第73話 呼ぶ文か、まだ呼ばぬ文か
文は、人を呼ぶために書くものばかりではない。
来るなと書かずに留める文もある。
まだだと告げずに備えさせる文もある。
そして時には、書いた本人がいちばん、自分が何を決めたのか分からなくなる文もある。
龍之介は、机の前でその厄介さを嫌というほど味わっていた。
町と寺の火をいくつか分けてきた。
紙束も一本通した。
秀吉の糸が届くところと、届かぬところも見えた。
そしていま、公家筋の面目と都の扱われ方にまで火が上がり始めている。
ここまで来れば、光秀を呼べば早い。
それは、もう理屈ではなく実感として分かる。
だが、早いから呼ぶのか。
その問いに、まだ腹の底から頷けない。
呼べば、明智の橋は太くなる。
都にとっては分かりやすい。
安土にとっても、その局面だけ見れば速い。
だが、その速さは次の重みも連れてくる。
火が上がるたびに、まず明智へ、となる。
ここまで橋を分けてきた意味が、半ば戻ってしまう。
だから書けない。
いや、書けぬのではない。
書けば済むと分かっているからこそ、軽くは書けないのだ。
「……面倒だな」
紙を前にしてそう漏らすと、影鷹が言った。
「今さらでございます」
「本当にそれしかないのか」
「本当にその通りにございますので」
腹が立つ。
だが間違ってもいない。
机の上には、書き損じた紙がすでに三枚あった。
一枚目は、重すぎた。
火の重さをそのまま書きすぎて、ほとんど“来てほしい”になっていた。
二枚目は、軽すぎた。
報告の顔をしすぎて、京の空気の変わり方が落ちてしまった。
三枚目は、曖昧すぎた。
光秀にとって一番悪い文だった。
あの人は曖昧な文を受けると、自分で責任の重い方へ意味を寄せる。
それはもう、これまでのやりとりで十分すぎるほど分かっている。
だから次に書く文は、曖昧にしてはいけない。
だが、呼び文にもしてはいけない。
「三上殿」
影鷹が静かに言う。
「何だ」
「いま、どこで止まっておられます」
「呼べば早い、というところだ」
「はい」
「だが、その先で明智の橋が太る」
「ええ」
「だから手が止まる」
影鷹は頷いた。
「では、逆に」
「何だ」
「呼ばぬと決めた場合、何が起きます」
龍之介は少しだけ目を細めた。
「私の橋へ、もう一段重い荷が来る」
「はい」
「秀吉の糸では、周りは割れても本丸は持たぬ」
「ええ」
「つまり」
龍之介は小さく息を吐いた。
「呼ぶか呼ばぬかではなく、いまの重さをどの形で光秀へ渡すか、か」
「そのようにございます」
その言い方で、少しだけ腹の中のもつれがほどけた気がした。
たしかにそうだ。
問いを間違えていたのかもしれない。
呼ぶか、まだ呼ばぬか。
それ自体は重要だ。
だが、その二つだけで考えると、どうしても文が重すぎるか軽すぎるかになる。
大事なのは、今見えている重さを、光秀へどう渡すかだ。
来てほしい、と書けば呼び文になる。
まだだ、と抑えれば、今度は自分が抱えすぎる。
ならば、重さは明確に渡す。
ただし、決断はまだ押しつけない。
そこが今の境目なのだろう。
◇
龍之介は新しい紙を広げた。
最初の一行を書く前に、まず相手の顔を思い浮かべる。
光秀は、短い文を読む人だ。
長く理を並べるより、要点がどこに置かれているか、その間にどんな沈黙があるかを見る。
ならば余計なことは書かぬ。
だが、逃げも書かぬ。
筆を取り、静かに最初の行を置く。
京にて見ゆる火、さらに一段上がり候。
そこから先は、これまでの観察を必要なだけに絞って書いた。
寺と町のあいだの火は、なお下に残る。
だが今は、その上で公家筋の顔と都そのものの扱われ方へ視線が移り始めていること。
羽柴の糸は周りを割るには有効だが、この重さの本丸には軽いこと。
自分の器で持たせてはいるが、この先はさらに荷が重くなること。
そこまでを、回り道せずに置く。
そして最後の一行で、筆がまた少し止まった。
ここが、この文のすべてなのだろう。
なお、今すぐご下向を願うにはあらず。
