第68話 明智殿を呼ぶべきでは、と京が言う
人は、本当に欲しい答えほど、回り道をしてから口にする。
京ではその癖がなお強い。
最初は含みで測る。
次に、別の話の形で触れる。
それでも相手が崩れぬと分かって初めて、ようやく本当に聞きたいことを言葉にする。
だから、今回の席で何が来るかは、龍之介にもだいたい見えていた。
明智光秀を、いつ都へ呼ぶのか。
それはもはや、ただの探りではない。
寺社の下、町の荷、公家筋の顔、その全部が少しずつ一段上がった先で、ようやく出てくる“次の橋”の問いだった。
呼べば早い。
それは誰もが分かっている。
だからこそ厄介なのだ。
◇
席は前回よりわずかに重かった。
場所は同じく、表へ響きすぎぬ離れ。
だが、いる顔が少し違う。
寺社の下役に近い者、公家筋の用人に近い者、町の荷の扱いに顔の利く者。
立場は依然として表の大物ではない。
しかし前より半歩だけ“上へ通じる顔”が揃っている。
つまり、ここで交わされた言葉は、ただちに表へは出ぬ。
だが、そのまま上へ運ばれるには十分な重さを持つ。
そういう席だ。
龍之介は、入る前に一度だけ呼吸を整えた。
今日の席では、下の詰まりの話だけでは済まない。
紙束を一本通したこと、町と寺の火を少しだけ割ったこと、それらを前提にした上で、次の橋をどうするかが問われる。
つまり、自分の器だけではなく、明智の橋をどう扱うかが真正面から俎上に載る。
「三上様」
先に座していた用人筋の男が、静かに頭を下げた。
「重ねて、お時間を」
「こちらこそ」
龍之介も座した。
茶は出る。
香も穏やかだ。
だが今日は最初から、空気に余分な緩みがなかった。
昨日までのような値踏みは、もう半ば済んでいる。
今日は、次へ進めるかどうかを見に来ている顔だ。
しばしの静けさのあと、町の男が口を開いた。
「紙束の件、寺の下では助かったようにございます」
「それはよかった」
「町の方も、“話は聞くらしい”とは申しております」
言い方がいかにも京だった。
褒めるでもない。
だが、否定もしない。
“話は聞くらしい”。
その程度の認めが、こういう場では次の問いを開く。
「だが」
寺社筋の男が言った。
「一本通ったことで、次の詰まりが見えてまいりました」
「うむ」
「荷と顔を見ておいでなら、もうお分かりでしょう」
「少しはな」
龍之介がそう返すと、用人筋の男がゆっくりと言葉を置いた。
「では、そろそろ明智殿をお呼びになるべきでは」
ついに来た。
やはり、正面から来ると空気の張り方が違う。
含みではない。
願いでもない。
提案の形を取っているが、実質は問いだ。
安土は、ここから先をどの橋で渡るつもりなのか。
龍之介は、すぐには答えなかった。
焦って返せば、そこに本音が出る。
遅らせすぎれば、怯みと見られる。
この一拍の置き方そのものが、すでに勝負だった。
「理由を」
龍之介は静かに言った。
「まず、お聞かせ願いたい」
問われた側が、逆に理由を求める。
それ自体が一つの器だ。
用人筋の男は、その返しを予想していたらしく、すぐに崩れなかった。
「三上様が軽いと申すつもりはございませぬ」
「ありがたい」
「ですが、ここから先は都の顔だけでなく、都の理そのものが絡みます」
「……」
「寺社の下や町の荷は、三上様のようなお立場でよくご覧になれるでしょう」
「うむ」
「だが、公家筋の顔、朝廷へ近い理、寺の上の面目、そのあたりまで行けば、織田家中で最も都を知るのは、やはり明智殿ではございませぬか」
理としては、強い。
町の男も、寺社筋の男も、それぞれ小さく頷いている。
つまり今日の席は、三人が別々にそこへ辿り着いたのではなく、あらかじめ“ここを問う”と整えてきているのだろう。
「早い、というわけですな」
龍之介が言うと、寺社筋の男が答えた。
「早うございます」
「そして、筋も通る」
「はい」
