第63話 最初の茶、最初の探り
京では、正式な会談より先に、小さな茶の方がものを決めることがある。
決まる、というと語弊があるかもしれない。
もっと曖昧で、もっと厄介な意味でだ。
この相手はどこまで聞くか。
どこまで退き、どこから退かぬか。
強く出れば折れるか、柔らかくすれば飲めるか。
そういうことが、たいていは最初の茶で量られる。
その日の打診も、まさにそういう類だった。
寺社そのものの正式な使者ではない。
下役に近い者と、その者へ口を利く用人筋、さらに町の顔役とまではいかぬが、その手前にいる商いの者。
立場はそれぞれ半歩ずつ低い。
だが低いからこそ、場の温度を正直に持ってくる。
そして高いところへそのままは上げぬ。
一度、自分たちの目で値踏みする。
「茶席、にございますか」
龍之介が打診を聞き返すと、宿の主人が低く頭を下げた。
「大仰なものではございませぬ」
「そう言う時ほど、大仰でないことが重い」
主人は少しだけ笑った。
「京にございますので」
まことにその通りだった。
龍之介は少しだけ考え、それから頷いた。
「受けよう」
断る理由もある。
まだ着いたばかりだ。
こちらの器も完全には整いきっていない。
だが、断ればそれ自体が器になる。
“まだ何も見ぬうちから閉じる顔”は、この都ではあとに響く。
ならば、最初の茶だけは受けるべきだろう。
「影鷹」
「は」
「席の外で、空気だけ拾っておけ」
「承知」
「供回りは」
「二人、あくまで静かな顔で」
これも決めてあった。
威圧はせぬ。
だが軽くも見せぬ。
柔らかく入り、しかし背後に安土の重みは感じさせる。
その加減が、最初の茶では何より大事だった。
◇
席は、宿の奥からさらに少し離れた、小さな離れで設けられた。
寺でもなく、町家そのものでもない。
だからこそ中間だ。
中間の顔で、まだどちらにも寄りすぎぬ器を作る。
そういう趣向なのだろう。
入った瞬間、龍之介は空気の薄い張りを感じた。
静かだ。
だが緩くはない。
香は強すぎず、茶器も見せびらかすほどではない。
上等ではある。
だがあくまで“穏やかな席”の顔を崩さぬよう整えられている。
こういうところが、いかにも京らしい。
先に座していたのは三人。
一人は寺社の下役筋に近い男。
年は四十を少し過ぎたあたりか。
声の置き方が静かで、表には出ぬが中でよく働く者の顔をしている。
一人は公家屋敷の用人に近い男。
こちらは年嵩で、目が細い。
言葉の端を拾うより、言葉と言葉のあいだの沈黙を見る手合いだろう。
そしてもう一人は、町の商いに通じた男。
茶の湯の場慣れは一番薄いが、そのぶん人の困り顔には敏い気配があった。
三人とも、役目が違う。
だが今日は、同じ火の別々の側面を持ってきているはずだ。
「ご足労いただき、恐れ入ります」
寺社筋の男が言った。
「こちらこそ」
龍之介は座しながら答える。
「先に申しておくが、今日は聞きに来た」
「それは結構なことにございます」
男はすぐにそう返した。
つまり、“聞く顔”として来たこと自体は悪く受け取られていない。
だが問題はその先だ。
聞くだけなのか。
聞いたうえで何を持ち帰るのか。
そしてどこまで、自分の判断で器を作れる男なのか。
茶が出る。
最初のやり取りは柔らかい。
天気。
道中。
京までの足の具合。
そうした話の中で、相手は“急ぎすぎる顔かどうか”を見ているのだろう。
やがて、公家筋の用人が静かに言った。
「安土の理は、早うございますな」
来たな、と思う。
これが今日の席の芯だろう。
都の理と安土の理、その速度差。
火の根は、たぶんそこから下へ染み出している。
「早いと思われますか」
龍之介が返すと、用人はわずかに目を細めた。
「思うております、ではなく」
「……」
「その早さに、こちらの手足が追いつかぬことがある」
いきなり不満をぶつけるのではない。
“こちらが困っている”という形で出す。
それも京らしい。
「兵の通りか」
龍之介が言うと、今度は町の男が口を開いた。
「それだけではございませぬ」
「ほう」
「兵が通る。人足が要る。荷の順が狂う。寺へ入れるべき物が遅れる。遅れれば寺の中で顔が立たぬ」
「……」
「結局、町の荷と寺の面目が、一緒に傷むのでございます」
その言い方は、火の根をよく表していた。
寺の問題ではある。
だが、町の問題でもある。
表では別々のようでいて、下では同じ歪みに触れている。
だから火が一つにまとまりかけるのだ。
「人足の負担は」
龍之介が問うと、寺社筋の男が言う。
「致し方なきことと存じております」
この“致し方なきこと”が厄介なのだ。
表では皆そう言う。
だが、致し方ないが積み重なれば、やがてそれは不満ではなく疲れになる。
疲れは、怒りより長く残る。
「だが」
男は続けた。
「致し方ないことが、あまりに続くと、人は“こちらの都合は見えておるのか”と思い始めます」
そこだった。
都側が求めているのは、すべてを引っ込めろということではない。
少なくとも今はまだ。
だが、“見えている”とは感じたい。
それが感じられぬ時、不満は理ではなく空気になる。
「見えておる」
龍之介は静かに言った。
三人の目が、少しだけこちらへ寄る。
「だが」
龍之介は続けた。
「見えておることと、すぐに全部を退けることは違う」
