管狐は本日も情報を収集中
オストハム・グネ・バイザール帝国の首都、オスト・サンベール。
十年前の魔王軍侵攻の折、廃墟と化したオスト・ラレンツに代わり再建された新帝都である。
ただ、帝国首都と言う割には、かなりみすぼらしい街並みだ。
質素でどこか朽ちた家々が並び、また皇城もかなり慎ましい。
しかしそれを笑う者はいない。
何しろ帝国は、かつてその国土の三分の二近くを魔王軍に蹂躙され、破壊し尽くされたのだ。
それが僅か十年で、世界でも一、二を争う国土を誇る大国へと蘇ったのである。
今も魔王軍との戦いが続いている中、煌びやかな都を建設するまでの余裕が無いのは当然の事なのだ。
むしろここまで復活できた事が奇跡なのである。
そしてその奇跡を演出したのが、大将軍バンブルヤーズと、現皇帝グレアム・バーツネス・ハルベルト二世・ドウィ・オストへイム。
在命中にも関わらず、国民から開明帝の尊号で呼ばれる、若く聡明な皇帝であった。
魔王アルガスの大侵攻で父である皇帝バルゲ三世を失った後、二十五歳と言う若さで急遽即位した彼は、バンブルヤーズと先代勇者グロウティスの力を借り、魔王軍を退けた。
その後の侵攻も巧みな戦略とバンブルヤーズの奮闘もあり、これを阻止。
その間にもハルベルト二世は政治的辣腕を振るい、それまで何かと帝室に対して反抗的であった貴族等の守旧派を瞬く間に一掃し、強固な皇帝専制政治体制を築いたのである。
それが魔王軍侵攻の際に大貴族の殆どが殺された結果であるとは、何とも皮肉な話ではあるが。
それから以降十年……
見事な復活を遂げた帝国ではあるが、今それは国家存亡の掛った緊急事態に直面していた。
★
皇城内の応接室で、勇者一行は皇帝ハルベルト二世と軍務大臣のヴァーゼル。そして国務大臣であるホルストバイと幾人かの廷臣達と顔を会わせていた。
本来ならここに居る筈の大将軍、バンブルヤーズの姿が見えない事に、オーティスは少しだけ疑問に思いつつ、
「お久し振りです、陛下」
父や長老ギルメス、そしてエルフのリーネアから教わった礼儀作法を以って、恭しく頭を下げた。
田舎育ちのオーティスではあるが、勇者は各国の王族や貴族達とも交流があるし、何より式典に招かれる事も多々あるので、最低限度の儀礼的作法は学んでおかなければならないのだ。
勇者は魔王を倒す為に剣だけ振るっていれば良いというモノではないのである。
民を鼓舞するのと同時に、各国間の橋渡し的な役割を担う、非公式外交官の側面もあるのだ。
ちなみに先代勇者の仲間であったリーネアと剣士ヤマダは、完璧な作法を以って皇帝に頭を下げているが、勇者以上に田舎育ちのクバルトとシルクは、まだまだ未熟であった。
「いや、本当に久し振りだな、勇者オーティス。あぁ、そんなに畏まらないでくれ。公式の場ではないし、これはあくまでも私個人の……まぁ、プライベートなお茶会とでも思ってくれ」
広大な版図を持つ大国の皇帝とは思えないほどの気さくさで、ハルベルト二世は勇者達に椅子を勧める。
(相変わらず、陛下は気安いんだけど、それが却って緊張しちゃうんだよなぁ。でも、今日の陛下は……なんだろう?何かちょっと雰囲気が違うような……)
心の中で首を傾げつつ、オーティスは勧められるままに椅子に腰掛けた。
皇帝は控えの者にお茶の指示を出しながら、何気に勇者一行を見つめ、
「そう言えば、ギルメス殿は如何した?それに、フィリーナだったかな?確か神官職の……」
オーティスの肩に乗っている小さな相棒が、『キュィ』と小さく鳴いた。
思い出したくない事を思い出し、オーティスは少し顔を顰めてしまう。
「あぁ……その話は後でいい」
何かを察したのか、ハルベルト二世は軽く手を振った。
そして軽く足を組むと、肘掛にやや身体を預けながら、
「それで勇者オーティスよ。魔王討伐は如何であった?出来れば……そう、出来るだけ詳しく話を聞きたいのだが、良いだろうか?」
「も、もちろんです、陛下」
やっぱりその話しだよなぁ……と、オーティスは思った。
この街へ到着し、そのまま直ぐに皇帝より招かれたのだ。
少し鈍い所があるオーティスでも、何故に呼ばれたかぐらいは察しが着く。
(けど、やっぱり今日の陛下は何だか変だな。何か焦ってるような……)
「詳しくですか?そ、そうですねぇ……」
オーティスは横に座る、自分に取っては姉のような存在あるリーネアに視線を動かす。
