第60話 京へ向かう前夜、誰の橋になるか
前夜というものは、妙に静かだ。
大きな戦の前夜もそうだし、旅立ちの前夜もそうだ。
もう決まっている。
だが、まだ動いてはいない。
だから人は、動き出したあとの慌ただしさではなく、動き出す前の重さを一身に受けることになる。
京へ下る段取りは、ほぼ整っていた。
第55話から積み上げてきた手配は、ようやく戦国の現実に耐える形になっている。
名目は、都筋との段取り確認と、安土との行き来に生じた滞りの見分。
供回りは少数。
だが軽く見せすぎず、信長の背後を感じさせる顔を混ぜる。
宿は商人宿の奥。
先触れは必要なところにのみ薄く。
会う顔と会わぬ顔も絞った。
そして何より――。
都との橋は、一本ではない。
光秀の理と名。
龍之介の柔らかな器。
秀吉の横から入る糸。
その三本を、重みが偏りすぎぬよう使い分ける。
それがこの数話でようやく形になった構想だった。
だが、形になったからこそ重い。
「……これで、本当に行くのだな」
机の上の書き付けを見ながら、龍之介は小さく呟いた。
行くかどうかを迷う段は終わった。
もう“行ける形を作れるか”を越えた。
次は実際に動く番だ。
「前夜らしいお顔で」
いつものように影鷹が現れた。
「おぬしは本当に、こういう時だけ空気を読んだ顔で出てくるな」
「便利でしょう」
「それしか言えぬのか」
「本日はもう一つございます」
「何だ」
「明日、出立でよろしいかと」
まことに他人事のようだ。
だが、その通りでもある。
都から追加報せが入った。
寺社の下働きと町の荷の扱いをめぐる不満が、一段濃くなっている。
待てば待つほど、火は形を持つ。
しかも、秀吉はすでにこちらの京下向をかなりのところまで読んでいる。
ならば今さら、後ろへ延ばす意味は薄い。
「……明日だな」
龍之介がそう言うと、影鷹は静かに頷いた。
「はい」
「供回りは」
「丹羽殿筋からの二人、整っております」
「先触れは」
「寺社筋の一つ、公家筋の一つ、商人宿の方へ薄く」
「秀吉殿の耳には」
「もう半ば届いておりましょう」
やはりそこは避けられない。
「光秀殿には」
「“橋を分ける”という理で収まっておられます」
「……そうだな」
これもまた、第56話と第57話を越えた一つの成果だった。
光秀は行けば早い。
だが、今は行かぬことで持つものがある。
その代わり、役を奪うのではなく橋を分ける。
その理を受け止めてくれたからこそ、ここまで来られた。
「三上殿」
影鷹が珍しく、少しだけ静かな声で言った。
「今宵は、誰にお会いになります」
その問いは、たしかに前夜らしかった。
信長。
光秀。
秀吉。
できればこの三人とは、出る前にそれぞれ短くでも言葉を交わしておきたかった。
皆、同じ都の火を見ている。
だが意味は違う。
その違う意味を抱えたまま、明日から自分は京へ入る。
「まず、上様だな」
「でしょうな」
「それから日向守殿」
「はい」
「最後に、秀吉殿か」
影鷹は少しだけ笑った。
「最後がもっとも胃に悪そうで」
「言うな」
だがその通りでもあった。
◇
信長は、思ったより静かだった。
あるいは、前夜だからこそ静かなのかもしれない。
もう決めることは決め、あとは動かすだけ。
そういう時のこの男は、妙に静かになることがある。
「明日だな」
部屋へ入るなり、信長はそう言った。
「はい」
「器は整ったか」
「整えたつもりにございます」
「つもりでよい」
相変わらず、優しいのか厳しいのか分からぬ男だ。
「京へ下る」
信長は言う。
「だが、おぬしは京の味方をしに行くのではない」
「はい」
「儂の味方をしに行くのでもない」
その一言に、龍之介は少しだけ目を上げた。
信長の目は、いつになく静かだった。
「では」
「流れが折れぬようにしに行け」
それは、龍之介にとってひどく重い言葉だった。
誰か一人の味方ではない。
都の理だけでもない。
安土の速さだけでもない。
秀吉の利でもなければ、光秀の重さだけでもない。
それらがぶつかって折れぬよう、持たせるために行け。
信長は、そう言っているのだ。
「承知いたしました」
「明智の橋を使え」
「はい」
「羽柴の糸も使え」
「……」
「だが、どちらの者にもなるな」
それが信長の本音なのだろう。
光秀へ寄りすぎれば、また明智一本橋になる。
秀吉へ寄りすぎれば、都の流れが羽柴色になる。
だからどちらも使う。
だが、どちらの者にもならぬ。
それが龍之介の役だと。
「上様」
「何だ」
「難題にございます」
信長は、そこで少しだけ笑った。
「だからおぬしに振っておる」
やはりそう来る。
だが、もはやそれに腹を立てる段でもないのかもしれない。
◇
次に光秀と会った。
この人の前では、どうしても言葉の重みが変わる。
都の理。
橋。
責任。
そういうものが一番深く響く相手だからだろう。
「明日か」
