第108話 取り止め
パリ、総政府の執務室。
午後のお茶を飲みながら、ジャンが面白そうな一枚の報告書を持ってきた。
「おいマサト、見たか? ベルリンとウィーンの連中、相当パニックになってるみたいだぞ」
「アディントンがパリに来て頭を下げたってニュース、もう届いたのか。相変わらず耳が早いな」
マサトは書類から目を離さず、苦笑しながら答えた。
「そりゃそうだろ。世界の覇者気取りだったイギリスが海軍を去勢されて、炭鉱も港も取られて、挙げ句の果てに首相自ら降伏の挨拶に来たんだ。あの頑固なプロイセンもオーストリアも、生きた心地がしてないはずさ」
「まあ、こっちとしては無駄な血を流さずに済むならそれが一番だけどな。で、あいつらはどう動くと思う?」
「攻めては来られないよ。もし攻めてくれば、同じ目に遭うだけだって、嫌でも理解したはずだからね」
ジャンは「違いない」と短く笑い、受話器を手にして自身の部署へと戻っていった。
その頃、オーストリアの首都ウィーン。シェーンブルン宮殿の密室では、列強の命運を左右する重苦しい秘密会議が開かれていた。
「……信じられん。あの海上で暴れまわっていたイギリスが、完全にフランスの傘下に下ったというのか……!?」
オーストリア皇帝フランツ2世が、届いたばかりの書状を握りつぶし、青ざめた顔で叫んだ。
集まった閣僚や将軍たち、そしてプロイセンから派遣された特使もまた、死人のような顔で沈黙している。
「事実でございます、陛下」
外相が重い口を開いた。
「アディントン新首相はパリを訪れ、マサト総裁に対し全面的な恭順を示しました。イギリスの炭鉱や港はフランスの監督官に押さえられ、アランソンで捕らわれた貴族の令息たちを返してもらうため、巨額の賠償金を支払うとのこと……」
「馬鹿な! では、我が国が画策していた『対仏大同盟』はどうなるのだ! イギリスの資金援助と海軍力がなければ、誰がフランスを挟み撃ちにするのだ!?」
「不可能です!」
それまで黙っていたプロイセンの老将軍が、耐えかねたように立ち上がった。
「陛下、お言葉ですが、フランスと戦うなどもはや正気の沙汰ではありません! 敵はナポレオンの軍事力だけではないのです。あの『マサト』という男の手によって、フランス全土に『鉄道』と呼ばれる鉄の怪物が走り、物資と兵力が驚異的な速度で移動しております!」
「鉄の……怪物だと?」
「はい。我が国の情報部によれば、我が軍が国境に布陣するより早く、フランス軍は数万の兵と大砲を鉄道で輸送し、我々の背後を突くことが可能です。さらにとある技師が作ったライフルと圧倒的な射程の砲……これらと正面からぶつかれば、我が国の誇る陸軍とて一瞬で粉砕されます!」
将軍の悲痛な叫びに、室内は凍りついた。
「軍事力だけではありません……」
オーストリアの財政担当官が消え入りそうな声で付け加えた。
「フランスで新設された特産物復興省が送り出す製品……酒、砂糖、布地、精密機械。これらが我が国の市場に流れ込み、貴族から庶民まで皆フランス製品の虜になっております。『フランスと戦争をすれば、あの質の良い製品が入ってこなくなる』と、我が国の商人や民からも強い反対の声が上がっているのです……」
「なんということだ……」
皇帝フランツ2世は力なく玉座に深く沈み込んだ。
軍事、技術、経済、そして民心。あらゆる分野において、マサト率いる新しいフランスは、周囲の国々が逆立ちしても勝てないほどの「怪物」へと成長していたのだ。
「……対仏大同盟の結成は、取りやめだ」
皇帝はかすれた声で宣告した。
「開戦どころではない。直ちにパリへ祝賀の使節を派出し、マサト総裁の機嫌を伺うのだ。『我々はフランスとの平和を望んでいる』とな……」
「御意にございます…」




