苦労人
数日後、小田原近郊に陣を構える徳川家康の本陣。
豊臣軍の喧騒から少し離れたその陣幕の中は、驚くほど静まり返っていた。床几に腰掛け、自ら薬研を引いて薬草を煎じていた徳川家康の前に、津軽為信と沼田祐光は平伏していた。
「……面を上げよ、津軽右京亮殿。」
家康の声は低く、そして穏やかだった。しかし、その細められた瞳の奥には、全てを見透かし、底知れぬ光が宿っていた。
「大坂城での五色の白鷹、そして沼津での『鷹の餌場』の一件、聞き及んでおる。治部少輔を巻き込んで天下人を手玉に取るとは、なかなかに大それた男よ。」
横の祐光が、その言葉の重みに文字通り凍りつく。既に家康の耳には、為信の「大嘘」の数々が筒抜けであった。下手に取り繕えば、その瞬間に首が飛ぶ。
しかし為信は慌てず、むしろこれまでにないほど澄んだ、真っ直ぐな目で家康を見据えた。
「家康公、すべては我が津軽の領民と、家臣の命を守るための『苦肉の策』にございました。しかし……あの関白殿下をお騙しした罪、言い訳の余地もございません。こうして家康公の御前に参じましたのは、他でもありませぬ。我が命、どうにでもなされませ。」
為信はそう言うと、懐からあの秀吉の朱印状を取り出し、家康の前にそっと差し出した。
「南部殿が前田利家卿を通じて、この朱印状を覆そうと動いている事は知っております。ですが、我ら津軽の者が、どれ程の思いでここに辿り着いたか……。それだけは、日ノ本一の苦労人であらせられる家康公にだけは、お聞きいただきたかったのです。」
為信の口から出たのは、これまでのような大嘘ではなく、血の滲むような「真実」の言葉だった。
「陸路は全て南部が塞がれ、通過するのはほぼ不可能。ならばと冬の津軽海峡に船を出せば、大時化に呑まれて蝦夷地へ漂着。凍え死ぬ寸前の体を引きずり何とか帰還。そこから執念だけで本州へ戻り、南部の追手を隠密のように潜り抜け、関白殿下の小田原参陣よりも『先』に、こうして沼津の地へと馳せ参じたのです。……すべては私戦を好むためではありません。津軽の地で生きる者たちの安堵のためであります。これに一切の偽りはございません!」
為信はもう一度、深く、深く頭を下げた。床を叩く畳の音が、陣幕の中に虚しく響く。
沈黙が支配した。家康は薬を引く手を止め、じっと平伏する為信の背中を見つめていたが、やがて小さく、しかし温かみのある笑い声を漏らした。
「……面白い男よ。秀吉公の前ではあれほどの大ハッタリを演じてみせながら、儂の前ではこれ以上ない『実直』を晒すか。やはり、ただの田舎大名ではないな。」
家康は手にした薬研を置くと、為信が差し出した朱印状をその太い指で為信のほうへと押し戻した。
「冬の荒海を渡り、敵の目を盗んで誰よりも早く参陣する……。その執念。そして何より『先に参陣した者が正義』という武士の道理、この家康、痛いほどによく分かる。お主の言う通り、儂も若い頃は散々に苦労したからのう。」
家康は目を細め、かつて自分が味わった辛酸を思い返すように呟いた。
「利家殿が何と言おうと、一度下された関白殿下の決定を覆させるような真似は、この徳川が断じてさせん。南部がさらに陳情を重ねるというなら、儂が前田の犬千代を直々に宥めてやろう。為信殿、案ずるな。お主の勝ちだ」
「家康公……!」
祐光が思わず涙を浮かべて声を漏らす。為信もまた頭を下げ。今度ばかりは芝居ではなく、深く胸を熱くさせていた。
「……ありがたき幸せに存じます。この御恩、津軽右京亮、終生忘れません。徳川家に万一のことがあれば、我が津軽の全命脈を懸けて、一番に家康公の盾となりましょう。」
頭を上げた為信の顔には、家康への心からの敬意念と。それと同時に窮地を脱した安堵の笑みが、かすかに戻っているのでありました。




