第十一章 偽りの蜜月
王宮翻訳師としての日々が、始まった。
俺に与えられた住居は、王宮の北東隅にある離宮の一室だった。
離宮、と言っても、王族が使う本格的な離宮ではなく、外国の賓客や、王宮直属の特殊技能者のために用意された、小さな三階建ての石造りの館だ。
俺の部屋は、二階の角部屋。窓は東向きで、朝、王宮の中庭の柳が、薄緑に揺れるのが、見える。
部屋の中には、机、書棚、寝台、湯浴みの設備、そして、十二の種族の文書整理棚が、揃っていた。
九年間、俺が住んでいた賃貸の六畳一間より、たぶん、四倍くらいの広さがあった。
給金は、王宮筆頭言語学者の倍額が、提示された。
提示された数字を、頭の中で、レイガリアの物価と照合すると、九年間の俺の年収の、約八倍だった。
俺は、書類のサインのとき、ペンの先が、少し、震えた。
九年間、誰にも、こんな数字を、提示されたことがなかった。
仕事は、思ったよりも、多かった。
国王の親書の、エルフ語・ドワーフ語・獣人語・海人語の四言語同時併記。
外交使節団の到着時の、即時通訳。
禁書庫の蔵書の、目録化と簡易解説の作成。
各種交易協定書の、誤訳箇所の修正。
毎日、机の上に、新しい依頼書が、五件、十件と、積み上がる。
しかし、俺は、不思議と、疲れなかった。
九年間、俺は、徹夜で訳した翻訳を、誰にも、評価されないまま、納品してきた。
今、俺は、訳したものを、王宮の使者が、丁寧に、両手で受け取って、運んでくれる。
その違いだけで、同じ時間の作業が、まったく、違う重さに、感じられた。
イリスは、王宮の北側の客間に、滞在を続けていた。
彼女は、こちらの護衛、という名目で、王宮側からも、正式な滞在許可を得ていた。
夕方、仕事が一段落すると、彼女は、よく、こちらの部屋に、訪れた。
訪れて、卓の上に、両親の手記を、置いた。
俺たちは、手記の残りの頁を、一頁ずつ、訳し進めていった。
手記の中には、両親が、人間とエルフの間で、橋として、生きてきた日々の記録が、淡々と、書き連ねられていた。
通訳の失敗。
通訳の成功。
双方から、感謝されたこと。
双方から、誤解されたこと。
娘が生まれたときの、二人の喜び。
娘に、両方の世界の橋になってほしい、という、二人の、共通の、願い。
そして、最後の頁の、娘へのメッセージ。
「両親は、もう少し、私が、大きくなるまで、生きていたかったでしょうね」
イリスは、ある晩、卓の上で、両手で、葡萄酒の杯を、抱えていた。
「ええ」
「でも、両親が、私に、両方の世界の橋に、なってほしい、と書き残してくれたことが、今、私を、生かしてくれています」
俺は、頷いた。
手記の最後の頁の、両親の文字を、もう一度、読んだ。
ふらつかず、立ち続けなさい、という一文。
その一文の、原文の単語は、エルフ古語の「立つ」と、「橋」と、「上」の組み合わせだった。
ただし、「立つ」の単語は、別の文脈では「祈る」「願う」「捧げる」とも訳せる。
俺は、その複数の意味を、彼女に、説明した。
イリスは、長い間、黙って聞いていた。
それから、薄く、笑った。
「では、両親は、私に、橋の上で、ふらつかず、立ち続け、祈り、願い、捧げよ、と、四つ同時に、言ってくれていた、ということですか」
「たぶん」
「両親らしい、欲張りな、遺言です」
彼女は、葡萄酒を、一口、飲んだ。
葡萄酒の杯の縁が、彼女の薄く笑った口元に、当たった。
その瞬間、俺は、彼女のことを、生まれて初めて、きれいだと、思った。
九年間、きれいだ、とか、誰かを、思ったことが、なかったわけではない。
でも、それは、いつも、自分とは関係のない場所の景色だった。
彼女のきれいさは、なぜか、自分の今いる場所の中に、ある気がした。
俺は、その思いを、口に出さなかった。
九年間、徹夜で麻痺した脳は、こういう感情の処理に、慣れていない。
ある晩、彼女は、卓の上で、こう言った。
「サクヤ殿。御身が、訳してくれた言葉のおかげで、私は、両親を、取り戻した気がします」
俺は、葡萄酒を、口に含んだまま、頷きで返した。
頷きながら、九年間で初めて、自分の仕事が、誰かの何かを「取り戻す」道具になった、ということを、自覚した。