端正な顔立ちをしている森妖精族の弓使いは、小さく頷いた。
「えと……僕達一行は、長老…ギルメスの先導で、バイネル火山郡を超えてそこから砂漠を渡り、スートホムスの山脈に沿って魔王領へと侵入しました」
「ペルシエラを経由してスートホムスからか?それはまた、随分と大回りだな」
ハルベルト二世は軽く身を乗り出した。
この帝国首都からバイネル街道を通れば、魔王の支配地域へは十日と経ずに侵入する事が出来る。
しかし砂漠の国、ペルシエラを超えてスートホムス大山脈まで出るとなると、余裕で一ヶ月は掛ってしまうだろう。
もちろん、オーティス自身も疑問に思った。
しかしギルメスが、特別な策がある、と言うのでそれに従ったのだ。
結果として、一度も魔王軍の監視に引っ掛からなかったので、時間は掛ったがそれはそれで良い結果だったのだ。
「えぇ。何でも監視が緩いとかで、そのルートを取ったのです。そして……そのまま敵の監視を掻い潜り、魔王エリウの元へ辿り着きました」
そこまで話した所でオーティスは大きく息を吐いた。
心臓の鼓動が早くなり、呼吸も乱れ、そして手足が自然と震える。
怒り……そしてそれ以上の恐怖が全身を駆け巡った。
(く、くそ……お、落ち着けオーティス)
「どうしたのだ、オーティス?顔色が悪いが……」
「す、すみません」
オーティスは目の前のテーブルの上の茶器に手を伸ばした。
そして仄かに湯気が立つ薄紅色の茶を口に含み、呼吸を整える。
程よい甘みが、幾分か気持ちを落ち着かせた。
その様子を見ていた皇帝ハルベルト二世は、微かに目を細め、
「……そこで何かあったのだな?」
「え、えぇ」
オーティスは大きく息を吐き出すと、茶器を戻しながら、
「僕達は、魔王エリウと戦いました。けど……」
「敗れたのかね?」
皇帝の問いに、オーティスは首を横に振った。
「エリウと戦っている時に……突然、謎の男が現れたのです」
「謎の男……」
ハルベルト二世の顔が強張る。
脇に控えているヴァーゼルとホルストバイ、そして廷臣達も同様だ。
「し、して……それからどうなった?」
「ど、どうもこうも……」
思わずオーティスは笑みを溢してしまった。
いや、もう笑うしかない。
人間は極限の恐怖を体験すると、精神を守る為か、何故か笑ってしまうのだ。
「……何か余程の事があったようだな、オーティス。だが、出来れば詳しく話して欲しい。その謎の男とやらは、魔王エリウの仲間なのか?」
「それは違います、陛下。魔王エリウ自身、その男に剣を振り上げ突っ掛かって行きましたから」
「そ、そうなのか?……それで?」
「一瞬でした。軽く蹴りを一発。それだけで魔王エリウは動かなくなりました」
オーティスがそう言うと、皇帝を始め、その場にいる全員が絶句する。
魔王と言えば、人類系種族にとって最大の敵にして勇者と対を成す最強の者。
それが蹴られただけで倒されるとは、俄かには信じがたい話だ。
しかし勇者の話はまだ終わらない。
これから本番だ。
「その後で僕達も蹂躙です。いや、蹂躙と言うか……奴はただ、何となく……ほんの気まぐれで僕達を嬲ったんです。散歩中の猫が道端で蝶々でも見つけた時のような気軽さで」
「……そのような事があったのか」
ハルベルト二世は小さく何度か頷いた。
「ここにいるクバルトとシルク。そして長老ギルメスとフィリーナが一瞬で殺されました。……クバルトとシルクは復活魔法で蘇らせる事が出来ましたけど、ギルメスとフィーリナは……その男の使った魔法で、何故か復活魔法が阻止されるのですよ。はは……」
「ふむ……その男は何者だ?何か知っているかオーティスよ」
「名はシング。自分で名乗ってました。そして魔王とも言ってました」
「魔王?」
ハルベルト二世の声に戸惑いの音色が混じる。
「魔王の名は確かエリウの筈では……まさかアルガスには息子がいたのか?」
「違うと……いえ、違います。あの男はおそらく、この世界の者ではありません」
オーティスはそう断言した。
「なんだと……」
ハルベルト二世の眉間に深く皺が刻み込まれる。
そして口元に手を当て
「そうか……あの若い男は異世界より降りて来た者と言う可能性もあるのか……」
そう呟いた。
オーティスも頷く。
異世界……
他人に話せば御伽話と一笑に付されようが、そうでなければあの異様な力は説明できない。
そもそもあの男は、この世界を滅ぼすとも言ったのだ。
そして神の御使いを探しているとも……
