第87話 三人でなければ見えぬ火がある
火というものは、一人で見ていると形を誤る。
高いところから見れば、下の燻りは小さく見える。
逆に下から見上げれば、上で動く理の重みは遠すぎて、ただ押しつけにしか見えぬ。
横から割って入る者は、流れの寄り方を読むことに長けるが、そのぶん真正面の骨を見落とすこともある。
京へ来てから、龍之介はそれを何度も味わってきた。
光秀の理は高く、正しい。
秀吉の糸は軽く、速い。
そして自分の器は、そのあいだで荷の重さを量るには向いている。
だが、誰か一人の見方だけで場を進めれば、必ずどこかに見えぬ火が残る。
秀吉が言った。
正しすぎれば、下は黙る。
その言葉を、光秀も否定しなかった。
町も寺も、実際に少しずつ黙り始めている。
ならば次は、三つの見方を同じ場へ置かねばならぬ。
「……面倒だな」
宿の奥で書き付けを前にして、龍之介がそう呟くと、影鷹が言った。
「今さらでございます」
「おぬし、本当に便利な相槌だな」
「本当にその通りにございますので」
腹立たしいが、否定もできない。
「三上殿」
影鷹が続ける。
「何だ」
「今日の火は、もう一人では量れませぬ」
「うむ」
「ならば、同じ場に置くしか」
「分かっておる」
光秀。
秀吉。
そして自分。
この三つの橋と糸が、それぞれ別々に動くだけでは足りない。
一度、同じ火を前にして、同じ時に、違う見方をぶつけねばならない。
「……やるか」
龍之介が低く言うと、影鷹は静かに頷いた。
◇
問題は、どう場を作るかだった。
光秀と秀吉を同じ座へ置く。
それ自体は不可能ではない。
だが、やり方を誤れば意味が変わる。
光秀を正面に立て、秀吉を脇へ置けば、ただの主従でも上下でもない、妙にぎこちない場になる。
秀吉に好きに喋らせれば、今度は場そのものが羽柴色に流れる。
そして龍之介が真ん中へ出すぎれば、また新しい一本橋の匂いが立つ。
必要なのは、三者が同じ火を見る場であって、誰か一人が仕切る場ではない。
龍之介は、商人宿の主人を呼んだ。
「主殿」
「はい」
「一つ、少し妙な場を作りたい」
主人は、そこでわずかに目を上げた。
この男が目を上げる時は、面倒が大きい時だ。
「妙な、とは」
「明智殿と羽柴殿と、私と」
そこまで言うと、主人はさすがに少しだけ黙った。
「……それはまた」
「嫌そうだな」
「いえ、嫌と申しますより」
主人は慎重に言葉を選んだ。
「京の空気が、どう傾くか読みづらい場にございます」
「だからやる」
「なるほど」
主人は、苦笑に近い息を吐いた。
「どこまで表へ出すおつもりで」
「出しすぎぬ」
「では」
「理の場でもなく、茶の遊びでもなく、だが軽い立ち話にもならぬところだ」
主人はすぐに頷いた。
そこまで言えば、この男には十分だった。
「奥の離れで、ひとつ」
「頼む」
「承りました」
やはり、この主人もまた京の橋の一つなのだろう。
表へ出ず、だが場を持たせる。
そういう橋だ。
◇
光秀には、龍之介から直接話を入れた。
宿の奥で座を共にした時、龍之介は回り道をしなかった。
「日向守殿」
「何だ」
「一つ、場を作りたい」
「誰を置く」
「羽柴殿を」
光秀は、すぐには返さなかった。
だが、眉一つ動かさぬまま黙るところが、この人らしい。
「……理由を申せ」
「下が黙り始めております」
「うむ」
「その理由は、日向守殿の理が強く、通っているからです」
「……」
「それを羽柴殿も見抜いた」
「だろうな」
「ならば、日向守殿の理と、羽柴殿の糸と、私の荷の見立てを、同じ火の前に一度置くべきかと」
光秀は、長く黙っていた。
嫌なのだろう。
それは分かる。
感情として気が進まぬのは当然だ。
だが、進まぬから切る人ではない。
「龍之介殿」
「は」
「おぬしは、羽柴を買いすぎてはおらぬか」
その問いは重い。
だが、避けてはならぬものでもあった。
「買ってはおりませぬ」
龍之介は答えた。
「ほう」
「使わぬと、見えぬ火があると申しております」
光秀の視線が少しだけ鋭くなる。
「つまり、羽柴なくしては足りぬと」
「日向守殿なくしても足りませぬ」
「……」
「私一人でも足りませぬ」
そこまで言うと、光秀は小さく息を吐いた。
「嫌な答えだな」
「はい」
「だが、嫌なほど筋が通る」
それで十分だった。
「よい」
光秀が言う。
「置け」
「忝い」
「ただし」
その一言で、また空気が締まる。
「羽柴に、場の骨までは預けるな」
「承知しております」
そこは、龍之介も同じつもりだった。
秀吉の糸は要る。
だが、場の骨をあの男に渡せば、今度は火の形そのものまで羽柴色に整えられる。
それは避けねばならない。
◇
秀吉への話は、やはり少し違う入りになった。
この男には、理屈だけを持っていくと半歩先で笑う。
だから、隠さず、それでいて餌もやりすぎぬくらいがちょうどよい。
秀吉は、龍之介の顔を見るなり笑った。
「三上殿」
「何だ」
「妙なお顔にございますな」
「妙な場を置きたい」
「ほう」
「日向守殿と、おぬしと、私だ」
秀吉は、そこで初めて少しだけ本気で笑った。
「それはまた、ようやくそこまで来られましたか」
「何だ、その言い方は」
「いやいや」
秀吉は肩を揺らす。
「そこへ行かねば見えぬ火もございますので」
