第102話 条件
パリ、総裁府の大広間。
重厚なシャンデリアが眩い光を放つその部屋に、重苦しい静寂が満ちていた。
豪奢な大理石のテーブルを挟んで向かい合うのは、フランスの覇者であるマサト総裁と、ロンドンから命からがら着の身着のままでやってきたイギリス政府の全権特使、外務大臣カースルレイク卿であった。
特使の顔色は病人のように青ざめ、目の下には深いクマが刻まれている。
彼の背後には、アランソン近郊でナポレオンの包囲網に捕らえられた「公爵や子爵の令息たち」のリストを握りしめ、生きた心地のしない貴族代表たちが控え、全身を打ち震わせていた。
「……マサト総裁」
カースルレイク卿は震える声で、テーブルの上に置かれた革袋を押し出した。
「我がロンドン政府は……アミアンの講和を破り、不法に貴国の領土へ侵入した非を全面的に認めます。ここに莫大な賠償金の即時支払いを約束いたします。どうか……アランソンにて包囲されている我が国の兵、そして将校たちの身柄を無条件で解放していただけないだろうか……」
すがるような視線に対し、マサト総裁は冷徹な面持ちで静かに首を振った。
「カースルレイク卿。講和を踏みにじり、我が国の心臓部であるアランソンへ火を放とうとしたのは貴国だ。ネルソン提督の悲劇も、すべては貴国政界の傲慢が招いたもの。……今更、金で解決できるとお思いか?」
「くっ……!」
カースルレイク卿が歯噛みする。横にいた公爵家の上院議員が耐えかねて身を乗り出した。
「マサト総裁! あそこにいるのは我が国の未来を担う貴族の長男や次男たちなのだ! 彼らを見殺しにされれば、イギリスという国家の骨組みが崩壊してしまう! 頼む、いくら望んでも構わん! 条件を提示してくれ!」
その見苦しい命乞いを聞き、マサトの脇に立つナポレオンとラ=ファイエットは蔑むような冷ややかな視線を向けた。
マサト総裁は一言も発せず、事前に用意させていた厚い羊皮紙の文書『パリ平和協定書』をテーブルの中央へ滑らせた。
「我が国の提示する条件は一つだけだ。この条約の全条項を受諾し、即座に調印すること」
カースルレイク卿は震える手でその文書を拾い上げ、目を通した。しかし、一行読み進めるごとに、彼の顔から血の気が完全に引いていった。
『一、イギリス政府はアランソン侵入の全責任を認め、フランス軍事裁判の判決に従うこと』
『一、イギリス海軍の大型戦列艦および建造中の全艦艇をフランスへ引き渡すか、解体すること』
『一、ロンドンを含むイギリス全土の貿易港および炭鉱の管理権を、フランス総裁府の監督下に置くこと』
『一、イギリス領カリブ海諸島およびインドの一部の植民地を、フランスに譲渡すること』
「な……なんという……!」
カースルレイク卿の叫び声が絶句へと変わった。
それは単なる軍事的な降伏ではない。イギリスの海軍力を永久に去勢し、主権産業と金融を完全にフランスの支配下に置く、実質的な『従属国化』を意味する苛烈な条約であった。
「こんなものに調印すれば……我が国はフランスの奴隷も同然となる! 英国の栄光は完全に失われてしまうぞッ!」
「調印しなくても構いませんよ」
マサト総裁は穏やかな、しかし凍りつくような声で告げた。
「その場合、アランソンにいる貴族の令息たち数千名は、我が国を脅かした『テロリスト』として即座に軍事裁判にかけられ、アランソンの工場の鉄格子の中で終身刑に処されることになります。……さて、どちらを選びますか?」
「っ……!!」
逃げ場はどこにもなかった。
海ではネルソンが討ち死にして海軍は壊滅。陸ではアランソンの心臓部を奪うどころか全軍が人質。ロンドンでは暴動と株価大暴落が起きている。
背後に控える貴族たちが、涙目になりながらカースルレイク卿の肩を掴んだ。
「……調印しろ、カースルレイク……! 息子たちを……」
「……ああ……神よ……」
カースルレイク卿は涙を流し、血を吐くような呻き声を上げながらペンを取った。
手が激しく震え、インクが漆黒のシミとなって羊皮紙を汚す。それでも彼は、イギリスの歴史上最も屈辱的な条約の末尾に、自らのサインを刻み込んだ。
カリカリと響くペン音。
調印が終わると同時に、マサト総裁は静かに立ち上がり、書類を手元に引き寄せた




