱えている。
「ようガキども! なにやら威勢がいい奴がいるって聞いてな!」
「ド、ドニ長官!?」
子供たちが一斉に目を輝かせる。技術省のトップであり、アランソンの伝説的な技術者であるドニは、街の子供たちにとっても憧れのヒーローだった。
「職人になりたいってのはお前か? いい心構えだ。じゃあ、これを見てみろ」
ドニが机の上に置いた金属箱に火をつけると、カタカタと音を立てて小さな蒸気機関の模型が動き出し、小さな車輪が滑らかに回転し始めた。
「うわあ! 動いた! すげえ!」
子供たちから歓声が上がる。ミシェルも思わず身を乗り出した。
「これを作るにはな、複雑な計算と設計図の読み書きが必要なんだ。お前が文字や計算を覚えたら、俺の技術省で一番弟子にしてやってもいいぞ?」
「ほ、本当かよ!? ドニ長官の一番弟子!?」
「おう! だからまずは、そこのマルセル先生の話をしっかり聞くことだ。この先生はな、昔俺たちの作った大砲を使って、国を守ってくれたスゴイ奴なんだぞ」
ドニがポンとマルセルの肩を叩くと、マルセルは照れくさそうに咳払いをした。
反抗的だったミシェルの目が、一瞬で尊敬と羨望の眼差しへと変わる。
「よし……! マルセル先生、俺に文字を教えてくれ! 一番に覚えてやる!」
ミシェルが身を乗り出して叫ぶと、周りの子供たちも「俺も!」「私も!」と競うように教科書を開き始めた。
教室が熱気に包まれていく様子を見届け、マサトとジャンは静かに廊下を歩き出した。
「ドニの奴、おいしいところを持っていきやがって。……まあでも、あの金属箱、マサトが最初に俺たちへ蒸気機関の説明をした時に作ったやつに似てるな」
ジャンが懐かしそうに目を細める。
「確かにな。あの時は俺もまだ手探りで、技術者じゃないからあの小さな模型一つ作るのにも相当苦労したんだぞ?」
「ハッ、言えてる。ほんと、最初にあの動く箱を見せられた時は腰を抜かしたもんだよ」
二人は中庭に出た。
晴れ渡ったパリの空の下、新しく建てられた校舎からは、子供たちが声を合わせて教科書を読み上げるあたたかな声が響き始めていた。