「つまり、安土が本気で都を扱うなら、明智殿を前へ出す方が分かりやすい、と」
「左様にございます」
まことに、よくできた問いだった。
反論しづらい。
光秀の理と名は、この局面において明らかに有効だ。
呼べば早い。
呼べば通る。
だからこそ危ない。
龍之介は、ようやく口を開いた。
「たしかに、明智殿が前へ出れば早い」
三人とも、その一言を逃さず聞いている。
ここで“いや、そうでもない”と痩せた強がりを見せれば負けだ。
だからまず、相手の理を認める。
「都の理を知り、寺社にも通じ、公家筋の言葉も分かる」
「ええ」
「その橋が太く、まっすぐであることは、私も認める」
用人筋の男の目がわずかに和らぐ。
こちらが頑なに明智を遠ざけるつもりではない、と見えたのだろう。
「では」
男が問う。
「なぜ、呼ばぬ」
そこへ来る。
龍之介は、静かに答えた。
「早い橋ほど、すべての荷を乗せられやすいからだ」
町の男の眉が、少しだけ動いた。
寺社筋の男は、黙っている。
用人筋の男だけが、じっとこちらを見ていた。
「明智殿が前へ出れば、今の火は早く収まるやもしれぬ」
龍之介は続ける。
「だが、それと引き換えに、都の火は今後も“まず明智へ”となる」
「……」
「寺の下の詰まりも、町の荷の歪みも、公家の顔の揺れも、皆まず明智へ向かう」
そこまで言って、一度だけ息を置く。
「そうなれば、都は楽だろう」
それは、かなり踏み込んだ言い方だった。
だが必要だった。
「困れば、都に通じた橋へ寄せればよい」
「……」
「だが、それは都にとって便利なだけで、安土の橋としては重すぎる」
寺社筋の男が、そこで初めて口を開いた。
「都が、便利を求めておると」
「人は皆、そういうところがある」
龍之介は答えた。
「都も、安土もな」
その返しに、男は少し黙った。
責めきれない。
図星でもあるのだろう。
「では」
用人筋の男が低く言う。
「三上様は、明智殿をいつまでも呼ばぬと」
「そうは言わぬ」
龍之介は、はっきりと言った。
三人の視線が揃う。
「明智の橋は消しておらぬ」
「……」
「必要なら太くする」
「必要、とは」
そこが今日の核心だった。
「都が“誰に来てほしいか”ではなく」
龍之介は言った。
「今の火が、どの橋でなければ持たぬか、で決める」
しん、と空気が静まる。
これは、かなり強い返しだった。
都の希望で橋を決めるのではない。
火の形で決める。
つまり、都に決定権を渡さない。
だが、明智を切ってもいない。
その中ほどへ、ようやく立てた気がした。
「今の火は」
龍之介は続ける。
「まだ、下をほどきながら上を見る段だ」
「……」
「明智殿を呼べば早い。だが、早いことそのものが次の重みを生む」
「では、今はまだその段ではない」
「そうだ」
町の男が、小さく息を吐いた。
「三上様は、なかなか退かぬ」
「退くべきところなら退く」
「だがここは」
「まだ退かぬ」
それでよかった。
ここで曖昧に笑って“そのうち”などと言えば、今度は都の側が勝手に“では近く明智が来る”という器を作る。
それは避けねばならない。
◇
席の空気は、それで終わりにはならなかった。
寺社筋の男が、少しだけ真っ直ぐに問うた。
「では、三上様は何を見て、どこで“必要”とお決めになる」
これもまた、重い問いだ。
龍之介は少しだけ茶碗へ目を落としてから答えた。
「荷と顔だけでは足りぬとなった時だ」
「……」
「下の詰まりをほどいてもなお、公家筋や寺の上の理が動かず、しかもそれが都全体の空気を止め始めるなら、その時は橋を太くせねばならぬ」
用人筋の男が、ゆっくり頷いた。
「なるほど」
「つまり、明智殿は都の願いで呼ばれるのではなく、火の重さで呼ばれる」
「そういうことにございます」
その整理がついたことで、今日の席は大きかった。
明智を呼ぶべきか否か、という問いを、都の希望から切り離した。
火の形が決める。
その理を置けたのは、たぶん小さくない。
