第70話 橋は立った。だから次は、誰に荷を渡すか
橋というものは、立っただけでは役に立たない。
向こう岸へ渡る者がいて、そこへ何を通し、どのくらいの重さまで持たせるかが決まって、ようやく橋になる。
しかも一本では足りぬと思って三本にしたところで、それで安心できるわけでもない。
人は楽な橋へ寄る。
通りのよい橋へ荷を集める。
そうして気づけば、せっかく分けたはずの重みがまたどこか一つへ偏っていく。
京へ下ってからの日々は、まさにそういうものだった。
明智光秀の名は、宿へ入る前からこの都に座っていた。
それを一本橋に戻さぬよう、まずは自分が柔らかな器として前へ出た。
最初の茶で、聞くが飲まれはせぬと見せた。
秀吉の糸は、本人不在のまま現場で荷を動かしていた。
それに助けられたと認めつつ、その一本に寄りすぎぬよう、小さな手当てを別筋で一つ通した。
そして、ついに京の側から「明智殿を呼ぶべきでは」と正面から問われた時も、明智の橋は消さず、だが“都が便利に呼べる橋”にも戻さなかった。
ここまでは、たしかに前へ進んだのだろう。
だが、その代わりに今度は三上龍之介という顔へ、京そのものが少しずつ値をつけ始めている。
つまり、橋は立った。
だから次は、誰にどの荷を渡すかを決めねばならない。
◇
その日の朝、宿の奥は妙に静かだった。
表では人も荷も動いている。
だが奥は、嵐の前に空気が落ち着くような静けさを持っている。
ここ数日で、京の側もこちらも、一つの段を越えたのだと龍之介には分かっていた。
もう“まず話を聞くかどうか”の段ではない。
“この先、誰をどこまで前へ出すのか”の段に入っている。
机の上には、いくつかの書き付けが並んでいた。
明智の橋。
羽柴の糸。
自分の器。
そして、その横へ新しく引いた線。
どの荷を、誰へ渡すか。
「……ようやく、そこまで来たか」
龍之介が小さく呟くと、影鷹が静かに現れた。
「今さらでございます」
「本当に、そればかりだな」
「本当にその通りにございますので」
返しに切れがありすぎて、腹を立てる気も少し薄れる。
「三上殿」
影鷹が言う。
「本日は、少しまとめるお顔にございますな」
「まとめねばならぬ」
「橋、にございますか」
「ああ」
龍之介は書き付けへ目を落とした。
「明智殿の橋は、まだ残してある」
「はい」
「羽柴殿の糸も、切ってはおらぬ」
「ええ」
「私の器も、京の側には少しずつ値をつけられ始めた」
「その通りにございます」
影鷹は、そこで少しだけ目を細めた。
「つまり」
「立った」
「はい」
「三本とも、まだ細いが立った」
その言い方が、今の実感にいちばん近かった。
明智の橋は、まだ前へは出ていない。
だが必要とあれば、すぐ太くできる位置にある。
秀吉の糸は、すでに現場で人と荷を動かしている。
自分の器も、下役や町筋、公家の用人に対して、最初の顔としては機能した。
つまり、三本橋そのものは夢物語ではなくなった。
現実に、立っている。
「ですが」
影鷹が続ける。
「立っただけで、まだ細い」
「そこだ」
龍之介は頷いた。
「今ならまだ、持たせているにすぎぬ」
「勝った、とは申せませぬな」
「まるで」
龍之介は少しだけ苦笑した。
「ようやく崩れぬよう支え木を入れた程度だ」
そのくらいの手応えだった。
火は消えていない。
大きく収まったわけでもない。
だが、少なくとも一枚岩で燃え上がるところまでは行かせていない。
◇
昼前、商人宿の主人が上がってきた。
顔つきは昨日よりいくらか柔らかい。
つまり、京の下と中ほどにいる者らは、こちらを“話が通じる相手”とは認め始めているのだろう。
「三上様」
「何だ」
「この数日で、空気は変わりました」
「よい方へか」
「変わった、という意味では」
やはり、京の者はそういう言い方をする。
「寺の下では、明智殿を今すぐ、という声は少し引きました」
「ほう」
「町の方でも、“まずは三上様へ話してよいらしい”という見方が広がっております」
「……」
「ただし」
主人は、当然のように次の言葉を置いた。
「それはそれで、新しい寄り方にもございます」
龍之介は小さく頷いた。
それはもう、十分に分かっている。
困りごとは、通りのよい橋へ集まる。
明智へ寄せぬと決めた以上、今度は自分の方へ寄り始める。
京はそういう都なのだ。
「だから」
龍之介が言う。
「次は、私へ寄る荷も分けねばならぬ」
主人は、そこで初めて少しだけ感心したような顔をした。
「そこまで、もう」
「見えてきた」
「なるほど」
主人は深く頭を下げた。
「では、三上様はここで“新しい窓口”になられるのではなく」
「なるつもりはない」
「橋を増やし続けるおつもりで」
「その方が長く持つ」
主人は苦笑した。
