「だから、全部私にちょうだい」
「はぁ……」
家に逃げ帰ってから、いや、逃げ帰る道中から既に、後悔が私を支配していた。靴を脱ぐ間もなく、玄関にしゃがみ込む。
普通に過ごしさえすれば良かったものを、無駄に陽向を意識してしまったせいで、気を遣わせて、あまつさえ傷つけてしまった可能性だってある。迷惑をかけないように感情にブレーキをかけているはずなのに、結果は違う形で迷惑をかけることになっていた。
「──っ」
本当に、自分が嫌になる。そんな気もない相手に勝手に行き過ぎた好意を抱いて、邪な目で見つめて、違和感を覚えさせるような態度をとって。心底、自分が気持ち悪い。
しかも、かつての友人とは違って、まだ陽向からは拒絶されているような素振りは見せられていないのに、勝手に自滅して。そんなの、陽向に失礼な話だ。
でも、あのまま関係を続けていれば、どんどん溺れていって、依存してしまうような気がして。また、同じ過ちを繰り返してしまう未来が見えて、怖かった。
うずくまったまま、声を押し殺して涙を流していると、スマホが振動しだした。──陽向だ。
前回のこともあるから、シカトしたくはないとは思うけれど、今出たところで、まともに話せないし、震える声を聞かれるのも嫌だった。着信が切れてすぐ、文章で返信をすべく、文字を打つ。
『急に帰ってごめん』
『全部私が悪いから、気にしないで』
『とにかくごめん』
返事をされる前に連投して、言い方、というか認識を間違えたかもしれないとすぐに後悔する。気にしないで、なんて言う立場でもないだろう。
涙をぬぐって鼻をすすりながら、自己嫌悪のサイクルに飲み込まれていると、インターホンが鳴る。こんなタイミングで、なんとも間が悪い。
宗教勧誘だか公共放送だか知らないが、勘弁して欲しい。でも、そんなこと、相手にすれば知ったことではないし、所詮、人生なんてそんなものだと思い知らされる。なにもかも自分の都合の良いように周りが動くわけがないのだ。とにかく不在を装うために、さらに声を押し殺した。
そうやってやり過ごすつもりが、後ろからガチャリ、とドアが開く気配がした。身体が固まる。
……やってしまったな。ふと、陽向に戸締りはしっかりね、と言われたときのことがフラッシュバックした。このことを知られたら怒られるかもな、なんて現実逃避のように呑気な思考が頭をよぎった。
「えっ……、晴香!?」
物騒なことになるとばかり思っていたけれど、聞こえてきたのは、ちょうど思い返していた、聞き覚えのある声だった。固まった身体が安心で一度弛緩して、しかし再度強張る。どうしてここに、なんて言える立場でもないけれど、こんな醜態を晒したくもなかった。
「ちょっ、どうしたの、大丈夫!?」
泣き顔を見られたくなくて顔を膝に埋めたままでいると、心配した陽向もしゃがみ込んで、私の背中をさすり出した。触れる手が温かくて、そんなものを享受していい自分ではないと思っているのに、どうしようもなく心地よさを覚えてしまう。
「……なんで」
「え?」
「なんで、私なんかにこだわるの。私なんか、深く関わったって良いことないのに。ずっと、良いお客さんとして放っておいてた方が良かったのに」
私なんか、なんて言ってしまえば、嘘だろうが本当だろうが、相手から慰めの否定がされるのなんて分かりきっている。だから、こんなことは思っていても言うべきではない。そう分かってはいるのに、どうしても言わずにはいられなかった。
「……逆にさ、なんで晴香はそう思うの?」
「それは……」
その問いに対する答えには言えない理由が多すぎて、言葉に詰まっていると、陽向が話し出した。
「──前も似たようなこと言ったけどさ、私は晴香のおかげで今があるし、本当に大事に思ってるから。……正直気分悪いよ、そう言う風に言われるの。いくら本人でも」
「……ごめん」
「別に、謝って欲しいわけじゃないけど」
はぁ、とため息をつく陽向に、嫌なふうに心臓が脈打つ。ここまできてようやく、具体的なことに言及しないようにしながらも、聞かれたことに答えることにした。
「──私は、もう誰かに、特に大事な人には、迷惑かけたくないし、嫌な思いをさせたくも、したくもないの」
