第72話 秀吉の糸では、軽すぎる場
便利な糸というものは、たいてい細い。
細いから、どこへでも入り込める。
細いから、誰にも気づかれぬうちに結ばれる。
そして細いからこそ、一度うまく張れば、驚くほど多くのものを引ける。
羽柴秀吉の糸は、まさにそういう類のものだった。
町の荷を少しだけ先に通す。
困り顔の先へ返しやすい恩を置く。
寺の下役や商いの口へ、“羽柴へ言えば少し早い”という空気を作る。
そういう働きにおいて、あの男の糸は実に有効だ。
だが、すべての場に同じ糸が効くわけではない。
京へ下ってからここまで、龍之介はそれを何度も感じてきた。
そして今、目の前にある新しい重さは、そのことをはっきり突きつけていた。
町と寺のあいだの荷の詰まりではない。
紙束一本の遅れでもない。
公家筋の面目と、家の段取りの崩れが絡んだ話だ。
つまりこれは、利で早く通せば済む話ではなく、格と顔の重み が前に出る場である。
「……羽柴殿では、軽い」
宿の奥でそう呟くと、影鷹が静かに頷いた。
「はい」
「糸は使える」
「ええ」
「だが、糸だけでは持たぬ」
「そのようにございます」
昨日の段で、龍之介はついにそこを認めた。
自分の橋だけでは細い。
そして秀吉の糸では、この荷には軽すぎる。
ならば問題は一つだ。
どこまで秀吉へ見せ、どこからは別の橋を考えるべきか。
「まずは」
龍之介が言う。
「羽柴殿の糸で、どこまで割れるかを見る」
影鷹は少しだけ目を細めた。
「試しますか」
「試す」
「無理と見えていても」
「見えているからこそだ」
もし秀吉の糸で少しでも軽くできるなら、その分だけ重い橋に乗る荷も減る。
逆に、ここで何も試さず“秀吉では足りぬ”と決めつければ、それはただの好き嫌いになる。
あの男は嫌いだ。
だが、嫌いかどうかで橋の使い道を誤るわけにはいかない。
「……気が進まぬがな」
そう言うと、影鷹が珍しく小さく笑った。
「それでこそにございます」
◇
秀吉本人は京にいない。
だが、それで糸がないわけではない。
むしろいまの京では、本人の不在のまま動く糸の方が厄介かもしれなかった。
龍之介はまず、商人宿の主人を通じて、羽柴方の口へ薄く当たりをつけた。
あからさまに“秀吉へ頼る”顔は見せたくない。
だが、京の火が一段上がっていることを、あちらにも匂わせておく必要はある。
昼前、宿の裏手に近い小さな部屋で、羽柴筋に通じる商人が一人、静かに現れた。
四十前後、目がよく働く顔だった。
いかにも“自分はただ荷を見ております”という風を装っている。
だが、その装いそのものが、どこまでこちらに見抜かれているかを測る器でもある。
「三上様」
「来てくれて助かる」
「羽柴様の糸に、何か」
いきなりそこからだ。
やはり、この手の男は話が早い。
いや、話を早くしないと糸の意味がないのだろう。
「少しな」
龍之介は、事前に決めていた線までだけを置く。
「町と寺の火は見えている」
「はい」
「だが、そこからもう一段、上へ行きかけておる」
商人の目がわずかに細くなる。
「上、とは」
「家の顔と、都の理だ」
「……」
「利で早く通すだけでは、むしろ軽く見える場だ」
そこまで言うと、商人はすぐに返さなかった。
考えているのではない。
このくらいの濃さなら、どこまで秀吉へ流してよいかを測っているのだろう。
「羽柴様の糸で」
やがて商人が言った。
「まず周りを割ることはできましょう」
「ほう」
「家そのものの面目には触れず、その周囲で“羽柴へ寄れば少し楽になる”口を増やす」
やはり、そこへ行くか。
秀吉らしい。
真正面から家の格や公家の顔へ入るのではなく、その周りの用人、出入りの商人、別筋の困りごとへ手を伸ばし、外堀から空気を変える。
有効ではある。
だが、それで本丸が動くとは限らない。
「それで」
龍之介が問う。
「この場そのものは、軽くならぬだろう」
商人は、苦い顔をした。
「恐らく」
「だろうな」
「ですが、周りを静かにすることはできます」
それは否定できない。
火の周りの乾いた草を先に湿らせる。
そうすれば本丸は燃えていても、一気に大火にはなりにくい。
秀吉の糸とは、そういう働きなのだろう。
