表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

70/70

第70話 橋は立った。だから次は、誰に荷を渡すか

 橋というものは、立っただけでは役に立たない。


 向こう岸へ渡る者がいて、そこへ何を通し、どのくらいの重さまで持たせるかが決まって、ようやく橋になる。

 しかも一本では足りぬと思って三本にしたところで、それで安心できるわけでもない。

 人は楽な橋へ寄る。

 通りのよい橋へ荷を集める。

 そうして気づけば、せっかく分けたはずの重みがまたどこか一つへ偏っていく。


 京へ下ってからの日々は、まさにそういうものだった。


 明智光秀の名は、宿へ入る前からこの都に座っていた。

 それを一本橋に戻さぬよう、まずは自分が柔らかな器として前へ出た。

 最初の茶で、聞くが飲まれはせぬと見せた。

 秀吉の糸は、本人不在のまま現場で荷を動かしていた。

 それに助けられたと認めつつ、その一本に寄りすぎぬよう、小さな手当てを別筋で一つ通した。

 そして、ついに京の側から「明智殿を呼ぶべきでは」と正面から問われた時も、明智の橋は消さず、だが“都が便利に呼べる橋”にも戻さなかった。


 ここまでは、たしかに前へ進んだのだろう。


 だが、その代わりに今度は三上龍之介という顔へ、京そのものが少しずつ値をつけ始めている。


 つまり、橋は立った。

 だから次は、誰にどの荷を渡すかを決めねばならない。


     ◇


 その日の朝、宿の奥は妙に静かだった。


 表では人も荷も動いている。

 だが奥は、嵐の前に空気が落ち着くような静けさを持っている。

 ここ数日で、京の側もこちらも、一つの段を越えたのだと龍之介には分かっていた。


 もう“まず話を聞くかどうか”の段ではない。

 “この先、誰をどこまで前へ出すのか”の段に入っている。


 机の上には、いくつかの書き付けが並んでいた。


 明智の橋。

 羽柴の糸。

 自分の器。

 そして、その横へ新しく引いた線。


 どの荷を、誰へ渡すか。


「……ようやく、そこまで来たか」


 龍之介が小さく呟くと、影鷹が静かに現れた。


「今さらでございます」


「本当に、そればかりだな」


「本当にその通りにございますので」


 返しに切れがありすぎて、腹を立てる気も少し薄れる。


「三上殿」


 影鷹が言う。


「本日は、少しまとめるお顔にございますな」


「まとめねばならぬ」


「橋、にございますか」


「ああ」


 龍之介は書き付けへ目を落とした。


「明智殿の橋は、まだ残してある」


「はい」


「羽柴殿の糸も、切ってはおらぬ」


「ええ」


「私の器も、京の側には少しずつ値をつけられ始めた」


「その通りにございます」


 影鷹は、そこで少しだけ目を細めた。


「つまり」


「立った」


「はい」


「三本とも、まだ細いが立った」


 その言い方が、今の実感にいちばん近かった。


 明智の橋は、まだ前へは出ていない。

 だが必要とあれば、すぐ太くできる位置にある。

 秀吉の糸は、すでに現場で人と荷を動かしている。

 自分の器も、下役や町筋、公家の用人に対して、最初の顔としては機能した。


 つまり、三本橋そのものは夢物語ではなくなった。

 現実に、立っている。


「ですが」


 影鷹が続ける。


「立っただけで、まだ細い」


「そこだ」


 龍之介は頷いた。


「今ならまだ、持たせているにすぎぬ」


「勝った、とは申せませぬな」


「まるで」


 龍之介は少しだけ苦笑した。


「ようやく崩れぬよう支え木を入れた程度だ」


 そのくらいの手応えだった。

 火は消えていない。

 大きく収まったわけでもない。

 だが、少なくとも一枚岩で燃え上がるところまでは行かせていない。


     ◇


 昼前、商人宿の主人が上がってきた。


 顔つきは昨日よりいくらか柔らかい。

 つまり、京の下と中ほどにいる者らは、こちらを“話が通じる相手”とは認め始めているのだろう。


「三上様」


「何だ」


「この数日で、空気は変わりました」


「よい方へか」


「変わった、という意味では」


 やはり、京の者はそういう言い方をする。


「寺の下では、明智殿を今すぐ、という声は少し引きました」


「ほう」


「町の方でも、“まずは三上様へ話してよいらしい”という見方が広がっております」


「……」


「ただし」


 主人は、当然のように次の言葉を置いた。


「それはそれで、新しい寄り方にもございます」


 龍之介は小さく頷いた。


 それはもう、十分に分かっている。

 困りごとは、通りのよい橋へ集まる。

 明智へ寄せぬと決めた以上、今度は自分の方へ寄り始める。

 京はそういう都なのだ。


「だから」


 龍之介が言う。


「次は、私へ寄る荷も分けねばならぬ」


 主人は、そこで初めて少しだけ感心したような顔をした。


「そこまで、もう」


「見えてきた」


「なるほど」


 主人は深く頭を下げた。


「では、三上様はここで“新しい窓口”になられるのではなく」


「なるつもりはない」


「橋を増やし続けるおつもりで」


「その方が長く持つ」


 主人は苦笑した。


「京は、そのように面倒な理をよう嫌います」


