第十章 ナカザト枢機卿
禁書庫から地上に戻ったその日の夕方、王宮の中庭の回廊で、俺は、彼と、出会った。
深紅の法衣。
三十代後半。
痩身。
頬骨が高く、薄い唇に、ほんのり、微笑みが浮いていた。
その微笑みが、九年前、最初に中里PMの名刺をもらった日の、相手の微笑みと、ぴったり、同じ角度で、こちらの記憶に、嵌った。
俺の足が、回廊の途中で、止まった。
心臓が、一度、跳ねた。
「失礼。サクヤ・サクラ殿、で、いらっしゃいますね」
声は、柔らかかった。
九年間、何度も聞いた、柔らかさ。
値切られる前の柔らかさ。
単価交渉の前の柔らかさ。
その柔らかさが、回廊の石柱の影の中で、こちらに、向けられた。
俺は、頷いた。
頷くしか、なかった。
「私、教会序列第二位、枢機卿のナカザトと申します。御身の名声、王都にて、つとに伺っております」
ナカザト枢機卿は、軽く、頭を下げた。
動作が、洗練されている。
法衣の裾の捌き方が、長年、宮廷の床を歩いてきた人間の動きだった。
俺は、ぎこちなく、礼を返した。
「ご丁寧に、ありがとうございます」
枢機卿は、ふっと、微笑みを、深めた。
「サクヤ殿。御身のような『使い捨ての翻訳者』が、こんな大層な舞台に、立たれるとは。世界とは、皮肉なものですね」
俺の心臓が、もう一度、跳ねた。
今度は、跳ねる、というより、軋んだ。
使い捨て、という、その三文字を、目の前のこの男は、確かに、口に出した。
しかも、それを、ごく自然に、文の流れの中に、織り込んだ。
九年前から、何度も、何度も、聞いた、その語感のままで。
「あの、今、なんと、仰いましたか」
俺の声が、わずかに、低くなった。
枢機卿の目が、ほんの一瞬、こちらの顔の、ある一点を、見た。
その視線の先は、たぶん、こちらの目の奥の、九年前の、徹夜明けの会議室を、見ていた。
「いえ、特に、何も。御身のような優れた翻訳者の方を、もしや、私の故郷の言葉で『使い捨て』などと、馬鹿げた値踏みをした者が、おりませんでしたか」
枢機卿の微笑みが、深まった。
その微笑みが、こちらの内臓を、一枚ずつ、剥がしていく感覚があった。
俺は、息を、整えた。
頭の中の翻訳メモリが、警告を、出していた。
目の前のこの男は、こちらの背景を、把握している。
把握しているはずがない。
把握しているはずがないのに、把握している。
「枢機卿、様」
俺は、声を、絞り出した。
「失礼ながら、御身は、私のことを、どこから、ご存じで」
「教会には、十二の種族の言語を、織り合わせる古い儀式が、ございます。その儀式の中で、ときおり、来たるべき翻訳者の影が、見えるのです」
ナカザトは、優雅に、両手の指先を、組み合わせた。
「御身は、その影と、一致いたします。九年間、地味な業務を、誰の名でもなく、積み上げて、ある朝、桜色の光の中で、翻訳記録ごと、こちらへ、運ばれて来られた」
俺の指先が、冷たくなった。
枢機卿は、付け加えた。
「教会は、近く、世界を救う儀式を、執り行います。十二の種族の、十二の言語を、一つの神聖言語に、統一する儀式です。世界の戦争は、すべて、言語の違いから生まれます。言語が一つになれば、戦争は、消えます。サクヤ殿。御身の翻訳の蓄えは、この儀式の、最大の助けに、なります。ぜひ、教会へ、お越しいただきたい」
枢機卿の語り口は、極めて、合理的だった。
九年間、中里が、単価交渉のときに使ってきた、あの合理性と、まったく、同じ温度の、合理性。
俺は、頭の中で、一度、深呼吸した。
頭の中の翻訳メモリは、警告を、強めていた。
言語の統一が、戦争を消す、という主張。
これは、表向きには、合理的に、聞こえる。
しかし、神聖言語を一つの意味に固定する作業は、世界の意味の多様性の、強制的な、絶滅を、意味する。
ガロン坑のドワーフ古文書も。
ルヴァ少年の南方獣人語の名前も。
イリスの両親の最後の手紙も。
全部、消える。
たった一つの、教会版神聖言語に、書き換えられる。
「枢機卿、様」
俺は、できるだけ、自分の表情を、平らに、保った。
九年間、中里に、笑顔のまま値切られた経験が、ここで、役に立つとは、思わなかった。
「お誘い、たいへん、光栄に存じます。ただ、私は、王宮翻訳師の任を、たった今、お受けしたばかりで、王宮の手続きを、優先する必要が、ございます」
ナカザトは、表情を、変えなかった。
ただし、微笑みの、角度が、ほんの少し、変わった。
それは、九年前、最初に中里に「来週から納期前倒しでお願いします」と言ったときの、中里の微笑みの、角度と、まったく、同じだった。
