第88話 光秀、秀吉に周りを割れと命じる
役は、暗黙のうちに分かれているだけでは足りない。
誰が何を持つのか。
どこまでを自分の理で引き受け、どこからを他人の才へ預けるのか。
それが言葉として置かれぬままでは、場はうまく回っているように見えても、少し重みが増したところでたちまち軋む。
とくに京のような場所では、なおさらだった。
光秀は上の理を動かす。
秀吉は周りの空気を割る。
龍之介はそのあいだで、下の火と荷の響き方を持つ。
それは、ここ数日の実際の動きの中で、半ば自然に形になってきた役割だ。
だが、自然にそうなっているだけでは、まだ弱い。
京の者は、曖昧なものを勝手によい形へは解してくれない。
むしろ曖昧であるほど、自分たちに都合のよい一本橋へ寄せていく。
だから必要なのだ。
いまこの段で、一度はっきりと役を置くことが。
「……来るな」
朝、宿の奥で龍之介がそう呟くと、影鷹が言った。
「今さらでございます」
「そこではない」
「では」
「今日は、日向守殿が決める日だ」
影鷹は、静かに目を細めた。
「羽柴殿へ、でございますか」
「そうだ」
昨日の三者の場で、三人は同じ火を見た。
光秀は上を持つと言い、秀吉は下が黙らぬよう周りを割ると口にした。
龍之介もまた、火の荷を持つ役を受けた。
だが、まだ一つ足りない。
それを光秀の口からはっきり置くことだ。
羽柴、周りを割れ。
その一言が、役割を現実に変える。
◇
場は昨日ほど曖昧ではなく、かといって評定のように重くもしないところへ置かれた。
宿の奥でもなく、茶屋でもなく、誰か一人の庭でもない。
要る者だけが入り、不要な耳は遠ざけられる。
そのうえで、ただの密談では済まぬ骨もある。
そういう半歩だけ公の場だった。
秀吉は、やはり少し早く来ていた。
この男は、こういう時の早さがいかにも嫌らしい。
焦れているようには見せない。
だが、場の空気がどのように整うかを一息でも先に測りたいのだろう。
「三上殿」
「羽柴殿」
「本日は、ずいぶん骨の立つお顔にございますな」
「おぬしもな」
秀吉は笑った。
その笑いは軽い。
だが、今日はその軽さの裏に、わずかな緊張があった。
光秀が入ってきたのは、そのあとすぐだった。
座の空気が、目に見えぬまま一段だけ締まる。
やはり、この人はそういう重さを持っている。
「日向守殿」
龍之介が頭を下げる。
光秀は短く頷き、そのまま秀吉へ視線を向けた。
「羽柴」
「はい」
呼ばれた秀吉の返事は、いつも通りのようでいて、いつもより少しだけ低かった。
ここで何が来るか、あの男も半ば見えているのだろう。
光秀は無駄を置かなかった。
「おぬしの糸は、まだ要る」
その一言で、場の温度が変わった。
秀吉は、表情を崩さなかった。
だが、目だけはほんの少しだけ細くなる。
言われると分かっていても、やはり重いのだろう。
明智光秀という男が、自分へはっきり“要る”と言う。
それは、軽いことではない。
「ありがたいことで」
秀吉が言うと、光秀は即座に返した。
「ありがたくはない」
やはり、そこは変わらぬらしい。
「だが」
光秀は続けた。
「本筋へは私が入る」
「はい」
「おぬしは、周りを割れ」
ついに、それが置かれた。
龍之介は思わず息を止めた。
分かっていた。
分かっていたが、それでも実際に光秀の口から言葉として置かれると、場の骨が一段変わる。
「周り、にございますか」
秀吉が静かに聞き返す。
「そうだ」
「どこまでを」
「理の場そのものへは入るな」
「……」
「だが、その周りで下が黙りきらぬよう、空気を割れ」
秀吉は、そこでようやく小さく息を吐いた。
それは安堵か、緊張か、あるいはその両方か。
役を与えられるとは、つまり使われることだ。
あの男は使われるのが嫌いではない。
だが、どのように使われるかには人一倍敏い。
「日向守殿」
秀吉が言う。
「それは、わしに“余計なことをするな”と仰せに」
「その通りだ」
光秀は少しも揺れない。
「理は私が置く」
「はい」
「荷の響きは龍之介殿が持つ」
「……」
「おぬしは、火が下で黙り込まぬようにせよ」
この場で役割が、ついにはっきりと言葉になった。
上は光秀。
荷の見立ては龍之介。
周りを割るのは秀吉。
それは同時に、誰にも全部は渡さぬという宣言でもある。