「だろうな」


「ですが、嫌うからこそ必要なのやもしれませぬ」


 その返しは、少し意外だった。

 この主人もまた、京の中で長く人の流れを見てきたのだろう。

 一本橋が楽なのは分かっている。

 だが楽な橋ほど、いずれ折れることも知っているのかもしれない。


     ◇


 午後、龍之介は一人で少し京の町を歩いた。


 供回りを大きく連れず、影鷹だけを近くに置く。

 もちろん完全に一人というわけではない。

 だが、こういう時は人の気配を多くしすぎぬ方が見えるものもある。


 町の顔は、少しだけ変わっていた。


 すべてが解決した顔ではない。

 むしろ不満はまだある。

 荷の遅れも、人足の不足も、寺の面目も、公家の含みも、全部きれいに済んだわけではない。


 それでも、何かが少し変わった。


 “安土はただ押してくるだけではないらしい”

 “明智をすぐ呼ばぬのは、軽んじたからではないらしい”

 “羽柴へ寄れば早いが、それだけでもないらしい”

 そういう、曖昧だが重要な認識が、町の空気に混じり始めている。


「持たせた、か」


 龍之介が呟くと、影鷹が横で言った。


「ひとまずは」


「勝ったのではないな」


「ええ」


「だが、燃え筋を少しは割れた」


「そのようにございます」


 そこが現実なのだろう。


 小さく見れば、一本の荷が通った。

 一つの席を切り抜けた。

 明智を今すぐ呼ぶ流れを止めた。

 だが大きく見れば、それらは全部“ひとまず持たせた”に過ぎない。


「……都は、これで納まるような顔はしておらぬな」


 龍之介が言うと、影鷹は少しだけ笑った。


「京にございますので」


「おぬし、最近はもう少し別のことも言え」


「では」


 影鷹は珍しく少し考えてから言った。


「次は、誰へ本当の重みを渡すか、にございます」


 龍之介は立ち止まり、少しだけ空を見た。


 たしかに、そこだ。


 橋は立った。

 だが細い。

 この先、もっと大きい荷が来れば、誰かを前へ出さねば持たぬかもしれない。

 その時、明智の橋を太くするのか。

 秀吉の糸へもっと重みを預けるのか。

 あるいは、信長の上意をもっと濃く見せるのか。


 その選択は、今までよりずっと重い。


     ◇


 夕方、安土からもう一つ短い使いが届いた。


 文ではない。

 口だけだ。

 だが、それで十分だった。


 上様は、次は誰を前へ出すかを決める段だ、と。

 橋は立った。ならば荷を配れ。


「……やはり来たな」


 龍之介が低く言うと、影鷹が頷いた。


「はい」


 信長は、こういうところを外さない。

 橋を立てただけで満足する男ではない。

 次は、その橋をどう使うか。

 そこまで見て、初めて“よし”とする。


「三上殿」


「何だ」


「ここから先は、もっと重うございます」


「分かっておる」


 明智を今すぐ呼ぶ流れは止めた。

 だが、いつまでも止め続けられる保証はない。

 秀吉の糸は便利だ。

 だが任せるほど羽柴色が濃くなる。

 自分の器も効いている。

 だが、このままでは三上一本橋になりかねない。


 つまり、ここから先は本当に“選ぶ”段なのだろう。


「……橋を立てるだけなら、まだよかった」


 龍之介が言う。


「ほう」


「どれも必要だと並べれば済んだ」


「はい」


「だが、ここからは違う。誰へ、どの重みを、どこまで渡すかを決めねばならぬ」


 影鷹は静かに答えた。


「それが勝負にございます」


 その一言は、ひどく腑に落ちた。


     ◇


 夜、宿の奥で一人になった時、龍之介はあらためて書き付けを前にした。


 明智の橋。

 羽柴の糸。

 自分の器。

 信長の上意。


 この四つを、どう使うか。

 ここまでは、立てることそのものが仕事だった。

 だがこれからは、立った上で、どの橋にどの荷を乗せるかを選び続けることが仕事になる。


「……結局」


 龍之介は小さく呟いた。


「京での勝負は、火を消すことそのものではないな」


 火は、またつく。

 都とはそういう場所だ。

 では何が勝負かといえば、火がついた時、誰を橋にし、誰へ重みを渡し、誰をまだ前へ出さぬか。

 その選び方そのものなのだろう。


「お顔が、ようやく章の終わりらしく」


 影鷹が言いかけたところで、龍之介が即座に振り返った。


「その言い方はやめろ」


「失礼いたしました」


 影鷹が珍しく本気で頭を下げたので、龍之介は小さく息を吐いた。


「とにかく」


「はい」


「ここまでは持たせた」


「ええ」


「だが、これで終わりではない」


「もちろんにございます」


「次は、もっと重い判断になる」


「そうでしょうな」


 それで十分だった。


 橋は立った。

 だが、まだ細い。

 細い橋に大きな荷が来れば、また選ばねばならない。

 誰を前へ出すか。

 誰を留めるか。

 誰の橋を太くするか。


 その勝負は、もうすぐそこまで来ている。


「……面倒だな」


 最後にそう漏らすと、影鷹はやはり答えた。


「今さらでございます」


 結局、どこまで行ってもそれらしかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