第69話 京は、新しい橋にもすぐ値をつける
京というところは、物にも人にも、値をつけるのが早い。
金銀の値だけではない。
あの者はどのくらい重いか。
どのくらい使えるか。
どこまで柔らかく、どこから退かぬか。
そういう目に見えぬ値まで、あっという間に測ってしまう。
昨日の席で、龍之介は明智を“便利に呼べる橋”へ戻さなかった。
都の希望で橋を決めるのではない。
火の形で決める。
その理を置いた。
それ自体は前へ進んだはずだった。
明智一本橋に戻さず、しかも明智の橋そのものは消さなかった。
器としては、悪くない。
だが、ひとつ避ければ別のひとつが立つ。
明智へ寄らぬとなれば、今度は三上龍之介という顔へ京の視線が寄り始める。
それは予想していた。
だが、予想していたから軽いというものでもない。
「……来るべきものが来た、か」
宿の奥で書き付けを見直しながらそう呟くと、影鷹が言った。
「今さらでございます」
「おぬし、本当にそれしかないのか」
「本日はもう一つございます」
「何だ」
「値がつき始めました」
それが本題だった。
◇
朝のうちから、商人宿の主人のところへ二つ、三つと別筋の口が入った。
表向きはどれも軽い。
「よう来られた」
「先日は見事に」
「あれこれお耳に入れたいことも」
そういう、京ではいくらでも交わせる挨拶の形をしている。
だが、主人が拾ってくる“口の温度”が昨日までと違っていた。
「三上様」
主人が低く言う。
「今日は、聞きに来たのではなく、見に来ております」
「誰が」
「皆が、でございます」
やはりそうか。
「明智殿の代わりか、ではなく」
「ほう」
「三上様ご自身が、どのくらいの橋かを」
ずいぶんはっきり言うものだと思ったが、たぶん京ではこういう時の方がむしろ正直なのだろう。
もう“ただの使い”として扱う段ではない。
だから値踏みそのものが始まる。
「寺社筋は」
龍之介が問う。
「“明智ほど重くはないが、まず話を当てる顔としてはよい”と」
「ありがたいような、ありがたくないような」
「町の方は、“柔らかく通るなら、まず三上へ話した方が早いのでは”と」
やはりそうなる。
柔らかく通る。
それは評価でもある。
だが、それが広がれば今度は“困れば三上へ”という新しい一本橋になる。
「公家筋は」
主人は少しだけ間を置いた。
「“軽い顔で来たが、軽くはない”と」
その言い方は、昨日も聞いた。
どうやらもう、いくつかの口に乗っているらしい。
「値がついたな」
龍之介が言うと、主人は深く頷いた。
「京にございますので」
もはや挨拶のようなものだった。
◇
午前のうちに、さっそくその“値”を見に来るような顔が現れた。
町の荷を扱う中では中堅どころ、だが顔の広い男で、先日の紙束の件にも遠くから関わっていた者だという。
大物ではない。
だが、こういう者が動き始める時は空気が寄っている証拠だ。
「三上様」
「何だ」
「先日のこと、礼を」
礼、という言葉を前へ出してくる時点で半分は探りだ。
礼を言いたいだけなら、口上で済む。
わざわざ顔を見に来るのは、その礼をどう受ける男かを量りたいからだ。
「礼を受けるほどのことでもない」
龍之介が答えると、男は少し笑った。
「そう申されますな」
「事実だ」
「ですが、こちらではそうは見ませぬ」
「……」
「一本だけ通された。全部を何とかすると大きく出るでもなく、知らぬ顔をするでもなく」
男はそこまで言って、少しだけ目を細めた。
「このくらいの手を、きちんと打てる方かどうかは、大きいのでございます」
なるほどな、と思う。
京では、大きな約束より、こういう小さな確かな手当ての方が、かえって値になるのだろう。
約束は誰でも言える。
だが一本だけ確かに通すには、聞く耳と、退かぬ芯と、実際に動かす段取りの全部が要る。
「それで」
龍之介が言う。
「今日は礼だけか」
男は、きれいに笑った。
「半分は」
「残り半分は」
「この先も、お耳へ入れてよろしい方かを」
やはりそこへ来る。