「左様ですか。残念です。儀式の準備期間中、いつでも、心変わりされましたら、教会本部の門を、お叩きください」
枢機卿は、礼を、しなかった。
ただ、深紅の法衣の裾を、回廊の床に、滑らせて、去っていった。
法衣の擦れる音が、石柱の間に、長く、長く、こだました。
俺は、しばらく、回廊の途中に、立ち尽くしていた。
遠くの渡り廊下から、イリスが、こちらに、駆けつけてきた。
彼女は、こちらの肩を、軽く、握った。
「サクヤ殿。何か、ありましたか」
「あの男は、誰なのでしょうか」
「ナカザト枢機卿。教会序列第二位、神聖言語の最高解読官、次期教皇候補です」
俺は、頷いた。
頭の中で、九年前の、最初の中里との顔合わせの記憶が、勝手に、再生されていた。
あの日、中里は、初めての会議室で、こう言った。
「佐久良さんね、翻訳者は替えがいくらでもいるから、単価交渉、しっかりやらせてもらいますよ」。
あの時の、中里の微笑みの角度と、ナカザト枢機卿の微笑みの角度が、寸分、違わなかった。
「イリスさん」
「はい」
「あの男と、私の世界の、ある男が、似ています」
イリスは、首を傾げた。
俺は、説明を、続けなかった。
説明しても、彼女には、たぶん、伝わらない。
でも、頭の中の翻訳メモリは、すでに、結論を出していた。
ナカザト枢機卿は、たぶん、こちらの世界の中里の、もう一つの存在形態だ。
あるいは、世界をまたいで、同じ性質の人間は、同じ役割を、勝手に、再生産する。
九年間、俺を「使い捨て」と呼んだ男と、世界を救う儀式の責任者の顔が、同じ角度で、笑った。
その晩、王宮内の客間で、俺は、九年前の中里の最初の顔合わせの場面を、夢に見た。
夢の中で、中里は、深紅の法衣を、着ていた。
俺は、徹夜明けの目を、夢の中で、もう一度、無理矢理、こすった。
その夜、王宮の客間の暖炉の脇で、俺は、ヴァルティウス老師と、長い、長い、話をした。
暖炉の薪の音が、低く、低く、鳴っていた。
老師は、薄い茶を、両手で、抱えていた。
俺は、自分の中の九年前の中里PMの記憶を、丁寧に、丁寧に、老師に、説明した。
使い捨て、という言葉の意味。
単価半額の交渉。
九年間の徹夜の記録。
俺の世界の、業界の構造。
俺が、こちらに来た朝の、桜色の光の経緯。
老師は、長い間、頷きで、聞いていた。
ようやく、老師は、こう、答えた。
「サクヤ殿。世界が、いくつあろうと、同じ性質の人間は、似たような場所に、勝手に立つものです」
「と、言いますと」
「言葉を、独占しようとする者と、言葉を、開こうとする者。世界の構造は、いつも、その二つの勢力の、せめぎ合いです。御身の世界の中里と、こちらの世界のナカザト枢機卿は、たぶん、同じ勢力の、別の表現にすぎませぬ」
俺は、頷いた。
頷きながら、頭の中で、九年間の業務記録の中の、契約書の不可抗力条項の対訳を、もう一度、開いた。
契約上の不可抗力には、自然災害、戦争、暴動、検疫、規制変更、などが、含まれる。
しかし、契約の中で、最も、防ぎがたい不可抗力は、契約相手の悪意、だった。
九年間、俺は、その悪意を、不可抗力として、受け入れ続けてきた。
しかし、不可抗力は、本来、防ぐべき相手では、ない。
不可抗力は、契約上、責任の所在を、明確化するための、文言にすぎない。
ナカザト枢機卿のような、悪意の発信者を、不可抗力として、受け入れ続けるのは、契約の解釈として、誤りだった。
俺は、その誤りに、九年経って、ようやく、気づいた。
契約書の翻訳を、九年間、訳してきた人間が、自分自身の契約解釈を、ここで、初めて、見直した。
「ヴァルティウス老師」
「はい」
「私の九年間の、業務記録の中に、契約の不可抗力条項の対訳が、たくさん、入っております。あの対訳の中で、私は、ずっと、契約相手の悪意を、不可抗力として、受け入れてきました。それは、たぶん、誤った解釈でした」
老師は、低く、笑った。
暖炉の火の影が、老師の白い髭の上で、薄く、揺れた。
「サクヤ殿。御身は、たった今、御身の九年間の翻訳メモリの最初の修正を、行われました」
「修正、ですか」
「悪意は、不可抗力ではない。それを、御身の翻訳メモリの中に、新たな注釈として、登録されました。これから、御身の業務記録は、その注釈のもとで、世界の意味を、守る道具に、なっていきます」
俺は、頷いた。
頷きの中で、頭の中の翻訳メモリのフォルダの中の、契約書フォルダの、不可抗力対訳の頁に、薄く、薄く、新しい注釈が、追加された。
その注釈は、たぶん、ナカザト枢機卿の儀式を止めるための、重要な道具の一つに、なる。