ただ、この先の重み、もはや軽き橋にては持ちがたく候。
そこまで書いて、龍之介はようやく筆を置いた。
来てほしい、とは書いていない。
だが、今の重さを軽い報告にもしなかった。
この先は重い。
軽い橋では持ちがたい。
そのことだけは、はっきりと渡した。
「……これだな」
龍之介が低く言うと、影鷹が書き付けを覗き込まずに答えた。
「呼ぶ文ではなく」
「うむ」
「まだ呼ばぬ文でもない」
「そうだ」
「重さだけを、逃がさず渡した」
まさにそれだった。
光秀は、この文を読めば分かるだろう。
呼ばれてはいない。
だが、備えはもう机上の話ではなくなっている。
もし次に荷がもう一段重くなれば、その時は本当に橋を太くする段だと。
つまりこの文は、決断を保留にしたのではない。
決断の輪郭を、はっきりと前へ進めた文 なのだ。
◇
文を畳み、封じるところまで見届けて、ようやく龍之介は少しだけ肩を落とした。
だが、楽にはなっていない。
文を書き終えたということは、その文が安土へ走り、光秀の目に触れ、その先の返答が現実に近づくということでもある。
「軽くなったようなお顔ではございませぬな」
影鷹が言う。
「当たり前だ」
「ええ」
「文を書いたということは、次の段が近づいたということだ」
「そのようにございます」
たしかに、ここまでは自分が器を作り、席を持たせ、荷を一本ずつほどいてきた。
だがこの文を出した以上、次はもう“いつまで自分だけで持つか”の話では済まない。
光秀は、来るか来ぬかを考える位置へ、確かに一歩進んだはずだ。
「三上殿」
影鷹が言う。
「何だ」
「この文で、日向守殿はどう動かれますかな」
龍之介は少しだけ考えた。
「すぐに来るとは思わぬ」
「ほう」
「だが、来られるように座り直すだろう」
「……」
「明智の橋を太くする日が、本当に近いと見れば、あの人はもう迷う段ではなく、備える段に入る」
影鷹は静かに頷いた。
「それで十分にございます」
「十分か」
「はい。今すぐ来られても、都の望む形になりかねませぬ」
そこが大事だった。
こちらから軽く呼ぶ。
都もそれを待つ。
その形で光秀が来れば、結局は“都が望んだから明智が来た”という器になる。
それではまずい。
だから今は、重さだけを渡す。
来るかどうかの決断は、まだ一段だけ手前に置く。
それが、ようやく選べた中ほどだった。
◇
夕方、別筋から思わぬ呼び出しが入った。
公家筋の中でも、これまでより半歩だけ格の高い家の用人から、
「安土のお考えを、少しはっきり伺いたい」
という口上が来たのである。
そこに書状はない。
だからこそ重い。
形に残さず、だが曖昧にもせぬ問いを投げてきたのだ。
「……早いな」
龍之介が言うと、宿の主人が苦い顔で答える。
「三上様が紙束一本で済むお方ではない、と見えたのでございましょう」
つまり、見分の使いとしてではなく、答えを返す顔として試しに来たのだ。
それだけ、この都は早い。
そして、こちらの橋の太さを測るのもまた早い。
「明日か」
「はい」
「なるほどな」
龍之介は、小さく息を吐いた。
文を書いた、その日のうちに次の重い呼び出し。
堂々巡りではない。
確実に、段が上がっている。
「……こうなると」
龍之介が言う。
「本当に、呼ぶかどうかの境は近いな」
影鷹が静かに頷いた。
「はい」
「次の席は」
「三上殿が、見に来た側ではなく、答えを置く側として、さらに試される場にございましょう」
それは、ありがたくないが正確な見立てだった。
◇
夜、龍之介は最後にもう一度、光秀への文を見直した。
余計な言葉はない。
だが、十分に重い。
これでよい。
そう思ってから、灯の下でしばらく手を止めた。
いまは、呼ぶ文ではない。
だが、まだ呼ばぬ文でもない。
この先へ進むために、必要な重さだけを渡した。
「……面倒だな」
最後にそう漏らすと、影鷹がいつも通り言った。
「今さらでございます」
だが今夜ばかりは、その通りだとしか言いようがなかった。




