第十二章 教会の野望
王宮の三階、ヴァルティウス老師の執務室。
壁一面の書棚、机に積まれた羊皮紙の山、香炉から立ち上るハーブの煙。
老師は、椅子に深く座り、両手で、机の縁を、強く、握っていた。
俺と、イリスと、それから、王宮直属の影の長である、年配の女性が、机を囲んでいた。
影の長の名は、レネ。痩せた、無表情な女で、王宮内の諜報を統括している。
「教会の儀式の、本当の目的が、判明いたしました」
老師は、震える声で、切り出した。
机の上に、影の長レネが入手したという、教会内部の儀式準備文書が、広げられていた。
文書は、神聖言語と、教会公用語の対照訳で、書かれていた。
俺は、頭の中の翻訳メモリで、その対照訳を、もう一度、検証した。
対照訳の、教会公用語の方は、表向きの、合理的な説明だった。
「世界の言語を、神聖言語に統一することで、種族間戦争を、根絶する」。
しかし、神聖言語の方の本文は、まったく違うことを、書いていた。
俺は、文書の上を、指で、なぞった。
頭の中の翻訳メモリが、神聖言語の本文を、こう、訳した。
「十二の言語を、教会版神聖言語に、上書きする。十二の種族の固有の名詞、神話、歌、地名、人名、すべてを、教会の選定した語彙に、置換する。歴史書、契約書、墓碑銘、子守歌、すべてを、儀式の発動と同時に、書き換える。書き換えに耐えられぬ文書は、消去する」
俺は、文書から、指を、離した。
影の長レネが、低い声で、言った。
「サクヤ殿の訳は、こちらの諜報員の訳と、ほぼ、一致いたします」
ヴァルティウス老師は、両手で、顔を、覆った。
「これは、世界の、過去の、全消去です」
俺は、頷くことしか、できなかった。
神聖言語の単一化、というのは、要するに、世界中のあらゆる文書を、教会版の表現に、強制的に、書き換える行為だ。
ガロン坑のドワーフ古文書は、教会版神聖言語の中の「鉱脈」という単語に、置き換えられる。
ルヴァ少年の南方獣人語の名前は、教会版神聖言語の中の「孤児」という単語に、置き換えられる。
イリスの両親の最後の手紙は、教会版神聖言語の中の「通訳の遺言」という、味気ない一行に、置き換えられる。
双方の、固有の手触り、文脈、歴史、感情、すべてが、消える。
書き換えに耐えられない文書、というのは、たぶん、その固有性が強すぎて、教会の語彙に置換できない文書のことだ。
そういう文書は、消去される。
消去される、というのは、文字通り、頁の上から、文字が、消える、ということだ。
「サクヤ殿」
イリスが、低い声で、こちらを、呼んだ。
彼女の目に、十代の頃から積み上げてきた、両親の死に対する憤りが、再び、灯っていた。
「私の両親の手記も、消えますか」
「教会の儀式が、発動したら、たぶん、消えます」
彼女の指が、卓の縁を、握った。
握った指の関節が、白くなった。
しばらく、彼女は、息を、整えていた。
ようやく、彼女は、こちらを、見た。
「では、私は、教会と、戦います」
俺は、頷いた。
ヴァルティウス老師が、震える声で、言った。
「儀式の準備期間は、二週間。発動場所は、王都中央の中央神殿。儀式の中核を担うのは、ナカザト枢機卿。儀式の触媒として、各種族の言語の最も古い形を理解する『生贄』が、必要とされます。教会は、すでに、エルフ族の長老一人、ドワーフ族の老吟遊詩人一人、獣人族の古老一人を、確保しております」
老師の声が、震えた。
「そして、最後の触媒として、教会は、エルフ語の通訳の生き残りの娘、を、欲しがっております」
俺は、息を、呑んだ。
俺の隣で、イリスの肩が、わずかに、震えた。
影の長レネが、無表情のまま、彼女を、見た。
「カラスティア家のイリス殿。御身は、教会の、最終標的のお一人です」
「……はい」
「王宮は、御身の保護を、最優先で、行います」
イリスは、頷いた。
頷いて、頷いて、それから、こちらを、見た。
彼女の目は、震えていなかった。
むしろ、覚悟が、固まっていた。
「サクヤ殿。私が、教会の触媒に、なるのであれば、私を、内側から、儀式を、止めるための、囮として、使ってください」
俺は、首を、横に、振った。
「だめです」
「サクヤ殿」
「それは、両親が、書き残してくれた、『立ち続けなさい』という言葉に、反します。両親は、あなたを、生贄として、立たせたわけでは、ありません」
彼女は、こちらの目を、見つめた。
長い、長い、視線だった。
その視線の中で、俺は、九年間、誰の視線にも、応えられなかった自分が、今、応えている、ということを、自覚した。
ヴァルティウス老師が、ようやく、口を、開いた。
「サクヤ殿。儀式を、止めるためには、教会の中央神殿に、こちらから、攻め入る必要が、ございます」
「分かっています」
「そのためには、十二の種族の、それぞれの言語の最古の形を、保有する古老たちを、こちらの陣営に、結集させる必要がございます」
「分かっています」
「さらに、神聖言語を、教会の単一化に対抗する形で、逆に、十二の言語へ、無数の翻訳として、解き放つ、逆儀式が、必要となります」
「分かっています」
俺は、机に、両手を、置いた。
机の縁が、冷たかった。
「ヴァルティウス老師。逆儀式の発動には、何が、必要ですか」
「翻訳の蓄えを、持つ者、です」
俺は、頷いた。
頷きながら、頭の奥で、九年分の翻訳メモリのフォルダのアイコンが、もう一度、浮かんだ。
三百八十ギガバイト。
九年間、誰の名でもなく、積み上げてきた業務記録。
その記録が、今、世界の意味の多様性を、教会の単一化から、守る、最後の砦に、なりかけている。
影の長レネが、こちらに、目を、向けた。
「サクヤ殿。各種族の古老の招集は、こちらが、手配いたします。問題は、中央神殿への突入経路です」
「突入経路は」
「中央神殿の地下は、四百年前のガロン坑と、地脈で繋がっております。ドワーフ族長ガヴラン殿が、その地脈の存在を、ご祖父より、伝え聞いておられるかもしれません」
俺の頭の中で、ガロン坑、という単語が、響いた。
ガロン坑。
俺が、最初に訳した、ドワーフ古文書の、あの、純度九十九点八パーセントの、伝説の鉱脈。
あの鉱脈の坑道が、四百年越しに、中央神殿の地下と、繋がっている。
地味な業務記録が、また一つ、世界の防御線に、なる。
俺は、立ち上がった。
立ち上がるとき、椅子の脚が、石床に、軽い音を、立てた。
「みなさん。残り、二週間です。私の九年間の翻訳メモリと、皆様の経験と、各種族の古老の言語と、すべてを、合わせる必要が、あります」
老師が、頷いた。
影の長が、頷いた。
イリスが、頷いた。
離宮を出るとき、空は、夕焼けの赤を、まだ、残していた。
その赤の色は、深紅の法衣の色と、似ていなくも、なかった。
俺は、その色を、しばらく、見つめてから、夜の方を、見た。
夜は、深く、青く、両方の月を、抱えていた。