その時、ふとオーティスは気付いた事があった。
皇帝は何故、シングを若い男と言ったのか……
自分は謎の男としか言ってない筈だ。
「へ、陛下」
「どうしたオーティス?」
「陛下は……何か知っていますね?あのシングの事を何か……」
「……ふむ」
ハルベルト二世がゆっくりと深く、椅子の背凭れに身を沈めながら息を吐いた。
そして静かな声で、
「順番だ、オーティス。勇者に隠し事などはしないさ。それで、それからどうなったのだ?」
「何も……奴は興味を失ったかのように、生き残った僕らを吹き飛ばし……それから気付いた時には、もう居ませんでした。魔王エリウの姿も無く、どこへ行ったのやら……。ただ、奴はこの世界を支配するとか滅ぼすとも言ってました。それに神の御遣いを探しているとも……」
「神の御遣い?何者だ?」
「分かりません。ただ、自分を倒せる三名だと……奴はそう漏らしていました」
「……なるほど。そのシングなる者が異世界の魔王とするならば、さしずめ神の御遣いとやらは異世界の勇者なのかも知れんな」
(そ、そうか……)
そうかも知れない。
いや、絶対にそうだ。
「へ、陛下。それで陛下は……」
「……うむ」
ハルベルト二世は視線を動かし、ちらっと大臣達を一瞥すると、
「未だ緘口令が敷いてある話だ。他言無用だぞ、勇者オーティス」
そう釘を刺した。
「わ、分かりました」
「実はな、五年前……グロウティス殿がアルガスを討った後でな、各国が協議して秘密裏に進めていた作戦があるのだ」
「作戦…ですか?」
「そうだ。魔王軍を撃破し、魔王領へと侵攻する大反攻作戦だ」
「そ、そうなのですか」
初耳だ。
父亡き後、各地を回り修行を兼ねてモンスターや魔王軍の兵達を狩ってはいたが、そのような話が裏で進められていたとは……
その事実に、オーティスはどこかモヤモヤしたものを感じた。
(少しぐらい話してくれていても良かったのに……やはり僕が父より未熟だからか……)
「うむ。動員兵力は約八十万人。その内、予備隊を含めた実戦部隊は五十万だ」
「……」
オーティスは声も出ない。
想像以上……いや、想像すら覚束無い兵力だ。
確かに、世界に幾つかの国がある以上、国家間同士の争いと言うのは発生する。
平和と正義の象徴である勇者としても、それは仕方が無い事だと思っている。
いや、本当を言うと良く分からないが、父やギルメスが、歴史とは戦争の積み重ねとか、難しい事を言っていた覚えがある。
しかし国同士の戦争でも、戦う兵達の数はせいぜい二万から三万人ぐらいだ。
それが八十万とは……
「グレッチェの大森林とバイネル街道要塞から二十万ずつ、同時に魔王領へと侵攻させる作戦だったのだ。その時、オーティス……丁度君が魔王エリウ討伐に向かっていてな。そこで暫く様子を窺っていたら……前線にいた四貴魔将が全員、姿を消してな。これぞ好機と作戦が開始されたのだ」
「で、では……もしかして今頃は魔王領に……」
それでバンブルヤーズ殿は居ないのか……と、オーティスは納得するが、皇帝や大臣達の顔色が冴えないのが気に掛る。
北部と南部、それぞれ二十万の大軍による同時進行。
如何に魔王軍と言えども、領土の全てを守る事は不可能だ。
むしろ今頃は魔王城に迫っているかも。
もしそうならば、今すぐ自分も駆け付けなければ。
魔王軍を倒しても魔王が健在では意味がないではないか。
だが皇帝ハルベルト二世は、逸るオーティスの気持ちを察したのか、制するように手を振ると、大きく息を吐き出した。
「南部侵攻軍は全滅した」
「……は?」
「いや、全滅ではないか。何しろ九十三人は生き残りがいたからな。はは……二十万の内、九十三人だ」
ハルベルト二世は、先ほどのオーティスのように、引き攣った笑いを溢した。
微かにその指先も震えている。
「オーティス……一ヶ月ほど前のバイネル火山の噴火は憶えているか?」
「は、はい。ハンザの村を出た後で、大きな地震があって……それから山が噴火するのを見ました。確かティアの街に物凄い被害が出たとか……」
「その時、南部侵攻軍はバイネル街道を進んでいたのだよ」
「ッ!?そ、それでは……まさか火山の爆発に巻き込まれて……」
何と言う不幸な事故だ。
選りにも選って、魔王軍討伐の為に進軍していた軍が自然災害に巻き込こまれるとは。
オーティスは運命の神に文句の一つでも言いたい気分になるが、しかしそれでも、二十万の兵が全滅する事なんて有り得るのか?
