表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
翻訳者が異世界転生して、九年分の翻訳メモリで世界を救う件 〜  作者: もしものべりすと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/22

第十章 ナカザト枢機卿

禁書庫から地上に戻ったその日の夕方、王宮の中庭の回廊で、俺は、彼と、出会った。


 深紅の法衣。


 三十代後半。


 痩身。


 頬骨が高く、薄い唇に、ほんのり、微笑みが浮いていた。


 その微笑みが、九年前、最初に中里PMの名刺をもらった日の、相手の微笑みと、ぴったり、同じ角度で、こちらの記憶に、嵌った。


 俺の足が、回廊の途中で、止まった。


 心臓が、一度、跳ねた。


「失礼。サクヤ・サクラ殿、で、いらっしゃいますね」


 声は、柔らかかった。


 九年間、何度も聞いた、柔らかさ。


 値切られる前の柔らかさ。


 単価交渉の前の柔らかさ。


 その柔らかさが、回廊の石柱の影の中で、こちらに、向けられた。


 俺は、頷いた。


 頷くしか、なかった。


「私、教会序列第二位、枢機卿のナカザトと申します。御身の名声、王都にて、つとに伺っております」


 ナカザト枢機卿は、軽く、頭を下げた。


 動作が、洗練されている。


 法衣の裾の捌き方が、長年、宮廷の床を歩いてきた人間の動きだった。


 俺は、ぎこちなく、礼を返した。


「ご丁寧に、ありがとうございます」


 枢機卿は、ふっと、微笑みを、深めた。


「サクヤ殿。御身のような『使い捨ての翻訳者』が、こんな大層な舞台に、立たれるとは。世界とは、皮肉なものですね」


 俺の心臓が、もう一度、跳ねた。


 今度は、跳ねる、というより、軋んだ。


 使い捨て、という、その三文字を、目の前のこの男は、確かに、口に出した。


 しかも、それを、ごく自然に、文の流れの中に、織り込んだ。


 九年前から、何度も、何度も、聞いた、その語感のままで。


「あの、今、なんと、仰いましたか」


 俺の声が、わずかに、低くなった。


 枢機卿の目が、ほんの一瞬、こちらの顔の、ある一点を、見た。


 その視線の先は、たぶん、こちらの目の奥の、九年前の、徹夜明けの会議室を、見ていた。


「いえ、特に、何も。御身のような優れた翻訳者の方を、もしや、私の故郷の言葉で『使い捨て』などと、馬鹿げた値踏みをした者が、おりませんでしたか」


 枢機卿の微笑みが、深まった。


 その微笑みが、こちらの内臓を、一枚ずつ、剥がしていく感覚があった。


 俺は、息を、整えた。


 頭の中の翻訳メモリが、警告を、出していた。


 目の前のこの男は、こちらの背景を、把握している。


 把握しているはずがない。


 把握しているはずがないのに、把握している。


「枢機卿、様」


 俺は、声を、絞り出した。


「失礼ながら、御身は、私のことを、どこから、ご存じで」


「教会には、十二の種族の言語を、織り合わせる古い儀式が、ございます。その儀式の中で、ときおり、来たるべき翻訳者の影が、見えるのです」


 ナカザトは、優雅に、両手の指先を、組み合わせた。


「御身は、その影と、一致いたします。九年間、地味な業務を、誰の名でもなく、積み上げて、ある朝、桜色の光の中で、翻訳記録ごと、こちらへ、運ばれて来られた」


 俺の指先が、冷たくなった。


 枢機卿は、付け加えた。


「教会は、近く、世界を救う儀式を、執り行います。十二の種族の、十二の言語を、一つの神聖言語に、統一する儀式です。世界の戦争は、すべて、言語の違いから生まれます。言語が一つになれば、戦争は、消えます。サクヤ殿。御身の翻訳の蓄えは、この儀式の、最大の助けに、なります。ぜひ、教会へ、お越しいただきたい」


