第71話 細い橋へ、重い荷が来る
小さな火をいくつか抑えることと、大きな荷を支えることは、似ているようでいてまるで違う。
小さな火なら、手を入れる場所を見つければよい。
一本だけ通す。
一本だけ止める。
顔を一つ立て、順を一つ直す。
それで空気が少し変わることもある。
だが重い荷は、そうはいかない。
荷そのものの重さだけではない。
それを誰が持つのか。
誰の顔で受けるのか。
誰がそれを背負うに足ると見なされているのか。
その全部が一緒になって、初めて“重い”になる。
京で橋を三本に分けてから、龍之介はその違いを少しずつ覚えてきたつもりでいた。
明智の理と名。
羽柴の糸。
そして自分の柔らかな器。
どれも現に機能している。
だからこそ、ここまでは持たせられた。
だが同時に、だからこそ次の段では、どの橋にどの荷を渡すかをもっと厳しく選ばねばならぬところまで来ていた。
その“次の段”は、思ったより早く来た。
◇
朝のうちから、宿の主人の顔が少し違っていた。
いつも通り静かで、腰も低い。
だが、言葉を選ぶ時の間がいつもより長い。
これは、持ってきた話の重さをどう置くか迷っている顔だと、龍之介にももう分かる。
「三上様」
「何だ」
「少々、上の方の話が」
やはり、と思う。
ここ数日で下の火は少しずつほどいてきた。
寺の下役。
町の荷。
番頭の顔。
そうしたところの火は、まだ残ってはいるが、少なくとも“一気に燃え上がる”ところからは少し離した。
ならば次に来るのは上だ。
しかも、下の実務ではなく、顔と格と理が正面へ出てくる類の話だろう。
「申せ」
龍之介が言うと、主人は少しだけ声を落とした。
「公家筋の一つで、年中の贈答と内々の参会の段取りに支障が出たとのことにございます」
龍之介はすぐには返さなかった。
年中の贈答。
内々の参会。
この言い方だけで、もう重い。
寺の下役の紙束とは違う。
町の荷の順とも違う。
これは公家の家の面目そのものに触れている。
しかも戦の用向きで大きく破れたのではない。
兵の通行、人足の不足、荷の遅れ、そうした積み重ねの先で、じわじわと段取りが崩れたのだろう。
そういう崩れ方は、表沙汰にはなりにくい。
だが、家の中では深く残る。
「どの家だ」
主人はすぐには名を出さなかった。
これもまた京らしい。
「まだ、こちらから軽々に口にすべきではないかと」
「では、なぜ私に持ってきた」
「三上様が、すでにただ荷を見る方ではなくなっておられると、向こうが見ているからにございます」
その言い方は、ありがたくないが正しかった。
京の側はもう、自分を単なる見分の使いとは見ていない。
少なくとも、少し重い話を最初に当ててよい顔だとは見始めている。
「……つまり、私の橋に重い荷を試しに置いてきたわけだ」
龍之介が言うと、主人は深く頭を下げた。
「そのようなことになります」
影鷹が横で低く言った。
「来ましたな」
「来たな」
これは、はっきり段が上がった。
◇
話の細部はすぐには動かなかった。
そこがまた、これまでの下の火と違うところでもある。
寺の紙束なら、どこで何が止まり、誰の顔が潰れているかを割と早く拾える。
だが公家筋の贈答や参会の段取りとなると、口は重い。
直接に“困った”とは言わぬ。
困ったと言った瞬間に、困る家だと自分で認めることになるからだ。
だから、まずは周辺から見るしかない。
主人を通じて、荷の遅れた筋。
どの品がどこで滞ったか。
人足のどこに無理が出たか。
どの用人が顔を曇らせたか。
そうしたものを少しずつ拾い集める。
半刻ほどもせぬうちに、輪郭だけは見えてきた。
ある家で、季節の贈り物として外へ出すべき品が、予定どおりに整わなかった。
その遅れ自体は一日二日の話に過ぎぬ。
だが、それに連なる形で内々の参会の日取りもずれ、寺へ立てるべき顔もわずかに傷み、結果として“近頃の織田の速さは、都の細やかな段を顧みぬ”という含みが家の中に残った。
つまり、もとは小さな遅れだ。
だが、家の格を支える細い糸が何本か同時にずれたことで、顔の問題に育ってしまった。
「下の火とは違うな」
龍之介が言うと、影鷹が頷いた。
「ええ。これは荷の話に見えて、ほとんど格の話にございます」
「しかも、格の話に見えて、もとは荷の遅れだ」
「そこが厄介にございます」
まことにその通りだった。
この種の火は、下から見れば“たかが一日の遅れ”でしかない。
だが上から見れば、その一日が“こちらの顔を分かっておらぬ”になる。
その断絶を埋めるには、ただ荷を通すだけでは足りない。
「……これは」
龍之介は小さく息を吐いた。
「私の橋だけでは持ちきれぬかもしれぬな」
言葉にした瞬間、その重さが少しだけはっきりした。
ここまでは、自分の器で持たせてきた。
だが今回は違う。
京の側も、最初から“この男がどこまで受けるか”を試すつもりで投げてきている。
つまり、これを正面から受ければ、今度は本当に三上一本橋になりかねない。
「三上殿」
影鷹が静かに言う。
「何だ」
「ここで“私が見ます”と請けすぎれば」
「分かっておる」
「橋が細いまま、荷だけ重くなります」
「そうだ」
やはり、もう次の段に入っているのだ。
◇
昼過ぎ、龍之介はその家に近い用人筋と、遠回しな顔合わせを持った。
