もう一手
「鷹狂いたちの饗宴」と化した沼津の本陣。秀吉、秀次、信雄の三者が、まだ見ぬ津軽の白鷹に目を輝かせる中、為信は床に伏せた頭の先で、にやりと口角を上げた。
(かかった。ここからが真の勝負よ)
為信は、あえて引き結んだ顔を作り、もう一度深く平伏した。その肩は心なしか震えているように見える。
「……されど、殿下。秀次様。信雄様。誠に恐れ入るお言葉にございますが、不肖為信、この沼津の陣が終わりましたら、即座に津軽へ引き返さねばなりませぬ。……おそらく、これが最後の御奉公となりましょう」
「何だと?」
秀吉が眉をひそめた。
「どういうことだ、為信。せっかくの鷹狩の宴を断るというのか?」
為信は顔を上げ、苦渋に満ちた表情で声を絞り出した。
「我が津軽の背後を脅かす南部信直、未だ私戦を止めず、我が領地を虎視眈々と狙っております。殿下に拝領した朱印状を盾に防戦しておりますが、奴らが本気で攻め寄せれば、我が微力な兵では支えきれませぬ。いっそ……殿下、不躾ながら、この為信に『南部討伐の親裁』をお許しくだされ! 奴らを根切りにし、陸奥の憂いを完全に断ち切ってご覧に入れます!」
「なっ……!」
その大胆不敵な要求に、大広間がざわついた。
南部は由緒ある名門。いくら為信が気に入られたとはいえ、新興の大名に「南部を討伐させろ」というのは、明らかに分を弁えない「指し過ぎ」の一手であった。
案の定、織田信雄が不快そうに顔を顰めた。
「ふん、調子に乗るなよ津軽。殿下の惣無事令があるのだ。これ以上の私戦など、誰が許すか。」
秀吉の目も、先ほどまでの好々爺のそれから、天下人の冷徹な光へと戻りつつあった。
窮地――。だが、これこそが為信の、いや、背後に控える石田三成の描いた筋書きであった。
「南部討伐」など、最初から通るはずのない無理難題。本命を隠すための、巨大な「揺さぶり」である。
ここで、絶妙の間合いで三成が進み出た。
「……殿下、信雄様の仰る通りにございます。為信殿、いかに理不尽な南部への憤りがあろうと、これ以上の戦は殿下の不興を買うのみ。控えられよ。」
三成は為信を窘める姿勢を取りつつ、秀吉に向き直った。
「されど殿下。為信殿が『鷹の育成』に心を砕くあまり、領内の防備や経済が疎かになっているのもまた事実。津軽が南部への怯えから解放されねば、殿下への至高の白鷹の献上も、今後の鷹狩の宴も、全ては絵に描いた餅となってしまいます」
秀吉は顎をなぞった。
「うむ……。治部、何か良い知恵はあるか? 南部を討伐させるわけにはいかんぞ。」
「はっ。なれば、南部を討つのではなく、両者の間に『誰も欲しがらぬ緩衝地帯』を置き、実質的な防波堤としては如何でありましょう?」
「誰も欲しがらぬ地、だと?」
秀次の問いに、三成は滑らかに言った。
「陸奥の北の果て――下北半島、そして山深き鹿角にございます」
その地名が出た瞬間、信雄が鼻で笑った。
「下北に鹿角だと? あんな荒涼とした極寒の僻地、ただの寒村と深い山ではないか。そんな場所を求めてどうする?」
そう、一見すれば、誰もが価値を見出さない要らぬ土地であった。しかし、為信と三成は知っていた。下北半島の大間や十三湊を繋ぐ海運の利であり鉄の産地。そして鹿角郡に眠る莫大な「金山・銅山」の価値を。ここを得ることこそが、津軽の経済基盤を爆発的に強化する、真の本命だったのだ。
三成は、いかにも「為信に妥協を迫る」ような真面目な顔で言った。
「為信殿、南部討伐の望みは捨てなされ。その代わり、下北と鹿角の管理を貴殿に任せるよう、殿下にお願いしてしんぜよう。あそこは鷹の餌となる良質な鳥獣が獲れる山野がある。それらをもって、さらに優れた鷹を育てる肥やしとされよ。……殿下、これで手打ちとしては、いかがでありましょう?」
秀吉は、三成の提案を聞いてニヤリと笑った。
「なるほどな! 治部、妙案じゃ。戦をせずとも、為信にその荒地を与えて南部の盾とすれば、南部も文句は言えまい。何より良い鷹が育つのなら、安いものじゃ!」
秀吉は手を叩いた。
「決まりじゃ! 為信、南部討伐は許さぬが、下北と鹿角はお前に預ける。そこでしっかり励み、我が秀次や信雄を唸らせる鷹を連れてまいれ!」
「ははっ……! 殿下の大慈大悲、五臓六腑に染み渡ります。これにて、南部への怒りも氷解いたしました!」
為信は、声を震わせながら深々と平伏した。
その顔は床に伏せられて見えなかったが、隣の沼田祐光には分かった。主君が、笑いを噛み殺すために必死で肩を震わせているのだという事が。
(名より実を取る……。治部少輔様、恐るべき男よ。)
祐光は、背中に冷たい汗を流しながらも、心からの感嘆を禁じ得なかった。
後日、小田原に到着した南部信直は、津軽独立どころか、自領の喉元である下北と鹿角の利権まで、なぜか「鷹の餌場」という名目で為信に毟り取られている事実を知り、文字通り泡を吹いて倒れそうになったと言う。