「京は、そのように面倒な理をよう嫌います」
「だろうな」
「ですが、嫌うからこそ必要なのやもしれませぬ」
その返しは、少し意外だった。
この主人もまた、京の中で長く人の流れを見てきたのだろう。
一本橋が楽なのは分かっている。
だが楽な橋ほど、いずれ折れることも知っているのかもしれない。
◇
午後、龍之介は一人で少し京の町を歩いた。
供回りを大きく連れず、影鷹だけを近くに置く。
もちろん完全に一人というわけではない。
だが、こういう時は人の気配を多くしすぎぬ方が見えるものもある。
町の顔は、少しだけ変わっていた。
すべてが解決した顔ではない。
むしろ不満はまだある。
荷の遅れも、人足の不足も、寺の面目も、公家の含みも、全部きれいに済んだわけではない。
それでも、何かが少し変わった。
“安土はただ押してくるだけではないらしい”
“明智をすぐ呼ばぬのは、軽んじたからではないらしい”
“羽柴へ寄れば早いが、それだけでもないらしい”
そういう、曖昧だが重要な認識が、町の空気に混じり始めている。
「持たせた、か」
龍之介が呟くと、影鷹が横で言った。
「ひとまずは」
「勝ったのではないな」
「ええ」
「だが、燃え筋を少しは割れた」
「そのようにございます」
そこが現実なのだろう。
小さく見れば、一本の荷が通った。
一つの席を切り抜けた。
明智を今すぐ呼ぶ流れを止めた。
だが大きく見れば、それらは全部“ひとまず持たせた”に過ぎない。
「……都は、これで納まるような顔はしておらぬな」
龍之介が言うと、影鷹は少しだけ笑った。
「京にございますので」
「おぬし、最近はもう少し別のことも言え」
「では」
影鷹は珍しく少し考えてから言った。
「次は、誰へ本当の重みを渡すか、にございます」
龍之介は立ち止まり、少しだけ空を見た。
たしかに、そこだ。
橋は立った。
だが細い。
この先、もっと大きい荷が来れば、誰かを前へ出さねば持たぬかもしれない。
その時、明智の橋を太くするのか。
秀吉の糸へもっと重みを預けるのか。
あるいは、信長の上意をもっと濃く見せるのか。
その選択は、今までよりずっと重い。
◇
夕方、安土からもう一つ短い使いが届いた。
文ではない。
口だけだ。
だが、それで十分だった。
上様は、次は誰を前へ出すかを決める段だ、と。
橋は立った。ならば荷を配れ。
「……やはり来たな」
龍之介が低く言うと、影鷹が頷いた。
「はい」
信長は、こういうところを外さない。
橋を立てただけで満足する男ではない。
次は、その橋をどう使うか。
そこまで見て、初めて“よし”とする。
「三上殿」
「何だ」
「ここから先は、もっと重うございます」
「分かっておる」
明智を今すぐ呼ぶ流れは止めた。
だが、いつまでも止め続けられる保証はない。
秀吉の糸は便利だ。
だが任せるほど羽柴色が濃くなる。
自分の器も効いている。
だが、このままでは三上一本橋になりかねない。
つまり、ここから先は本当に“選ぶ”段なのだろう。
「……橋を立てるだけなら、まだよかった」
龍之介が言う。
「ほう」
「どれも必要だと並べれば済んだ」
「はい」
「だが、ここからは違う。誰へ、どの重みを、どこまで渡すかを決めねばならぬ」
影鷹は静かに答えた。
「それが勝負にございます」
その一言は、ひどく腑に落ちた。
◇
夜、宿の奥で一人になった時、龍之介はあらためて書き付けを前にした。
明智の橋。
羽柴の糸。
自分の器。
信長の上意。
この四つを、どう使うか。
ここまでは、立てることそのものが仕事だった。
だがこれからは、立った上で、どの橋にどの荷を乗せるかを選び続けることが仕事になる。
「……結局」
龍之介は小さく呟いた。
「京での勝負は、火を消すことそのものではないな」
火は、またつく。
都とはそういう場所だ。
では何が勝負かといえば、火がついた時、誰を橋にし、誰へ重みを渡し、誰をまだ前へ出さぬか。
その選び方そのものなのだろう。
「お顔が、ようやく章の終わりらしく」
影鷹が言いかけたところで、龍之介が即座に振り返った。
「その言い方はやめろ」
「失礼いたしました」
影鷹が珍しく本気で頭を下げたので、龍之介は小さく息を吐いた。
「とにかく」
「はい」
「ここまでは持たせた」
「ええ」
「だが、これで終わりではない」
「もちろんにございます」
「次は、もっと重い判断になる」
「そうでしょうな」
それで十分だった。
橋は立った。
だが、まだ細い。
細い橋に大きな荷が来れば、また選ばねばならない。
誰を前へ出すか。
誰を留めるか。
誰の橋を太くするか。
その勝負は、もうすぐそこまで来ている。
「……面倒だな」
最後にそう漏らすと、影鷹はやはり答えた。
「今さらでございます」
結局、どこまで行ってもそれらしかった。