震える声が、本当に嫌だ。建前じゃなくて本心なのに、言行不一致にもほどがある。そんな自己嫌悪のループが止まらない中で、粘り強く陽向は声をかけてくる。
「晴香がそんなに大事に思ってくれるなんて嬉しいよ、私は。嫌な思いなんてしないし、迷惑だなんて思わない」
「そんなの分かんないじゃん、まだ。私は……、今まだずっと抑えてるし、これでも。まともに向き合ったら、鬱陶しいから、やめたほうがいいって」
「それこそ分かんないでしょ」
「分かるよ、だって……」
だって、既にその経験があるのだから。
なんなら、今だってそうだ。面倒なことこの上ない。私が陽向の立場なら、苛立ってさっさとこの場を立ち去っているだろう。
本当に、我ながら馬鹿だと思う。関係を続けるために変にあがいて、かえって問題を起こし続けて。よくもまあ、相手にしてくれているものだ。
私の感性とは違い、彼女は諦めてくれる素振りもなく、なおも黙り込む私を包み込む。
「それは……。言いたくないなら、言わないでもいいけど、誰かに煙たがられたことがあるの?」
煙たがられた。なるほど、そういう表現が一番的確なのかもしれない。でも、なんだかそれは、あの子に悪いように思えて、否定しなければ、と咄嗟に口を開いた。
「いや、全部、私が悪いの。勝手に懐いて、ひっつき回って、鬱陶しいって思われるの、当たり前だし」
「そんなこと──」
「いいの。そりゃ、邪険にされて悲しい、みたいな? あったけど、すごく、……っ、それ以上にっ、恩が、あるから。恨みたく、ないし」
慌ててしまって、なんだか余計なことも言ってしまったかもしれない。過去の出来事は全て自分視点の物語に過ぎなくて、相手が実際どんなことを考えて、感じていたかなんて分からない。間違っていることも多いだろう。だから、人に話すわけにはいかないと内に秘めてきた。
それに、どうしても相手が悪いような口ぶりになって、被害者面をしている気分になるのも嫌だった。楽しい思い出も、お世話になった思い出もいっぱいあるのに。むしろ、悪いのは自分であって、向こうはなんにも悪くないんだ。
しゃくり上げそうになるのを我慢して、それでも堪えきることは到底できなかった涙が頬を伝うのを感じながら、どうにか話し切った。
「晴香」
ずっと黙って聞いていた陽向が、どこか怒気をはらんだ声で私の名前を呼ぶ。
「晴香にとって、その人がいくら大事な存在でも、どんなに恩があったとしても、傷つけられたことには怒っていいんだよ」
「え……?」
「晴香からしたら、その人の良いところもいっぱい知ってて、お世話になったって記憶があって、だからこそ憎めないのかもしれない。……けど私からしたら、晴香を傷つけた奴だから、許せないし心底腹が立つ!」
ここまで感情的に話す陽向は見たことがない。そしてその真っ直ぐさと言葉に、今までとは違う意味で感情が揺さぶられて、涙が込み上げてくる。
「全部自分が悪いって反省して、他人のせいにしないのは晴香のいいとこなんだろうけどさ、傷つけられた痛みまで誤魔化さないでいい。どうしても憎めないなら、私が代わりに怒るから。……だから、素直に辛いって、泣いていいんだよ」
抱き締められて、数瞬遅れてついに堰き止めていた堤防が決壊する。陽向にすがりつきながら、ただただ嗚咽する。落ち着かせるように背中を優しく叩かれて、それがまた心に染みて涙がこぼれた。
「人を好きになるのは悪いことじゃない。少なくとも私は、晴香にどれだけ愛されたって迷惑じゃないよ。──ううん、むしろ嬉しいし、ずっとそれが欲しかった」
なお続く陽向の言葉。上手く回らない頭で、それでも一言一句取りこぼさないように耳を傾ける。
「だから、全部私にちょうだい。今まで抑えてた分も、これから湧き上がる分も。晴香の愛、全部私が、私だけが受け取るから。分かった?」
「……うん」
重大なことを言われた気がするけれど、まだ脳が完全に働いていない中で、何を言われているのか消化し切れないまま、問いかけにただ頷く。
一層強く抱き締められた息苦しさが、長く虚ろだった心を満たした。