“安土の新しい窓口”として値をつけるとは、こういうことだ。
まず礼を言い、次に困りごとを流せる顔かどうかを測る。
そして、その繰り返しで一本橋を育てる。
「何でも聞く顔ではない」
龍之介は静かに言った。
男の目が少しだけ真剣になる。
「ですが」
龍之介は続ける。
「見ぬうちに切る顔でもない」
「……」
「流したいなら流せ。だが、それで橋が一本になると思うな」
男は一瞬だけ黙り、それから深く頭を下げた。
「それは、肝に銘じましょう」
分かったかどうかは別として、少なくとも今の言葉は持ち帰るだろう。
◇
昼過ぎ、今度は寺社側の下役筋から、少し違う含みの使いが来た。
こちらは困りごとそのものではなく、
“上の者どもも、三上様というお顔を少しずつ見始めております”
という知らせだった。
つまり、もう下だけの話ではない。
寺の上も、公家の奥も、町の有力者も、少しずつこちらへ値をつけ始めている。
これが進めば、今度は三上龍之介が“最初に話を当てる顔”として固定されかねない。
「……早いな」
龍之介が言うと、影鷹が答えた。
「京にございますので」
「今日はそればかりだな」
「本当にそうですので」
否定できない。
「明智一本橋を避けた」
龍之介が言う。
「ええ」
「羽柴一本にも寄せておらぬ」
「はい」
「すると今度は、私へ寄る」
「左様にございます」
それが京という都なのだろう。
一つの器を壊せば、また別の器へ自然と流れを寄せる。
何かを通すためには、どこかへ重みを集めねばならぬと、皆が半ば無意識に思っているのかもしれない。
「……橋を分け続けるしかないな」
龍之介が小さく言うと、影鷹が頷いた。
「はい。立てた橋を守るのでなく、また寄りすぎる前に分ける」
「面倒だ」
「まことに」
そこだけは、珍しく完全に一致した。
◇
夕刻、安土から追加の使いが入った。
文は信長からではない。
蘭丸筋の早い口で、短く、だがはっきりとした伝言だった。
上様が、次は誰を前へ出すかを決める段だと見ておられる。
京での値踏みの流れを、そのまま育てるな。
なるほど、と思う。
やはり信長は、こういうところを見逃さない。
明智一本橋を避けた。
それはよい。
だが今度は三上一本橋になりかけている。
それをそのまま育てるなということだ。
「……信長公らしい」
龍之介が言うと、影鷹が頷いた。
「ええ」
「つまり、次は本当に“誰をどこまで前へ出すか”を決めねばならぬ」
「はい」
「京が勝手に値をつける前に」
「こちらで荷を配る段にございます」
その言い方は、実に正確だった。
橋は立った。
だが立った橋へ、都が勝手に荷を寄せ始めている。
ならば次は、こちらが先に“どの橋へどの荷を渡すか”を決めねばならない。
「……ようやく、次の段だな」
龍之介が言うと、影鷹は静かに目を細めた。
「はい」
「ここまで来てようやく、か」
「京にございますので」
やはり最後はそれだった。
◇
夜、龍之介は宿の奥で今日一日の流れを書き付けていた。
町の中堅どころが顔を見に来た。
寺社の上もこちらを見始めた。
“軽い顔で来たが軽くはない”という評が広がっている。
そして安土も、それをそのまま育てるなと見ている。
つまり、ここでひとまず前へ進んだことは間違いない。
自分はもはや“ただの使い”ではない。
少なくとも京の側は、そうは見ていない。
だが、それは喜ぶだけのことではない。
新しい一本橋にされる危うさでもあるからだ。
「……成果と危うさが、同じ顔で来るな」
そう呟くと、影鷹が言った。
「今に始まったことではございませぬ」
「たしかにな」
「ですが、今回ははっきりしております」
「うむ」
「京が、三上殿自身へ値をつけ始めた」
「そうだ」
これが次の山だろう。
橋は三本。
だが、そのうち一本が新しく太りかけている。
ならば次は、誰へ本当の荷を渡すかを、こちらがもっと明確に決めねばならない。
「……面倒だな」
龍之介が最後にそう漏らすと、影鷹はいつも通り答えた。
「今さらでございます」
やはり、その一言に戻るらしかった。




