第107話 ヘンリー・アディントン
パリ、総政府の執務室。
窓からは、近代的な街並みへと姿を変えつつあるパリの景観が一望できた。遠くからは、新設された鉄路を走る蒸気機関車の力強い汽笛が微かに響いてくる。
「で? あの時のカースルレイクみたいに、今度は首相自ら泣きつきに来たってわけか」
ソファーに深く腰掛け、書類に目を通しながら口を開いたのはジャンだった。
かつてアランソンの工房で共に汗を流した昔馴染みであり、いまやフランスの治安と情報網を統括する男は、相変わらずマサトの前では何の気取りもない。
「泣きつきに来たというよりは、生き残り方を探しに来た……ってところだろうな」
マサトは苦笑しながらデスクの上の書類を片付けた。
「あの時、カースルレイクに呑ませた条件は容赦なかったからな。アランソンで捕らえた貴族のガキどもを人質にして、海軍を接収して、炭鉱も港も全部ウチの管理下に置いた。旧政権が倒れてアディントンが新首相になったのも、もう背に腹は代えられないからだろ」
「まあな。海軍も金も奪われて、国内は暴動寸前。おまけにアランソンに抑留されてる令息たちの親から『早く連れ戻せ』って突かれまくってんだ。アディントンも大変だよ」
ジャンは肩をすくめると、ポケットから手帳を取り出した。
「警護の準備は完璧だ。ロンドンからやってきたアディントン一行は、すでにパリの迎賓館に入ってる。……で、マサト、あっちをどう扱うつもりだ? もう完全に牙は抜いたわけだけど」
「降伏条約を守らせるのは当然として、これからは『従属国』として効率よく働いてもらうさ。イギリスをただ潰して放置するより、ウチの経済圏に組み込んだほうが互いに得だからな」
「相変わらず食えない奴だな。まあ、お前がそう言うなら俺たちは裏をしっかり固めるだけだ」
ジャンは短く笑うと、ひらひらと手を振って執務室をあとにした。
同日午後。
かつてカースルレイク卿が絶望に打ちひしがれながらペンを走らせた総政府の大広間に、英国新首相ヘンリー・アディントンが姿を現した。
アディントンは威圧的な態度を見せることもなく、マサトの前まで歩み出ると、深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります、マサト総裁。英国新首相、ヘンリー・アディントンです。……まずは、我が国の前政権が犯した愚行と、アミアンの講和を破りアランソンへ侵攻したことに対し、新政府を代表して改めて深くお詫び申し上げます」
「頭を上げてください、アディントン首相。謝罪と条件の受諾は、すでにカースルレイク卿との間で完了しています」
マサトが穏やかな声で促すと、アディントンは静かに顔を上げた。その表情には、かつての大国の傲慢さは一切なく、ただ現実を見据える政治家の冷徹な覚悟があった。
「感謝いたします。……本日私がパリを訪れましたのは、単なる恭順の意を示すためだけではございません。先の『パリ平和協定』に基づき、我が国がどのようにしてフランスの提示する条件を果たし、共に新たな関係を築いていくか……その具体策をご相談に上がりました」
「話が早くて助かります」
マサトは手元の書類を示した。
「まず、アランソンに抑留されている貴族の令息たちについてです。彼らの解放条件として、イギリス全土の炭鉱および主要港における我が国の監督官受け入れ、ならびに指定された賠償金の第1期支払いを要求します。これが確認され次第、身柄は順次お返ししましょう」
「……承知いたしました。すでにロンドン港および主要炭鉱には、貴国の監督官を受け入れる準備を整えさせております。賠償金についても、旧主戦派貴族たちの財産を接収し、優先して充当いたします」
アディントンは一切の渋りも見せず、即答した。突きつけられた極めて苛烈な条件を、彼は完全に受け入れる覚悟でここへ来ているのだ。
「物わかりが良くて助かります、アディントン首相。……ただ、勘違いしないでいただきたいのは、我々はイギリスを絶望の淵に突き落としたいわけではないということです」
マサトの言葉に、アディントンが少し目を見開いた。
「我が国が管理するのは、あくまで軍事転用されかねない資源とインフラだけです。それらが確保されている限り、フランスの最新の技術や蒸気機関、そして綿製品などの貿易市場をイギリスにも順次開放する用意があります」
「なんと……我が国に、技術と市場を?」
「ええ。戦うのではなく、フランスを中心とした新しい経済の仕組みの中で繁栄してもらう。……それが、我が国の目指す『平和』です」
アディントンはしばらく言葉を失っていたが、やがて深く息を吐き、静かに微笑んだ。
「……なるほど。前政権の者たちがどれほど愚かだったかが良く分かります。武力で貴国をねじ伏せようとしたこと自体が、時代錯誤の極みだったのだと。マサト総裁、我が国は喜んで貴国の創り出す新たな秩序に従いましょう」




