「そっか。分かった、ごめんね?」
「ねえ晴香、今ひま? おしゃべりしよーよ」
「あっ、晴香。昨日のニュース見た? ビックリしたよねアレ──」
「晴香、おはよー!」
あの日以来、私の日常に陽向がどんどんと侵食してきている。
元々、アイドル美城由唯は私の人生の一部となっていたから、その由唯から離れて欠けた部分が、同じだけれども違う存在へと入れ替わりになったようなもの。
けれど、その差異は大きなものだ。
『おーい、今日もおサボりですか〜?』
美紀からの連絡を既読をつけることなく一旦スルーして、スマホを放りベッドに寝転がった。
これは決してサボりなどではない。もう卒業に必要な単位には目処がついているから、興味本位で履修登録した講義を、やっぱりいいかと思って切っただけだ。とはいえ必修、ゼミは行かねばならないけれど。
「はぁ……」
気が重い。勉学も研究も嫌いではないから、大学に行くのが面倒だったときこそあれ、苦であったことなんてない。
それもこれも、全部由唯の、陽向のせいだ。
大学入学当初、美紀にしつこいくらいに話しかけられて、それが今の今まで付き合いが続いているという話をしたせいだろうか。学内で陽向に捕まる頻度が、どんどんと増えていた。それを参考にされても、全く状況が違っているのに。
美紀のときは、必修の授業で顔を合わせてしまうことが分かっていた。それは避けられない以上、心構えをして臨むことができていた。
それに正直、地元を離れて知り合いもいない完全な一人だったから、さしもの私も不安や心細さがあって、なんだかんだで受け容れた側面もある。
最悪、関係が破綻しても学部の授業で少々気まずいくらいだという気楽さもあった。
一方、陽向は神出鬼没で、いつ現れるのか、さっぱり分からない。だから迎えうつ準備のしようもなくて、そんなに常に気を張っておくのも疲れてしまう。
そしてなにより、美紀にはある気楽さというものが、陽向に対しては一ミリもない。別人格であるとはいえ、私は由唯が好きだったし、いや、今でも好きだし、その延長で陽向のことだってどちらかといえば好意的に見ている。良くないことかもしれないが、それは仕方ない。
そんな陽向に、深く関わることで自分を知られるのは怖かった。何故か私に推されることを誇りに思うとまで言ってのけていた彼女が、今この私をどういう風に認識しているのかは知らないけれど、知られれば知られるだけ、近づけば近づくだけ、失望されてしまうように思えて、それが、怖い。
大事に思えばこそ、失うことを考えてしまって、それが嫌で得ることすら躊躇してしまう。
友達になって欲しいだなんて言ってもらえたときは、多分、嬉しかった、のだと思う。それは自分の、自分だけの知りうる感情なのに、そんな内心でさえ誰からともなく隠すように、なんでもないように振る舞って、怯えて、見失ってしまった。
そうして、時間が経つごとに、ネガティブな思考ばかりが頭の中に巡っていく。けれど、そんな私のことなんて知る由もない陽向は、グイグイと迫ってくる。平静を装って、なんなら冷たいような態度を取ってしまっていたけれど、心の内側ではパニックを起こしていて。
つまるところ、もう、限界だった。
もちろん、嫌いになったなどというわけではない。彼女の願い通り、由唯ではなく陽向のことを知ろうという気概もある。ただ、急に距離を詰められているところを、一度間を置いて冷静にならせて欲しいのだ。
ただ、家で何もすることがなくゴロゴロしているだけだと、結局考えてしまうのは彼女のことで、現状は何も切り替えることができていない。
そのとき、またスマホが着信を知らせてきた。ノロノロと手繰り寄せて、画面を点ける。
『大丈夫? 生きてる?』
その連絡の主は、最近追加されたばかりの人物。──そう、陽向だった。
なんと返したものか、悩みの種がまた増えてしまった。先に美紀の分も返信しなければならないし、とにかく億劫な気分だ。
「ふぅ……」
一旦全てを放棄し、スマホを置いて枕に顔を埋めた。また後で返すから、と言い訳して、瞼を閉じる。