 枢機卿の語り口は、極めて、合理的だった。


 九年間、中里が、単価交渉のときに使ってきた、あの合理性と、まったく、同じ温度の、合理性。


 俺は、頭の中で、一度、深呼吸した。


 頭の中の翻訳メモリは、警告を、強めていた。


 言語の統一が、戦争を消す、という主張。


 これは、表向きには、合理的に、聞こえる。


 しかし、神聖言語を一つの意味に固定する作業は、世界の意味の多様性の、強制的な、絶滅を、意味する。


 ガロン坑のドワーフ古文書も。


 ルヴァ少年の南方獣人語の名前も。


 イリスの両親の最後の手紙も。


 全部、消える。


 たった一つの、教会版神聖言語に、書き換えられる。


「枢機卿、様」


 俺は、できるだけ、自分の表情を、平らに、保った。


 九年間、中里に、笑顔のまま値切られた経験が、ここで、役に立つとは、思わなかった。


「お誘い、たいへん、光栄に存じます。ただ、私は、王宮翻訳師の任を、たった今、お受けしたばかりで、王宮の手続きを、優先する必要が、ございます」


 ナカザトは、表情を、変えなかった。


 ただし、微笑みの、角度が、ほんの少し、変わった。


 それは、九年前、最初に中里に「来週から納期前倒しでお願いします」と言ったときの、中里の微笑みの、角度と、まったく、同じだった。


「左様ですか。残念です。儀式の準備期間中、いつでも、心変わりされましたら、教会本部の門を、お叩きください」


 枢機卿は、礼を、しなかった。


 ただ、深紅の法衣の裾を、回廊の床に、滑らせて、去っていった。


 法衣の擦れる音が、石柱の間に、長く、長く、こだました。


 俺は、しばらく、回廊の途中に、立ち尽くしていた。


 遠くの渡り廊下から、イリスが、こちらに、駆けつけてきた。


 彼女は、こちらの肩を、軽く、握った。


「サクヤ殿。何か、ありましたか」


「あの男は、誰なのでしょうか」


「ナカザト枢機卿。教会序列第二位、神聖言語の最高解読官、次期教皇候補です」


 俺は、頷いた。


 頭の中で、九年前の、最初の中里との顔合わせの記憶が、勝手に、再生されていた。


 あの日、中里は、初めての会議室で、こう言った。


 「佐久良さんね、翻訳者は替えがいくらでもいるから、単価交渉、しっかりやらせてもらいますよ」。


 あの時の、中里の微笑みの角度と、ナカザト枢機卿の微笑みの角度が、寸分、違わなかった。


「イリスさん」


「はい」


「あの男と、私の世界の、ある男が、似ています」


 イリスは、首を傾げた。


 俺は、説明を、続けなかった。


 説明しても、彼女には、たぶん、伝わらない。


 でも、頭の中の翻訳メモリは、すでに、結論を出していた。


 ナカザト枢機卿は、たぶん、こちらの世界の中里の、もう一つの存在形態だ。


 あるいは、世界をまたいで、同じ性質の人間は、同じ役割を、勝手に、再生産する。


 九年間、俺を「使い捨て」と呼んだ男と、世界を救う儀式の責任者の顔が、同じ角度で、笑った。


 その晩、王宮内の客間で、俺は、九年前の中里の最初の顔合わせの場面を、夢に見た。


 夢の中で、中里は、深紅の法衣を、着ていた。


 俺は、徹夜明けの目を、夢の中で、もう一度、無理矢理、こすった。



 その夜、王宮の客間の暖炉の脇で、俺は、ヴァルティウス老師と、長い、長い、話をした。


 暖炉の薪の音が、低く、低く、鳴っていた。


 老師は、薄い茶を、両手で、抱えていた。


 俺は、自分の中の九年前の中里PMの記憶を、丁寧に、丁寧に、老師に、説明した。


 使い捨て、という言葉の意味。


 単価半額の交渉。


 九年間の徹夜の記録。


 俺の世界の、業界の構造。


 俺が、こちらに来た朝の、桜色の光の経緯。


 老師は、長い間、頷きで、聞いていた。


 ようやく、老師は、こう、答えた。


「サクヤ殿。世界が、いくつあろうと、同じ性質の人間は、似たような場所に、勝手に立つものです」


「と、言いますと」


「言葉を、独占しようとする者と、言葉を、開こうとする者。世界の構造は、いつも、その二つの勢力の、せめぎ合いです。御身の世界の中里と、こちらの世界のナカザト枢機卿は、たぶん、同じ勢力の、別の表現にすぎませぬ」


 俺は、頷いた。


 頷きながら、頭の中で、九年間の業務記録の中の、契約書の不可抗力条項の対訳を、もう一度、開いた。


 契約上の不可抗力には、自然災害、戦争、暴動、検疫、規制変更、などが、含まれる。


 しかし、契約の中で、最も、防ぎがたい不可抗力は、契約相手の悪意、だった。


 九年間、俺は、その悪意を、不可抗力として、受け入れ続けてきた。


 しかし、不可抗力は、本来、防ぐべき相手では、ない。


 不可抗力は、契約上、責任の所在を、明確化するための、文言にすぎない。


 ナカザト枢機卿のような、悪意の発信者を、不可抗力として、受け入れ続けるのは、契約の解釈として、誤りだった。


 俺は、その誤りに、九年経って、ようやく、気づいた。


 契約書の翻訳を、九年間、訳してきた人間が、自分自身の契約解釈を、ここで、初めて、見直した。


「ヴァルティウス老師」


「はい」


「私の九年間の、業務記録の中に、契約の不可抗力条項の対訳が、たくさん、入っております。あの対訳の中で、私は、ずっと、契約相手の悪意を、不可抗力として、受け入れてきました。それは、たぶん、誤った解釈でした」


 老師は、低く、笑った。


 暖炉の火の影が、老師の白い髭の上で、薄く、揺れた。


「サクヤ殿。御身は、たった今、御身の九年間の翻訳メモリの最初の修正を、行われました」


「修正、ですか」


「悪意は、不可抗力ではない。それを、御身の翻訳メモリの中に、新たな注釈として、登録されました。これから、御身の業務記録は、その注釈のもとで、世界の意味を、守る道具に、なっていきます」


 俺は、頷いた。


 頷きの中で、頭の中の翻訳メモリのフォルダの中の、契約書フォルダの、不可抗力対訳の頁に、薄く、薄く、新しい注釈が、追加された。


 その注釈は、たぶん、ナカザト枢機卿の儀式を止めるための、重要な道具の一つに、なる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