正式な対面ではない。
表向きには、都の行き来に生じた詰まりを見ている安土の顔が、周辺の空気を確かめるために少し耳を寄せた、それだけの形だ。
だが、相手の言葉の端には十分な重みがあった。
「近頃は、速うございますな」
年嵩の用人がそう言う。
「安土の理が、か」
「物も、人も、日取りも」
「……」
「速いことそのものが悪いとは申さぬ」
その言い方がもう、かなり上だ。
下役や番頭のように“困っております”とは言わない。
理を分かっている顔で、“悪いとは申さぬが”と置く。
「だが」
龍之介が受けると、用人は頷いた。
「速さのために零れるものが、都にはございます」
その零れたものが、顔なのだろう。
龍之介はしばらく相手を見た。
ここで“分かる、何とかする”と軽く取れば、その瞬間にこちらが全部を受ける橋になる。
だが切ってしまえば、今度は“やはり分かっておらぬ”と見られる。
「見えておる」
龍之介は静かに言った。
用人の目が少しだけ動く。
「ただし」
「……」
「見えておるからといって、ここで軽々しく“安土の速さを退ける”とは言わぬ」
用人は黙った。
だが、その沈黙には昨日までほどの探りはない。
むしろ、どこまで退かぬかを見ている顔だ。
「では」
用人が低く言う。
「三上様は、この件をどう扱われる」
来たな、と思う。
“耳を寄せる”段は終わった。
次は、どう扱うかを言えという段だ。
「まず、これを一つの家だけの機嫌の話にはせぬ」
龍之介は答えた。
「ほう」
「荷と人足の遅れが、どう家の顔へ響いたかを見る」
「……」
「つまり、これはその家の面目の話であると同時に、安土の速さが京のどこを傷つけやすいかを見る鏡でもある」
用人はじっとこちらを見ていた。
その視線は、下の者のものではない。
少なくとも、家の中でかなり近い位置にいる顔だろう。
「三上様」
「何だ」
「それは、よく見ておられる」
「見に来たのでな」
「ですが」
「……」
「見ておられることと、持てることは違いますぞ」
そこを突いてくるか。
やはりこの家筋の周辺は、こちらの橋の細さまで見ている。
つまりこの話は、単に困りごとを預けるためだけではない。
三上龍之介という橋が、どこまでの荷に耐えるかの試し でもあるのだ。
「その通りだ」
龍之介は、はっきり認めた。
「私は、何でも一人で持てる橋ではない」
「……」
「だからこそ、ここで軽々しく全部を受けるとは言わぬ」
用人の目が少しだけ和らいだ。
京の者は、やはり“何でもできます”の方を信用しないのかもしれない。
あるいは、その言葉の先にある破綻をよく知っているのだろう。
「では」
用人が問う。
「誰が持たれる」
この問いは、昨日の“明智を呼ぶべきでは”よりさらに重い。
もう、明智の名を出すかどうかを回り道で測っている段ではない。
橋を誰が持つか。
そう問うている。
龍之介は、少しだけ間を置いた。
「それは、こちらが決める」
用人の視線が、一段深くなる。
「なるほど」
「都に引かれて決めるつもりはない」
「ですが都に触れて決める」
「当然だ」
そこで、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
完全な和解ではない。
だが、“都の望みで明智を呼ぶのではない”という線と、“都の火の形を見て橋を選ぶ”という線は、少なくとも今は同時に置けたらしい。
◇
席を辞して宿へ戻る途中、龍之介は珍しく何も言わなかった。
影鷹もまた、しばらく黙っていた。
やがて、宿の奥へ入ってからようやく言う。
「重うございましたな」
「ああ」
「これは」
「私の橋に乗せ続けるには、きつい」
はっきりそう認めると、少しだけ腹が軽くなった気がした。
「次は、秀吉では軽い」
「ええ」
「私では細い」
「そのようにございます」
「ならば」
そこで龍之介は、机の上の書き付けへ視線を落とした。
明智の橋。
羽柴の糸。
自分の器。
どれもいる。
だが、この荷の重さには順が要る。
「……誰かを前へ出さねば、この先は持たぬ」
ついにその言葉が、腹の底から出た。
影鷹は静かに頷いた。
「はい」
「まだ呼ぶと決めたわけではない」
「ええ」
「だが、ここでその可能性を本当に考えねばならぬところまで来た」
「左様にございます」
それが第71話の終わりとして、最もしっくり来た。
明智を今すぐ呼ぶ流れは止めた。
だが、止めたままで済む保証はもうない。
今度は自分の意地や理屈ではなく、火の重さが本当に橋を太くするかどうかを決め始めている。
◇
夜、龍之介は書き付けの端へ、新しい一行を書き足した。
この荷は、細い橋へは重い。
それを見てから、しばらく筆を置いたまま動かなかった。
「三上殿」
影鷹が静かに声をかける。
「何だ」
「ようやく、次の章……」
そこで龍之介が顔を上げたので、影鷹はすぐに言い直した。
「ようやく、次の段へ入る覚悟が見えました」
「その言い直しは正しい」
「失礼いたしました」
珍しく素直だなと思ったが、たぶんそれだけ今夜の空気が重いのだろう。
「……面倒だな」
龍之介が最後にそう漏らすと、影鷹はやはり答えた。
「今さらでございます」
その一言だけが、いつも通りだった。