「主殿」
龍之介は少しだけ声を落とした。
「羽柴殿に伝えてくれ」
「何を」
「今の火は、利と早さだけでは持たぬ場に入っている」
商人の目が、ほんの少しだけ真剣になった。
「……」
「だが、周りを割る手は要る」
「承知」
「つまり、正面の橋にはなれぬが、横からの糸はまだ使う」
そこまで言うと、男は小さく笑った。
「三上様も、だいぶ羽柴様の使いどころを」
「嬉しくない物言いだ」
「誉めております」
胃に悪い、と思う。
だがこの程度のやり取りは、もはや避けても仕方がない。
◇
その日の午後には、さっそく秀吉の糸の働きが少し見えた。
公家筋そのものではない。
その周囲にいる用人の一人、さらにその用人へ日々物を入れる商いの口、そのあたりで、
“羽柴殿のところは、別筋の品も少し見てくれるらしい”
という空気が流れ始めたのだ。
つまり、本丸には届かない。
だが本丸の周りは、少し楽になる。
「さすがに早いな」
龍之介が言うと、影鷹が頷いた。
「ええ」
「そして、薄い」
「それもまた、羽柴殿らしゅうございます」
薄い。
まさにその通りだった。
光秀の橋なら、重く、はっきりと場そのものへ効く。
秀吉の糸は、そこへは届かぬ。
だが周りへ薄く広がり、気づけば場の感じ方を少し変えている。
便利だ。
だが、この重い場の中心には軽い。
「……やはり、本丸は動かぬな」
龍之介が呟くと、影鷹が静かに答えた。
「はい」
「周りは少し静まる。だが、家の格と面目の重みそのものには触れぬ」
「ええ」
「これが、羽柴殿の糸の限りか」
「あるいは、羽柴殿ご本人が来ればもう少し別の入り方もございましょうが」
龍之介は首を横に振った。
「それでは余計に軽い」
秀吉本人が来て、利と早さで周りを寄せることはできる。
だが、だからこそ“ああ、羽柴は利で入るのだな”と、この場では見透かされる。
それはこの案件には向かない。
「……羽柴殿にも、向き不向きがある」
そう言うと、影鷹が少しだけ笑った。
「ようやく」
「何だ」
「嫌いだから使いたくない、ではなく」
「当たり前だ」
「嫌いでも、使えるところまでは使う」
「そのように育てられておるのでな」
信長の顔が少しだけ脳裏をよぎった。
あの男は、好き嫌いで人を使い分けない。
危ういと分かっていても、その危うさごと使う。
それを横で見続けていれば、嫌でも少しずつ覚える。
「……ありがたくない育ち方だ」
「ですが、いま必要にございます」
それもまた、その通りだった。
◇
夕方、龍之介は机の前で文の下書きを広げていた。
相手は光秀だ。
まだ正式に“来てほしい”と書く段ではない。
だが、いま見えている重さを、隠して済ませる段でもない。
筆を持つ。
置く。
また持つ。
どう書く。
ここで「重い、来てほしい」と書けば早い。
だが、その瞬間に明智の橋は都の望む形で太る。
それは避けたい。
かといって「まだ持てる」と書けば、今度は自分の橋へさらに荷が寄る。
秀吉の糸では軽すぎる。
自分では細い。
ならば、いま伝えるべきは一つだ。
この先は重い。
それを、呼びつけではなく、備えとして伝える。
「……呼ぶ文か、まだ呼ばぬ文か」
龍之介が呟くと、影鷹が背後で静かに言った。
「いま、まさにそこにございますな」
「そうだ」
「もう、抽象ではございませぬ」
たしかにそうだ。
ここまでは、“必要なら橋を太くする”という理で話してきた。
だが今や、その必要はもう目の前に輪郭を持っている。
ただ、まだ“今すぐ来てほしい”とまでは書かない。
そこが、いまの境目なのだろう。
「書く」
龍之介が言うと、影鷹は黙って頷いた。
そして龍之介は、ようやく一行目を書き始めた。
火は、さらに上にございます。
町と寺のあいだを越え、公家筋の顔へ触れ始めております――。
◇
書き終えたあと、龍之介はしばらく筆を置いたまま動かなかった。
今の文は、呼ぶ文ではない。
だが、ただの報告でもない。
光秀へ、重みの輪郭だけは明確に渡した。
つまり、次の段のための文だ。
「……面倒だな」
最後にそう漏らすと、影鷹がやはり答えた。
「今さらでございます」
だが今回は、その言葉に前より少しだけ納得してしまう自分がいた。