光秀は静かに言った。
「はい」
「早いな」
「待てば、都の火が濃くなります」
「そうだな」
しばらく沈黙があった。
やがて光秀は、低く言う。
「おぬしに、都を任せるつもりはない」
「はい」
「だが今は、おぬしが先に入る方がよいとも思う」
それは、光秀なりのかなり重い認め方だった。
「ありがとうございます」
「礼には及ばぬ」
光秀は、少しだけ視線を外した。
「私は、留まる」
「はい」
「留まることで、橋の一本を保つ」
「……」
「だからおぬしは、明智の橋を勝手に背負うな」
その言葉に、龍之介は深く頷いた。
そうなのだ。
自分が京へ行くからといって、明智の代わりになるわけではない。
代わりになろうとすれば、それこそ全部がまた自分へ寄る。
分けるために行くのであって、奪うためではない。
「日向守殿」
「何だ」
「いずれ、前へ出ていただく時は来るでしょう」
「分かっておる」
「その時までは、明智の橋は“残しておく”」
光秀は少しだけ口元を緩めた。
「ようやく、そこまで言葉にできるようになったな」
「上様の近くにおりますので」
「便利な言い訳だ」
だが、その空気は少しだけ柔らかかった。
「龍之介殿」
光秀が最後に言った。
「京は、言葉の都だ」
「はい」
「強く言えば折れる。弱く言えば呑まれる」
「肝に銘じます」
「中ほどで立て」
それは、まさに今の自分に必要な助言だった。
◇
そして最後に、秀吉だった。
できれば前夜に会いたくない相手ではあった。
だが会わぬ方がもっと嫌な気もした。
あの男は会わなければ会わぬで、その“会わなさ”の意味までこちらに考えさせる。
小座敷へ行くと、秀吉はもう待っていた。
「三上殿」
「羽柴殿」
「いよいよ、でございますな」
やはり、もう全部ではないにせよかなり見えている。
「いよいよ、か」
「京へ」
秀吉はさらりと言った。
「それとも、まだわしの鼻が過ぎますかな」
「過ぎる」
龍之介は率直に返した。
「だが外れてもおらぬ」
「何より」
この男、本当に人をいらつかせるのがうまい。
「羽柴殿」
龍之介は少しだけ真面目に言った。
「都の火、ございます」
「ええ」
「だが、私は羽柴殿の橋になるつもりはありませぬ」
秀吉は、そこで少しだけ目を細めた。
「ほう」
「明智の橋にもならぬ」
「……」
「誰か一人の橋ではなく、流れが折れぬための橋になるつもりです」
秀吉は、しばらく黙っていた。
やがてふっと笑う。
「それはまた、たいそう面倒な役を」
「ええ」
「ですが、三上殿らしい」
その“らしい”が、少し意外に優しかった。
いや、優しいのではない。
ただ、秀吉もまたその難しさをよく分かっているのだろう。
「羽柴殿の糸は使います」
龍之介は言う。
「ありがたいことです」
「だが、使われるだけでは済まぬのでしょう」
秀吉は声を立てて笑った。
「もちろん」
そこは本当に清々しいほど正直だ。
「わしを使えば、わしもまた場を取る」
「知っております」
「それでも使う」
「そうせねば足りぬ」
秀吉は、そこで少しだけ真顔に近づいた。
「三上殿」
「はい」
「その顔は、ようやく“ただの異物”ではございませぬな」
かつてなら、少し腹の立つ言い方だっただろう。
だが今は、その意味も分かる。
本能寺を止めた妙な男。
それだけではもう済まない。
都と安土と羽柴と明智と信長、そのあいだに橋を立てる役へ、実際に足を踏み入れている。
だからもう、ただの異物ではないのだ。
「嬉しくない評価だ」
龍之介が言うと、秀吉は笑った。
「誉めております」
「相変わらず胃に悪い」
「それも相変わらずにございます」
そのやり取りが、前夜の最後にはちょうどよかったのかもしれない。
◇
部屋へ戻ると、夜はずいぶん深くなっていた。
机の上の書き付けは、もう見るべきだけ見た。
供回り。
名目。
宿。
先触れ。
会う顔。
そして、橋。
光秀の橋。
秀吉の糸。
自分の器。
信長の上意。
「……結局」
龍之介は、灯の下で小さく呟いた。
「私は誰の橋になるのでもない」
そうだ。
誰か一人に寄れば、また偏る。
誰か一人の正しさをそのまま通せば、どこかが折れる。
だから、自分がなるべきなのは誰か一人の橋ではない。
流れが折れぬための橋。
それが今の答えだった。
その時、影鷹が最後に現れた。
「お顔が定まりましたな」
「そう見えるか」
「はい」
「ならよい」
「誰の橋になるか、決まりましたか」
龍之介は少しだけ笑った。
「誰の橋にもならぬ」
「ほう」
「流れの橋になる」
影鷹は、珍しくすぐには何も言わなかった。
やがて、小さく頷く。
「それでこそ、でございます」
「珍しく、少しまともな返しだな」
「前夜にございますので」
そう言われると、少しだけ肩の力が抜けた。
明日から、京だ。
まだ道は動いていない。
だが、もう勝負は始まっている。
ならば、行くしかない。