秀吉にとっては、そこが一番よく分かるのだろう。
「なるほど」
秀吉は、ようやく笑った。
だがその笑いは、いつもの軽さだけではない。
少しだけ本気の熱がある。
「よろしい」
「ほう」
「本筋を日向守殿が持たれ、三上殿が下を持たれるなら」
「……」
「わしは周りで、黙った火が固まらぬようにいたしましょう」
引き受けた。
しかも、ただ従う顔ではない。
自分の才が生きる場所を正確に見たうえで、そこへ座ると決めた顔だ。
「ただし」
秀吉は続けた。
「町にも寺にも、“全部はもう決まった”とは思わせませぬ」
「それでよい」
光秀が答える。
「だが」
今度は光秀の方が、わずかに声を低くした。
「周りを割るために、別の火を増やすな」
秀吉は、ここで初めて少しだけ肩をすくめた。
「日向守殿」
「何だ」
「それは少し、羽柴には難しゅうございます」
「難しい、ではない」
光秀は言った。
「やれ」
短い。
だが、そこに妙な迫力がある。
理を置くとは、こういうことなのだろう。
秀吉は一拍だけ黙り、それから深く頭を下げた。
「承知」
その一言に、軽さはなかった。
◇
そこで龍之介は、ようやく自分の役を場の真ん中へ置いた。
「日向守殿」
「何だ」
「羽柴殿」
「はい」
「お二人がそう動かれるなら、私は火の上がり方を分けて見ます」
光秀も秀吉も、同時にこちらを見る。
「町で構えが強くなれば羽柴殿へ」
「うむ」
「寺の下で黙りが濃くなれば、まず私が受ける」
「……」
「そして、その黙りが上の理へ響くようなら、日向守殿へ渡します」
そこまで言うと、秀吉が小さく笑った。
「三上殿」
「何だ」
「ようやく、まことに橋の配り役にございますな」
「ありがたくない言い方だ」
「誉めております」
ありがたくはない。
だが、その通りでもある。
光秀が来た。
秀吉が残った。
では自分は何か。
その答えが、今ようやく言葉になった気がした。
火の重さを見て、どの橋へ渡すかを決める役。
「龍之介殿」
光秀が言う。
「は」
「それでよい」
その一言で、十分だった。
◇
場はそれで終わらなかった。
役が置かれると、今度は皆、それぞれに次の火をどこに見るかを考え始める。
それが面白くもあり、恐ろしくもある。
「羽柴」
光秀が言った。
「何でしょう」
「いま、おぬしが最も嫌う火は何だ」
秀吉は、少しだけ意外そうな顔をした。
だがすぐに答える。
「黙ったまま、あとで“最初から困っておった”と出てくる火にございます」
「……」
「今の京は、理が正しゅう動き始めております」
「そうだ」
「だからこそ下は黙る。黙った者は、あとで必ず“聞いてもらえなかった”という顔で出てくる」
光秀は頷いた。
「なるほど」
今度は龍之介へ向く。
「龍之介殿」
「は」
「おぬしは」
「町の構えです」
「……」
「荷が止まったわけではない。だが“また上で決まるのでは”と先に身を固め始めている」
「うむ」
「それが固まれば、次に少し何かがあっただけで、話が“やはりそうだ”になります」
秀吉が、そこで少しだけこちらを見た。
同じものを、少し違う角度から見ているのだろう。
最後に光秀が言う。
「私は」
二人とも黙る。
「理が通っていることで、こちらが見えておるつもりになるのが最も怖い」
その一言は、重かった。
たしかにそうだ。
理が通る。
場が静まる。
すると人は、“見えている”“収まっている”と思ってしまう。
だが、その静まりが黙った火の上にあるなら、それが一番危うい。
「……皆、違うな」
龍之介が思わず言うと、秀吉が笑う。
「それでよいのです」
「違うから」
光秀が続ける。
「同じ火でも、まだ見える」
その言葉は、この物語の次の段そのものだった。
◇
場が切れたあと、龍之介はしばらく動けなかった。
光秀が秀吉へ正式に役を渡した。
秀吉がそれを引き受けた。
自分もまた、そのあいだの配り役として立った。
つまり、三者の役割はもう暗黙ではない。
現実の場で、現実の火に対して、言葉として置かれたのだ。
「……ようやく、動き出したな」
龍之介が呟くと、影鷹が言った。
「今さらでございます」
「やはり最後はそれか」
「ですが」
影鷹は珍しく、一度言葉を切った。
「今日は、本当にひとつ進みました」
その一言は、影鷹にしてはずいぶん素直だった。
だからこそ、少しだけ嬉しかった。