九年間の、医療機器マニュアルも、特許明細書も、契約書も、誰かの何かを、たぶん、目に見えない場所で、取り戻していた。
ただ、俺自身が、それを、知らなかっただけだ。
離宮の窓の外で、二つの月が、薄く、傾いた。
俺は、ようやく、自分の仕事の価値の射程を、知り始めた。
しかし、その夜の、終わりに、ヴァルティウス老師から、急報の手紙が、届いた。
手紙は、たった三行だった。
「教会、儀式の予告状を、王宮に、提出してまいりました。日付、二週間後の、満月の夜。場所、中央神殿。儀式名、世界統一礼拝。即刻、ご相談ください」。
俺は、手紙を、机に置いた。
手紙の紙の縁が、わずかに、震えていた。
たぶん、震えていたのは、紙ではなく、それを握っていた、俺の指の方だった。
イリスが、卓の向こうから、こちらを、見た。
「サクヤ殿、いかがされましたか」
「教会が、二週間後に、儀式を、行うそうです」
彼女の杯が、卓の上で、ことり、と、置かれた。
杯の縁が、わずかに、揺れた。
翌朝、王都の市場では、商人たちが、いつもと違う祈祷文を、口ずさんでいた。
誰かが、夜のうちに、配り始めた「統一礼拝書」の朝の祈り、という小冊子だった。
市場の屋台の野菜売りの女が、それを、慎重に、読み上げていた。
彼女の顔に、悪気は、ない。
悪気のない人々を、悪気のない方法で、自分たちの言語から、引き剥がす作業が、もう、始まっていた。
俺は、市場の真ん中で、立ち尽くした。
頭の中の翻訳メモリは、その小冊子の文字を、四つの訳に、同時に、降ろしてきた。
その四つの訳のうちのどれも、現地の人々を、本当の意味で、救うものでは、なかった。
俺は、王宮へ、急いだ。
離宮の階段を、二段飛ばしで上がった。
階段を、二段飛ばしで上がる、というのは、九年ぶりだった。
その走り方は、九年前、初めての納期を、間に合わせるために、神保町の坂を、駆け上がったときの走り方と、似ていた。
離宮の窓辺で、俺は、九年間の生活と、今の生活の、差を、無意識に、計算していた。
九年間、東京の六畳一間で、毎晩、徹夜の合間に、自販機の缶コーヒーを、飲んでいた。
徹夜の合間の、缶コーヒーの温度は、いつも、机の上で、薄く、薄く、冷めていた。
今、王宮の離宮で、俺の前には、銀のティーポットと、薄く湯気の立つ、ハーブの茶が、用意されていた。
ティーポットの蓋の上に、銀の小さな獅子の細工が、彫られていた。
獅子の目が、ランプの光に、薄く、輝いていた。
その輝きの中で、俺は、ふと、九年間の缶コーヒーの缶の、底の、薄い、薄い、印字を、思い出した。
印字は、賞味期限、と、製造ロット番号だった。
九年間、俺は、缶の底の印字を、見るたびに、自分自身の人生にも、賞味期限がある、と、感じていた。
今、銀のティーポットの蓋の獅子は、賞味期限を、持たない。
獅子の目は、たぶん、何百年も、ランプの光を、薄く、薄く、受け止め続けている。
俺の人生は、賞味期限を、持たないかもしれない。
その想像は、九年間で、初めての、淡い、温かさを、こちらの胸に、薄く、薄く、染みさせた。
イリスが、卓の向こうで、薄く、笑った。
「サクヤ殿、何を、考えておられますか」
「賞味期限の、ない、もの、です」
「賞味期限、と、申しますと」
「いえ、こちらの言葉では、たぶん、お伝えしづらいので。生まれてからの、年月の、長さを、いつも、限定的に感じてきた、私の世界の習慣についての、考えごとです」
イリスは、首を、傾げた。
「御身の世界では、人は、自分の年月を、限定的に感じるのですか」
「ええ。労働の単価が、年月ごとに、決められているので、年月の蓄積が、必ずしも、価値の蓄積に、なりません」
「不思議な構造ですね」
「ええ。でも、こちらに来てから、たぶん、年月の蓄積は、別の文脈の中で、価値に、なれることが、分かりました」
彼女は、頷いた。
頷きながら、卓の上の手記を、薄く、撫でた。
手記の革の表面の、長年の指の跡が、ランプの光の中で、薄く、輝いた。
その輝きの中で、俺は、九年間の業務記録のフォルダのアイコンを、ふと、頭の中で、撫でた。
フォルダのアイコンの色も、たぶん、薄く、輝いていた。