自分を俯瞰しているもう一人の自分が、何をそんなに怯えているのか、何をそんなに友達ごときに重く考えているのか、と問いただす。気にしなければいいものを、何度も何度も同じ思考を繰り返しているのに、納得するまでに至らない。
眠るつもりはなかったけれど、うつ伏せに寝転がって思考に耽るうちに意識が混濁していく。
──次に目が覚めたのは、物騒な物音によってだった。
「ぅえ……?」
最初に意識が浮上したとき、真っ先に思ったのは、寝過ぎた、ということだった。外はすっかり暗くなっていて、カーテンが開かれている窓からは外の街灯の光が見えた。
まるで留守にしているみたいだし危ないな、閉めないと、などとぼんやり考えていた中、ドアを叩く音が聞こえてきて、急激に意識が覚醒した。同時に、身が竦む。
インターホンを見やると、赤いランプが点滅していて、気がつかなかっただけで呼び鈴は鳴らされているようだった。中に自分がいることを悟られないよう、慎重に足音を殺して近づき、履歴を再生する。
そこに映っていた人影を見た瞬間、安心と緊張、怒り、困惑、色々な感情が押し寄せる。けれど一歩引いた位置の自分が、これ以上は大事になる可能性がある、と己を玄関へと向かわせた。
鍵を開け、扉を開くと、そこには酷く焦った様子の、見たことのない表情を浮かべた由唯がいた。
「──あっ、晴香! 良かった……。心配したよ、本当に」
「なに、してるの?」
「いや何って……。珍しく休んでるし、連絡も全然返事こないし、既読もつかなくて。美紀ちゃんに聞いても同じだったから、倒れてたりとかしないかなって。電話もしたけど、出ないしさ」
それで、わざわざ家まで来たと言うのだろうか。そんなの、おかしな話だ。
「別に、ちょっと寝てただけなのに。丸何日も連絡つかないならまだしも、大げさだよ」
「でも」
「とにかく大丈夫だから」
「本当に?」
「本当だって」
「でも、避けてるでしょ」
唐突に話の角度が変わって、脇腹を刺されたような。
これは、私の体調の話ではなかったのか。それとも、一目見て問題ないと分かったから、舵を切ったのだろうか。
返事を紡げずに黙っていると、重ねて尋ねられる。
「図星ってこと?」
「違う、そんなことない」
「じゃあ、このままいなくなったりしない?」
「しない。しないから……、とにかく今日は帰って」
落ち着いて考えてみれば、心配して様子をうかがいに来てくれた相手に対して、ひどい言いようだった。けれど、そんなことを考慮する余裕はなくて、ただ自分の今の望みをぶつける。
由唯は目を丸くして、一瞬固まった。けれどすぐにいつものキレイな笑みを浮かべながら、頷いた。
「そっか。分かった、ごめんね? 押しかけて」
ここにきて、その反応で急激に罪悪感と焦りが湧き上がった。これは今この瞬間の話だけではなくて、先々まで続いてしまうような。そんなつもりはなかったのに。
この間の会話の内容を思い出す。自分が引けば、そのままフェードアウトするんだろう、と陽向は言っていた。その通りで、相手から来ない限り、私からは追いかけることはない。それは普段ならばしないという意味だけれども、特に由唯に対しては、できないと言ってもいい。
だから、このままここで別れてしまえば、そのままこの関係は終わってしまう気がした。
「じゃあ、戸締まりしっかりね」
「まっ──」
「バイバイ」
待って、と言いかけて、けれどそれは言葉にならず、黙って由唯の背中を見送る。
つれない態度をずっと取り続けたのは自分で、今日の優しさをはねのけたのも自分で。はっきり言って自業自得だし、引き止められるほどの自信はなかった。
むしろ、こんなやつに彼女が時間を割く必要なんてないから、これで良かったのだと己の行いを正当化する。けれど、やはりもう一人の自分が、どこからか私を責め立てる。そんなことを言って、結局全部自分勝手ではないか、と。
再び部屋に戻って、ベッドに倒れ込む。全て己の行いの結果なのに、どうしようもなく涙がこぼれた。