ここが、中ほどで立つ難しさだった。
柔らかく聞く。
だが謝り役にはならぬ。
“分かっております、何とかいたします”だけで流せば、その場は和らいでも、安土の芯は消える。
それでは意味がない。
「兵の通りも、人足も、安土の理の中では要る」
龍之介は言った。
「それは私がここで軽く退ける話ではない」
少しだけ空気が張る。
町の男の眉が、ほんの僅かに動いた。
つまり、ここからが本番だ。
「では」
公家筋の用人が静かに問う。
「何を見においでか」
よい問いだった。
“聞きに来た”だけでは足りぬ。
ならば何を持ち帰る気なのか。
それを問うている。
「詰まりだ」
龍之介は答えた。
「どこで、何が、誰の顔を潰しながら詰まっているか。それを見に来た」
寺社筋の男が初めて少しだけ表情を変えた。
「顔、にございますか」
「京は顔で持つところがある」
そう言うと、三人とも否定しなかった。
「荷が遅れるだけなら、まだ段取りの話で済む」
龍之介は続けた。
「だがその遅れが寺の中で誰の顔を潰し、町で誰の暮らしを削り、公家屋敷で誰の口を曇らせるか。そこまで行けば、もう単なる遅れではない」
町の男が、小さく息を吐いた。
「……よう見ておられる」
「見に来たのでな」
そこまで言ってから、龍之介は少しだけ声を落とした。
「だが、見えていると伝えるだけでは足りぬとも思うておる」
「……」
「安土が、どこまで聞く耳を持ち、どこで退かぬか。その両方を、こちらも整えねばならぬ」
寺社筋の男が、そこで茶碗へ目を落とした。
これは悪くない流れだ、と龍之介は感じた。
まだ和らいではいない。
だが、“ただの謝り役ではない”ことは伝わったはずだ。
しかも、聞く耳は閉じていない。
「三上様」
今度は町の男が言う。
「京の者どもは、弱う申せば乗るとお思いか」
「思わぬ」
「では、強く申せば折れると」
「それもまた違う」
龍之介は答えた。
「京は、強く言えば折れるのではない。強く言われたことを、あとで長く覚える」
三人とも黙った。
図星だったのだろう。
この都は、その場で喧嘩になるより、あとで静かに記憶しておく方が怖い。
信長のように、その場で切って捨てて進む理とは違う。
だから“言葉の都”なのだ。
「ならば」
公家筋の男が、ほとんど囁くように言った。
「どう立たれる」
今日一番深い問いだった。
柔らかく入り、しかし軽く見られず、謝り役にもならず、退かぬ芯も残す。
その答えを、今ここで龍之介自身が言葉にせねばならない。
「中ほどで」
龍之介は言った。
「立つ」
三人の視線が揃う。
「聞く。だが、ただ聞き流さぬ」
「……」
「退かぬところは退かぬ。だが、退かぬと言うために、どこで顔が潰れているかだけは見て帰る」
茶席の空気は、静かなまま少しだけ重くなった。
たぶん、いまの一言で龍之介の器の輪郭がだいぶ見えたのだろう。
「なるほど」
寺社筋の男が言った。
「弱うもなく、強すぎもせず」
「そうありたいと思うておる」
「難しゅうございますな」
町の男が言う。
「だから、ここへ来た」
そう返すと、三人はようやく少しだけ力を抜いた。
◇
席が終わりに近づいた頃、不意に寺社筋の男が言った。
「羽柴殿のお耳にも、もう入っておりましょうな」
そこか、と龍之介は思った。
やはり京の場では、秀吉の糸もすでに一つの現実なのだ。
「入っておるだろうな」
龍之介は隠さず答えた。
「速うございますから」
「はい」
男は少しだけ笑った。
その笑いには、好悪が半分ずつ混じっていた。
「羽柴殿は、話が通る」
「だが、通りすぎる」
龍之介がそう返すと、今度は公家筋の用人が初めて、ほんの少しだけ口元を動かした。
「なるほど」
そこも伝わったかもしれない。
秀吉の糸は便利だ。
だが、それだけに寄れば都は羽柴色に染まりすぎる。
その危うさまで見ていると分かれば、この席の相手は少しはこちらを値打ちある橋と見始めるだろう。
「では」
男たちは立った。
「本日は、この程度に」
「十分だ」
「また、お耳へ入れたいことも出ましょう」
「こちらも、見えたものは持ち帰る」
それで最初の茶は終わった。
◇
席のあと、宿へ戻る道すがら、龍之介はしばらく黙っていた。
「いかがでした」
影鷹が問う。
「きついな」
「はい」
「強く言えば閉じる。弱く言えば飲まれる。まことに面倒な都だ」
「それでこそ京にございます」
腹立たしいが、間違っていない。
「だが」
龍之介は少しだけ息を吐いた。
「器は見せられた」
「中ほどで立つ、と」
「うむ」
「謝り役ではなく」
「ただの強がりでもなく」
そこが大事だった。
聞く耳はある。
だが、聞いたことを全部その場で退くために使うわけではない。
安土の芯も残す。
その中ほどに立つ。
それが、今日の茶でようやく相手に見せられたのだろう。
「そして」
影鷹が言う。
「羽柴殿の糸も、京ではもう一つの現実にございますな」
「ああ」
宿へ戻り、座へ着いた時には、夕方の光が障子を少し赤くしていた。
最初の茶は終わった。
だが、これは始まりにすぎない。
寺社の下、町の荷、公家の用人、そのどこもまだ火を手放してはいない。
こちらの器を見て、次に何を持ってくるかを考え始めるだろう。
「……面倒だな」
思わず呟くと、影鷹がいつも通り答えた。
「今さらでございます」
やはり最後はそれだった。




