第61話 安土を発ち、京の空気へ入る
夜明け前の安土は、静かだった。
城も、城下も、まだ眠りの底を完全には抜けきっていない。
だが、その静けさの下ではすでに人が動いている。
厩では馬の鼻息が白く立ち、台所では火が入り、供回りの者たちは声を殺して支度を進めていた。
三上龍之介は、まだ薄暗い空の下で立ち止まり、ひとつ息を整えた。
いよいよ京へ下る。
そう思うと、妙に胸の内が静かだった。
緊張がないわけではない。
むしろ重みは十分にある。
だが、ここ数日のあいだに、行くか行かぬかで迷う段は過ぎていた。
今はもう、動くための形が整ったかどうか、それだけの話だった。
背後から、控えめな足音が寄ってくる。
「三上殿」
蘭丸だった。
「供回り、揃いました」
「ありがとう」
「丹羽殿の方から出る二人も、すでに外に」
「さすがに早いな」
「そうでなければ、今日の役目は務まりませぬ」
短く、それでいて隙がない。
いかにも蘭丸らしい言い方だった。
龍之介は、もう一度だけ今回の形を頭の中でなぞる。
供は少数。
だが軽すぎぬ顔ぶれ。
目立つほど武を押し出さず、それでいて信長の背後を感じさせる配置。
先触れは必要なところだけへ薄く。
宿は商人宿の奥。
表向きの名目は、都筋との段取り確認と行き来の滞りの見分。
どこまで見せ、どこまで曖昧に残すかも、ひととおり腹へ落としてある。
準備としては、もう十分だろう。
「上様には」
龍之介が問うと、蘭丸は頷いた。
「いましがた、お出ましになると」
やはり、かと思った。
信長は細かく見送りをする男ではない。
だが、自分で前へ出すと決めた者が城を発つ時、その最初と最後だけは妙にきっちり押さえるところがある。
人の使い方が大きいくせに、そういう節目だけは外さぬ。
ほどなく、足音も立てずに信長が現れた。
朝の光はまだ薄い。
その薄闇の中で、この男だけは不思議と輪郭がはっきりして見える。
大きな声も出さず、派手な姿でもない。
なのに、場の中心が自然とそちらへ寄る。
「行くか」
信長が言った。
「はい」
「器は崩れておらぬな」
「いまのところは」
信長の口元が、わずかに上がる。
「それでよい」
短い。
だが、その短さの中に必要なものは全部入っていた。
「明智の橋を背に感じろ」
「はい」
「羽柴の糸も使え」
「はい」
「だが、誰の者にもなるな」
「承知しております」
信長はそれ以上、余計なことを言わなかった。
ただ一度だけ龍之介を見て、あとはもう視線を外した。
「京は、言葉が先に走る」
不意に、そう言った。
「おぬしの言葉が遅れれば、向こうの言葉に呑まれる」
「肝に銘じます」
「よい。行け」
それで終わりだった。
盛大な見送りもない。
旗もない。
だが、それで十分だった。
信長の「行け」は、下手な軍令より重い。
龍之介は深く頭を下げ、顔を上げた時にはもう歩き出していた。
◇
安土を離れると、朝の光が少しずつ地の色を取り戻し始めた。
馬上の揺れは一定で、供の者たちも無駄口を叩かぬ。
道はまだ朝の冷えを残している。
遠くに田の気配があり、村から上がる煙が細く伸びている。
旅そのものは大仰なものではない。
だが、だからこそ今回の下向が遊山でも巡見でもなく、きっちりと役を帯びた移動であることがよく分かる。
安土を出たばかりの頃は、まだ城の理が残っていた。
人の動きが速い。
道も、声も、何か決められた方向へ通っている感じがある。
信長の政の中にいる時、人は気づかぬうちにその速さに慣れてしまうのだろう。
だが、半刻、また半刻と進むうちに、空気が少しずつ変わっていく。
道そのものは同じようでいて、道を使う人の顔が違う。
行き交う荷の扱い。
挨拶の間。
こちらを見てから目を逸らすまでの時間。
そうした細いところが、安土の外では少しずつ柔らかく、少しずつ曖昧になっていく。
「……もう違うな」
龍之介が小さく言うと、すぐ後ろを進んでいた影鷹が答えた。
「安土の理から、京の空気へ入っております」
「おぬし、そこはいつも正確だな」
「鼻の仕事にございますので」
「羽柴殿みたいなことを言うな」
影鷹が小さく笑った気配がした。
京の空気。
まだ京そのものへ入ったわけではない。
だが、もう“京へ向かう人々の気配”が混じり始めている。
寺へ向かう者。
荷を運ぶ者。
町へ売り物を持ち込む者。
文を携えた使いの者。
それぞれが、それぞれの事情を抱えながら、あの都へ吸い寄せられていく。
安土は、中心から外へ理を伸ばす場所だ。
京は、外から内へ事情が集まる場所だ。
その違いが、道の上ですでに見えていた。
「三上殿」
丹羽方から付いている供の一人が、馬を少し寄せてきた。