用人筋の男は、それ以上追わなかった。
寺社筋の男も、町の男も、それぞれに苦い顔ではあったが、否定はしなかった。
完全な納得ではない。
だが、“いま明智を呼ばぬのは、軽んじているからではない”という線は通ったのだろう。
◇
席を辞したあと、宿までの道で影鷹が言った。
「切り抜けられましたな」
「切り抜けた、というより」
龍之介は小さく息を吐いた。
「ようやく一つ、器を置けた」
「明智殿を“便利に呼べる橋”にはせぬ、と」
「そうだ」
「ですが」
影鷹が続ける。
「都の側から見れば、三上殿はますます“橋を決める顔”に見えたやもしれませぬ」
その通りだった。
明智を呼ぶか否か。
その境を、いま自分が語った。
ならば都の者から見れば、“三上龍之介は橋の太さを決める顔”になる。
それは成果であり、同時に危うさでもある。
「……また橋が寄るな」
龍之介が言うと、影鷹は静かに頷いた。
「京にございますので」
やはりそこへ戻る。
「だが、今日は前へ進んだ」
「はい」
「明智を今すぐ呼ぶ流れは、止めた」
「ええ」
「次は」
龍之介は少しだけ目を細めた。
「今度は私に、値がつく」
影鷹は、それを否定しなかった。
◇
夕刻、商人宿の主人が戻ってくるなり、少しだけ困ったような顔で言った。
「三上様」
「何だ」
「先ほどの席、もう少し広う伝わっております」
「早いな」
「京にございますので」
もはや合言葉のようだった。
「どう伝わった」
「“軽い顔で来たが、軽くはない”と」
龍之介は、思わず苦笑した。
それは褒め言葉のようで、実に面倒な評価だ。
「ほかには」
「“明智の代わりではない”とも」
「……」
「“だが、明智の橋を消してもいない”とも」
そこまで含めて伝わっているなら、今日の席はほぼ狙い通りに運ばれたのだろう。
だが、その次の一言が厄介だった。
「そして」
主人が少しだけ声を落とした。
「“三上という男は、安土の新しい窓口になりうる”という見方も」
やはり来た。
明智一本橋を避けた。
羽柴一本にも寄せていない。
ならば今度は、三上龍之介という新しい橋へ都が値をつけ始める。
それは避けきれぬ流れだったのかもしれない。
「……面倒だな」
龍之介が本音を漏らすと、主人はさすがに今日は笑わなかった。
「ですが、それだけ今日のお言葉が効いたということでもございましょう」
それはたしかにその通りだった。
◇
夜、龍之介は机の前で今日のやり取りを書き留めていた。
明智を今すぐ呼ぶ流れは、ひとまず止めた。
しかも、“必要なら橋を太くする”という含みは残した。
つまり、光秀の橋は消していない。
そのうえで、都の希望で橋を決めるのでなく、火の形で決めるという理を置いた。
成果としては十分だ。
だが、その代わり、三上龍之介という顔に値がつき始めた。
「……橋を分ければ終わりではない、か」
そう呟くと、影鷹が静かに答えた。
「また新しい橋に寄ってまいります」
「嬉しくない都だ」
「ですが、ようやく一段上がられました」
それは否定できない。
最初の茶で器を見せた。
秀吉の糸が現場で効いている現実も見た。
小さな荷を一本通した。
そして今日、明智を“便利に呼ぶ橋”へ戻さなかった。
ここまでは、たしかに前へ進んでいる。
「……次は第69話で、私自身に値がつくところが中心になる」
と言いかけて、すぐに口をつぐんだ。
こういう物言いは、物語の中ではいらない。
龍之介は小さく咳払いしてから言い直した。
「次は、私に向かってくる視線そのものを見ねばならぬな」
影鷹は頷いた。
「左様にございます」
「そして、その次で、信長公が誰を前へ出すかを決める段に入る」
「ええ」
そこまで見えているのなら、今夜は十分だろう。
「……面倒だな」
最後にまたそう漏らすと、影鷹はいつも通り答えた。
「今さらでございます」
やはり、その一言に戻るらしかった。