「ふふ……それだったら不幸な天災で処理できる。緘口令は敷かんよ」
「……」
「生き残った者の内、数人は前衛部隊に居てな。彼らの証言はこうだ。街道で魔王軍と対峙していたら、そこからデザトガウルに跨った男が現れ、見た事も無い魔法を放つと同時に火山が爆発した、とな。またある者は、星を落としたとも言ってたな」
「ま、まさか…」
「街道要塞は守備兵もろともマグマに飲み込まれ、ティアとオストバール、それとフネラスの街は噴石と火山灰で壊滅だ。はは……再建には、少なくとも十年は掛るな」
「……」
「オーティス。君は長距離遠隔視の魔法と言うものを知っているか?」
「え…あ、はい。確か何人かの魔術師が集まって行う、通常の遠隔視魔法よりも更に遠い所が見れる魔法ですよね」
ギルメスからの魔法指導で、そう聞いた憶えがある。
ただオーティス自身は遠隔視の魔法は使えないが。
「そうだ。魔王軍の中から現れた謎の男……生き残った者達の情報を裏付ける為にな、宮廷魔術師を総動員して超長距離の遠隔視を行ったのだ」
「そ、それで…」
「映ったよ」
ハルベルト二世は、どこかおどけたように肩を竦めてみせる。
「くすんだ茶色のような髪をした若い男が、遠隔視の魔法にな。肩に黒猫と妙な人形を乗せ、魔王軍と供に行動していたぞ」
皇帝の言葉に、オーティスの脳内にあの時の光景が鮮烈に蘇る。
「シ、シングです!!そそ、そいつがシングです!!」
「そうか。ふ…そうだな。そうとしか考えられん。ちなみのその男は、見られている事が分かっていたみたいだぞ。何しろ私の方を見て、軽く手まで振ったのだからな。そして次の瞬間、遠隔視を行っていた魔術師は全員、床にシミだけ残して消えたよ。一流の魔術師、三十人が一瞬でな」
「……」
「オーティス。君の話で確信が持てたよ。あれは恐るべき力を持った異界の魔王だ。何しろ魔法一発で山を噴火させ、二十万の兵と都市を三つ破壊したのだからな。しかも魔王軍と同行していると言う事は、どうやらこの世界の魔王を手下にでもしたみたいだな」
(魔王エリウを手下に……)
「そ、それで……奴は今何処に?」
「北だ。グレッチェの大森林にいる。最新の情報……と言っても、距離的にどうしても十日ほど前の情報になってしまうが、魔王軍は大森林を焼き払っているそうだ。既に半分ほどが焼かれ、中には何故か砂漠化している地帯もあると言う。それと……」
ハルベルト二世はそこで少し言い淀み、オーティスの隣に座るリーネアをちらりと見ると、
「ブリューネス王国の首都、ネア・ブリュドワンに進撃中との事だ」
皇帝の言葉に、リーネアの肩が微かに震えた。
しかし彼女は、森妖精族特有のその端正な顔立ちを一切崩さず、
「そうですか。魔王軍はネア・ブリュドワンに……」
そう淡々とした口調で言った。
「リーネア殿は、確かブリューネス王家に連なる者だったな。さぞかし心配であろうが……」
「す、すぐに向かおう!!」
オーティスが少し荒げた声を上げる。
が、リーネアはどこか冷ややかな口調で
「何処へ?」
「ど、何処って……」
「行ってどうなるの?」
「それは……」
その通りだ。
僕が行って、どうなる。
もしあの男がいたら……何も出来やしないじゃないか。
それどころか、今度こそ殺されるかも……
「オーティス。私達にはやる事があるでしょ?」
「……」
「陛下。私達は神の御遣いと呼ばれる者達を探しに旅へ出ます」
「おぉ……そうか。うむ、確かにそれしか今の所は手が無いな。しかし、当てはあるのかね?」
「いえ……先ずは東方三王国へ向かいます。それから海を渡りポートセイレンへ向かおうかと」
「……なるほど。港町なら情報も集めやすいか。分かった。大使館へ連絡を入れておこう。好きに使うが良い。私の方でも、あのシングなる男について情報を集めるとしよう」
「有難う御座います、陛下。……オーティスもそれで良いわよね?」
「あ、あぁ……うん、分かった」
オーティスは頷く。
彼女がそれで良いと言うのなら、もう何も言えない。
でも、リーネアは本当にそれで良いのかな?
