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翻訳者が異世界転生して、九年分の翻訳メモリで世界を救う件 〜  作者: もしものべりすと


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第九章 禁書庫

謁見の翌朝、俺は、王宮の地下にある禁書庫へ、案内された。


 案内人は、ヴァルティウス老師本人だった。


 老師は、ローブの裾を引きずるようにして、俺の前を、ゆっくりと歩いた。


 地下への階段は、二百二十段あった。


 石段の脇に灯る燭台の蝋燭の数が、降りるごとに、減っていく。


 最後の五十段は、老師の懐ろから出した銀のランプの光だけが、頼りだった。


 ランプの中の燃料は、油と、ハーブの混合物らしく、独特の、甘い香りが、湿った石壁の匂いに混ざっていた。


 禁書庫の扉は、青銅製。


 扉の表面に、十二の星座と、十二の言語の銘文が、放射状に刻まれている。


 謁見の間の天井画と、同じ意匠だ。


 老師は、震える手で、扉の中央の、月の意匠を、撫でた。


「この扉は、王と、筆頭言語学者と、聖翻訳師のみが、開くことを、許される」


 老師は、こちらに、月の意匠を、指し示した。


「サクヤ殿。御身の手で、これを、押してください」


 俺は、頷いた。


 手のひらを、月の意匠に、重ねた。


 冷たい。


 手のひらの熱が、青銅の中に、ゆっくり、吸い込まれていく。


 数秒後、扉の中で、低い、機構の音がした。


 歯車が回り、閂が、外れた。


 扉は、誰の力も借りずに、内側へ、ゆっくり、開いた。


 禁書庫の内部は、思ったより、狭かった。


 奥行きは、十メートルほど。


 左右の壁に、棚が並び、棚の上には、革張りの本が、整然と並べられている。


 本の数は、合計で、三百冊ほどだろうか。


 しかし、その三百冊の一冊一冊が、ぞくり、と、背に来た。


「禁書庫の本は、いずれも、神聖言語、あるいは、神聖言語と他言語の対照訳本にござります」


 老師は、棚の一冊を、慎重に取り出した。


 革張りの本だが、革は、これまで見たどの皮革とも、違う質感だった。


 獣の皮ではなく、何か、植物の繊維と、鉱物の粉を、織り合わせたような。


 頭の中の翻訳メモリが、注釈してきた。


 「神々の繊維」と呼ばれる、起源不明の素材。


 老師は、その本を、机の上に、置いた。


 頁を、慎重に、開いた。


 頁の中央に、たった一節、神聖言語の文字が、並んでいた。


 他には、何も、書かれていない。


 空白の頁。


 その空白が、文字よりも、雄弁に、何かを、語っていた。


「これを、お読みいただけますか」


 俺は、頷いた。


 頭の中の翻訳メモリが、唸る。


 唸って、唸って、それから、訳の候補が、複数、浮かび上がった。


 ただし、今回は、候補同士が、互いに、相反していた。


 予言、と、警告、と、約束、と、四つの、まったく違う訳語が、同時に、立ち上がる。


 俺は、その四つを、すべて、声に出すことに、決めた。


 翻訳者として、こういう時、勝手に一つを選んで、他を切り捨てるのは、誠実ではない。


 俺は、息を、整えた。


「予言として読めば、こう訳されます。言語を、一なるものに統べる者、来たる時、世界は、意味を失い、無に帰す」


 老師の顔色が、変わった。


「警告として読めば、こう訳されます。言語を、一なるものに統べてはならない、それは、世界の、意味の、終わりに、つながる」


 老師の指が、机の縁を、握った。


「約束として読めば、こう訳されます。翻訳の蓄えを、持つ者のみ、これを、退けることが、できる」


 老師の口が、開いたまま、止まった。


「願いとして読めば、こう訳されます。願わくば、翻訳の蓄えを持つ者の、訪れることを、神々は、待ち望んでおられた」


 禁書庫の中の空気が、いつの間にか、止まっていた。


 老師は、机の上に、両手を、置いた。


 両手で、机の縁を、押し付けるようにして、立ち姿勢を、保っていた。


 長い、長い、沈黙の後、老師は、低い声で、言った。


「四つ、ですか」


「はい。四つの候補が、同時に、降りてきました。どれが正しいとも、言えません」


「サクヤ殿。それで、いいのです」


 老師は、ようやく、顔を上げた。


 その目には、これまでにない、強い光があった。


「神聖言語は、一つの意味に、固定して、訳すと、死ぬ言語です。複数の訳が、同時に立ち上がる、その状態が、神聖言語の、生きた、姿です」


 俺は、頷いた。


 頷きながら、頭の奥で、何かが、結びついた。


 翻訳メモリの中の、医療機器マニュアルの「警告」の頁の訳。


 あの頁の中で、俺は、たった一文の警告を、四種類の訳に、訳し分けていた。


 手術前の医師向け、看護師向け、技術者向け、患者向け。


 同じ警告でも、対象が違えば、訳が違う。


 それぞれの訳は、独立して、同時に、正しい。


 神聖言語というのは、もしかしたら、そういう、複数の対象を、同時に、想定して創られた、言語、なのかもしれない。


「翻訳の蓄えを、持つ者」


 俺は、繰り返した。


 自分の頭の中の、九年分の翻訳メモリの、フォルダのアイコンが、浮かんだ。


 誰も、見たことのない、誰も、褒めたことのない、地味な業務記録の集合。


 三百八十ギガバイトの、業務処理の蓄積。


 その蓄積が、今、目の前の、神々の繊維で綴られた本の前で、ようやく、対応する道具として、立ち上がっている。


「ヴァルティウス老師。神聖言語の役割は、何なのでしょうか」


 俺の問いに、老師は、長い間、答えなかった。


 ようやく、こう、答えた。


「私の五十年の研究では、結論は、出ませんでした。しかし、御身が、たった今、四つの訳を、同時に提示された姿を、見て、私は、ようやく、結論の手前まで、来ました」


「と、いいますと」


「神聖言語は、たぶん、神々が、世界に、複数の意味を、許すために、創られた言語、なのでしょう。神々は、世界を、一つの意味に、閉じ込めることを、嫌われた」


 俺は、頷いた。


 禁書庫の燭台の炎が、ゆっくりと、揺れた。


 炎の影が、棚に並ぶ三百冊の本の背に、揺れた。


 老師は、付け加えた。


「サクヤ殿。教会は、これを、認めておりません」


「と、言いますと」


「教会は、神聖言語を、一つの正典に、固定しようとしています。三百年前から、密かに、その作業を、進めております。表向きは、世界平和のため、と称しております」


 俺は、ぞくり、と、した。


 頭の中の翻訳メモリが、注釈を、加えてきた。


 神聖言語の単一化は、神聖言語の死を意味する。


 神聖言語の死は、世界の意味の多様性の、強制的な、統一を、意味する。


 多様性の強制統一は、要するに、文化の絶滅だ。


「教会の、現在の責任者は、誰なのでしょうか」


 老師は、目を細めた。


「教会序列第二位、枢機卿。御名を、ナカザト、と申されます」


 俺の背筋が、冷たくなった。


 なぜ、冷たくなったのか、その瞬間は、まだ、分からなかった。


 ただ、ナカザト、という三音節が、頭の中で、別の、もっと現代的な三音節に、重なった気がした。


 禁書庫を出るとき、扉の青銅が、ぱたん、と、低く、閉じた。


 階段を昇る道で、ヴァルティウス老師の小さな影が、こちらの肩越しに、ランプの光に、揺れていた。

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