やはり分かっていたか。
「来るか」
龍之介が問うと、秀吉はすぐに頷いた。
「行きますとも」
「早いな」
「断る理由がございませぬ」
「嫌な返しだ」
「誉め言葉として受け取ります」
この男と話していると、胃に悪い。
だが今回に限っては、その軽さが少しだけありがたかった。
「羽柴殿」
「何でしょう」
「場の骨までは預けぬ」
先にそう言っておくと、秀吉はにこりと笑った。
「でしょうとも」
「不満か」
「まさか」
秀吉は言う。
「骨は日向守殿、荷の見立ては三上殿、わしは周りの火でございましょう」
そこまで分かっているなら、話は早い。
そして厄介でもある。
この男は、自分の役目を言葉にされる前からだいたい見抜いている。
「……やはり、おぬしは嫌な男だ」
「ありがたいことです」
◇
場は、夕刻に近い時刻へ置かれた。
明るすぎぬ。
だが暗くもなりきらぬ。
茶の席としては少し曖昧で、会談としては少し柔らかい。
そういう半端さが、今日にはちょうどよかった。
最初に来たのは光秀。
次に龍之介。
最後に秀吉。
それもまた、意味のある順だった。
秀吉が座につくと、場の空気がほんの少しだけ軽くなる。
光秀がいるから締まる。
秀吉がいるから抜ける。
龍之介は、そのあいだの温度がようやく欲しかったのだと気づいた。
「では」
光秀が言った。
「申せ、龍之介殿」
最初の骨を置け、という意味だろう。
龍之介は、ひと息だけ置いて言った。
「一つの火は静まりました」
「うむ」
「ですが、そのことで今度は下が黙り始めております」
秀吉が、何も言わずに微笑む。
光秀は静かに待つ。
「家の顔は立ちました」
龍之介は続ける。
「都の理へも日向守殿が言葉を置かれた」
「……」
「だが、その正しさに対して、町も寺も“いま細かなことを差し出すのは違う”と口をつぐみ始めている」
「らしいな」
光秀が低く言う。
「そこで」
龍之介は、二人を順に見た。
「今日、三人で同じ火を見ていただきたかった」
秀吉がそこで初めて口を開いた。
「よろしい」
「羽柴殿」
「はい」
「まず、おぬしが見た下の火を」
秀吉は、楽しげではなく、妙に静かな声で言った。
「町は、上で理が動き始めたと知ると、まず構えます」
「うむ」
「今回はまだ小さい。ですが、“寺がまた先に押さえるのでは”“上で決まれば下は言えぬのでは”という黙った構えが生まれております」
光秀は黙って聞く。
否定しない。
そこが大きい。
「寺は」
秀吉が続ける。
「下役どもが言葉を整えすぎ始めております。困りごとが消えたのではなく、“いま差し出すべきではない”と構えておる」
「そうだな」
光秀が言う。
「正しい理ほど、下は黙る」
秀吉は少しだけ目を細めた。
「ええ。そこにございます」
場の空気が、少しだけ深くなった。
これは、ただの軽口ではない。
秀吉の本音に近い。
「羽柴」
光秀が言う。
「何でしょう」
「おぬしは、それをどうする」
「周りを割ります」
「どう割る」
「まだ全部は決まっておらぬ、と下へ逃げ道を残す」
秀吉は言う。
「上で理が動いておるゆえ、今は黙れ――ではなく」
「……」
「まだ見えておる。まだ捨てられておらぬ。そう思わせる口を、町と寺に少しずつ置く」
光秀は、しばし黙ってから言った。
「なるほど」
その一言は、前よりずっと重かった。
単に“らしいな”ではない。
役目として、その糸の働きを受け止めた“なるほど”だ。
「日向守殿」
龍之介が、そこで自分の荷を置く。
「何だ」
「私は、寺の下と町の荷の響き方をまだ持ちます」
「うむ」
「上へそのまま上げる話と、まだ下で見ておくべき火を分ける」
「その役が要るな」
「はい」
「では」
光秀はそこで二人を見た。
「私は、上を持つ」
短い。
だが、それで場の骨は決まった。
上の理は光秀。
周りを割るのは秀吉。
火の荷と響き方を持つのは龍之介。
たぶん、ここまで明確に三人の違いが同じ火の前で並んだのは初めてだった。
◇
しばし沈黙があったあと、光秀が秀吉へ視線を向けた。
「羽柴」
「はい」
「おぬしの糸は、必要だ」
龍之介は、その一言に思わず息を止めた。
これは大きい。
光秀が、感情ではなく役目として秀吉の糸をはっきり認めたのだ。
秀吉も、さすがに一拍だけ黙った。
だがすぐに、いつもの笑みへ戻る。
「ありがたいことで」
「ありがたくはない」
光秀は即座に返す。
「だが要る」
そのやり取りに、龍之介は少しだけ笑いそうになった。
あまりに二人らしい。
「三上殿」
秀吉が言う。
「何だ」
「ようやく、まともな場になりましたな」
「まともかどうかは知らぬ」
「ですが、三人とも同じ火を見ております」
それは、その通りだった。
◇
場が終わったあと、龍之介は一人になってしばらく動けなかった。
ようやく、と思った。
ようやくここまで来たのだと。
光秀は上の理を持つ。
秀吉は下を黙らせぬために周りを割る。
自分はそのあいだで、火の荷と響き方を見続ける。
この三つが同じ火の前で初めて並び、しかも互いにそれを言葉で認めた。
「……三人でなければ見えぬ火がある」
思わず呟くと、影鷹が静かに言った。
「今さらでございます」
「だが、ようやく本当にそうなった」
「はい」
その一言で十分だった。