確か現ブリューネス王は、リーネアの大叔父さんって話を聞いた憶えが……
こんな時、父さんならどうしただろうか。
オーティスは無言で、手を伸ばして肩に乗っているフィリーナの頭を撫でる。
自分の可愛いペットは、『キュィ』と小さく鳴いた。
★
勇者達一行が退室した後、ハルベルト二世は大きく息を吐き出し、傍らに控えている大臣達に語り掛ける。
「オーティスの話を聞いて良かったな。色々な情報を得たし、得心も行った。ふ、まさか異界の魔王が現れるとはな」
ハルベルト二世としては、最早笑うしかない。
正直、現時点では手の打ちようがないではないか。
現魔王エリウは、その父であるアルガスと比べ、全てに置いて劣る小娘に過ぎない。
国民の魔王に対する憎悪感情と言うものを無視すれば、此方の武力を背景にかなり条件の良い休戦協定すら結べる相手だ。
しかし、異界の魔王が相手ではそうは行かない。
(シングか……力もそうだが残虐性においてもこの世界の魔王とは比べ物にならぬ存在だ。……どうするハルベルト)
「それで如何します、陛下?」
国政全般を統括する国務大臣のホルストバイが、尋ねる。
少し太り気味の彼の額には、既に大量の汗が浮かんでいた。
「緘口令は敷いてありますが、さすがにそろそろ限界かと……民の間に不穏な噂も飛び交っております。このまま放置しておきますと、些か問題が……」
「……そうだな」
それはハルベルト自身も良く理解している。
良きにしろ悪しきにしろ、何も情報も出さないのは拙い。
情報が無ければ、民は勝手に噂を作る。
それも悪い噂を。
そしてそれが何時しか膨らんで行き、気が付いた時には真実以上に悪くなった噂が定着している。
(しかし、今回は真実以上の悪い噂なんか広まるのか?)
何しろ二十万将兵に国民の英雄バンブルヤーズの戦死。更に街道要塞に都市三つの壊滅……しかも相手は異界の魔王だ。
いくら悪い噂でも、ここまで膨らみはしないだろう。
それは最早噂と言うか、単なる荒唐無稽な与太話ではないか。
だが、それが真実だ。
この事を知れば、国中は大パニックに陥る。
「取り敢えず、バイネル火山郡の噴火による被害は想定以上だと発表しておけ。あと軍は復旧作業に勤しんでいるとも。それとバイネル方面の通行禁止令は更に延長だ。徹底させろ。後は生き残った者達の隔離もだ。……今、何人残っている?」
「……現在、三十二名です」
ホルストバイの顔中に皺が寄った。
「そうか…」
ハルベルト二世も沈痛な面持ちになる。
あの惨劇から生き残った者は九十三名。
それはオーティスにも話した。
しかし、その彼らの大半が精神を病み、自殺を図ったと言う事までは話していない。
「ともかく、今はオーティスの言う神の御遣いが早く見つかる事を祈るばかりだな。我々に出来る事は、少しでも多くの情報を集め、精査する事だ。評議国の方はどうだ?大使館から連絡は?」
「かなり混乱しているようで……常任議員の責任問題にも発展しているとの事です。あと、未確認情報ですが、国境沿いの街から一部の民が逃げ出していると言う話も……」
「なるほどな。ふむ……良し、ミーブワンを使おう」
ミーブワンとは、皇帝直属の間諜組織だ。
別名を『忍び寄る蛇』とも言う。
主な任務は、貴族どもの監視。
稀に暗殺も行う。
所属する隊員は、全員が潜入や諜報等の高度な特殊スキルを備えている。
「評議国へ忍ばせるのですか?」
「違う。あのシングなる者を監視させるのだ。もちろん、危険を冒さぬように遠目からでも良い。シングと魔王軍の動向を探らせろ」
「へ、陛下。それは些か危険では……」
ホルストバイの顔に、更に大量の汗が滴った。
「危険は承知だ」
ハルベルト二世は力無く笑った。
「が、手を拱いていては、全てが手遅れになる恐れがある。魔法による監視が出来なければ、物理しかない。ともかく、奴の情報を少しでも集めるのだ。どんな些細な情報でも良い。奴に関して調べるように命じろ」