「何だ」
「この先、道筋は予定通りに」
「問題は」
「今のところございませぬ。ですが、こちらを見ている目は増えております」
やはりそうか。
まだ京へ着いていない。
だが、安土から来る小さく整った一行というだけで、見る者は見る。
それが戦国なのだろう。
大軍でなくとも、誰の顔で、どのような整い方で来たかは、見る者には見える。
龍之介は頷くだけに留めた。
ここで大げさに身構えても仕方がない。
見られているなら、見られている前提で行くしかない。
◇
昼へ近づくにつれ、京の匂いが濃くなる。
それは香木の匂いではない。
もっと雑多な、人の重なりの匂いだ。
荷の匂い。
紙の匂い。
水と土と、人が暮らす場の匂い。
安土が“上から整えられた城の匂い”なら、京は“長く積み重なった人の匂い”だった。
宿へ入る前に、一度足を緩めたところで、先触れを薄く入れていた商人宿の主人筋が挨拶に来た。
年の頃は五十に近い。
物腰は低いが、目はよく働いている。
こういう顔が一番侮れない。
「三上様」
「世話になる」
「こちらこそ。奥は静かに整えてございます」
「助かる」
表向きはそれだけの話だ。
だが、その男は一度だけ周囲を見てから、ほんの少し声を落とした。
「お一人では、ございませぬな」
「何がだ」
「橋が、にございます」
いきなりそこへ来るか、と龍之介は内心で思った。
だが顔には出さない。
「面白いことを言う」
「京にございますので」
その言い方は、どこか影鷹に似ていて嫌だった。
「明智殿は、ご一緒ではないのですか」
結局、最初の一太刀はそこだった。
宿へ入る前に、もうその問いが来る。
やはり、京では名が先に座っている。
「今回は、私が先に見分へ来た」
龍之介は静かに答えた。
「なるほど」
男はすぐには頷かず、ほんの一瞬だけ間を置いた。
その間が値踏みだ。
「では」
彼は言った。
「今回は、三上様のお耳で」
「まずはな」
「明智殿のお耳ではなく」
「橋は一本では足りぬのでな」
そこまで言うと、男の目がほんの僅かに動いた。
この一言で、かなりのことを伝えた。
明智の橋はある。
だがそれ一本に寄せるつもりではない。
その意思は、少なくとも伝わったはずだ。
「……承知いたしました」
男は深くは追わなかった。
追わぬからこそ、余計に分かる。
この話は、今夜のうちにどこかへ流れる。
◇
商人宿の奥へ通されると、ようやく一息つける形になった。
表は荷の出入りで騒がしい。
だが奥は静かだ。
人の気配はある。
しかし気配がありすぎぬ。
まことに都向きの宿だと思う。
「よい場所にございますな」
影鷹が言う。
「丹羽殿の読みが当たった」
「表へ寄りすぎず、寺へ寄りすぎず」
「そうだ」
龍之介は座したまま、小さく息を吐いた。
着いた。
だが、到着したという感じはあまりない。
むしろ、今ようやく“京の空気に足を入れた”感覚だった。
安土では、理が先に立つ。
京では、空気が先にまとわりつく。
人の顔。
言葉の含み。
明智の名。
羽柴の糸。
それらが、まだ何もしていないのに、もうこちらの周りへ座っている。
「三上殿」
影鷹が声を落とした。
「何だ」
「明智殿はご一緒ではないのですか、でございましたな」
「うむ」
「早うございました」
「想定より、半日ほど早い」
つまり、こちらが思っていた以上に、京ではもう“明智が来るか来ぬか”が一つのものさしになっている。
「……橋を分けるという理は、正しかったらしいな」
龍之介が言うと、影鷹は頷いた。
「ええ。ですが、正しいと分かるほど重くもございます」
それもまた、その通りだった。
明智の名が歩く。
ならば分けねばならない。
だが分けると決めた瞬間、自分もまた一本の橋として見られ始める。
そういう厄介さが、京には最初からある。
「今夜はまず」
龍之介が紙を取り出しながら言った。
「顔を出してくる相手の順を見直す」
「寺社が先か、商人が先か」
「いや」
龍之介は首を振った。
「明智の名を前へ出してくる者から先に見る」
影鷹が小さく目を細めた。
「なるほど」
「今の京で、何がいちばん重く見られているか。そこを先に測らねばならぬ」
「左様にございます」
安土から京へ下る。
それは単なる移動ではなかった。
この都で、誰の名がどれだけ先に座っているかを見に来ることでもある。
「……面倒だな」
思わず漏らすと、影鷹は静かに答えた。
「今さらでございます」
「着いて早々、それか」
「京にございますので」
その返しに、龍之介は少しだけ笑った。
たしかに、京なのだ。
ならばこういう面倒さも、込みで受けるしかあるまい。




