第58話 秀吉へは、どこまで本気を見せるか
三本橋の理は、たしかにきれいだった。
光秀の理と名。
龍之介の柔らかな器。
秀吉の横から入る糸。
一本へ荷を寄せすぎぬ。
それぞれ向いた荷を乗せ、都と安土のあいだの流れを折らぬようにする。
理としては、かなりよくできている。
少なくとも龍之介には、ようやく“この先へ進める形”が見えた気がしていた。
だが、理が立った瞬間に、別の面倒がはっきりした。
この三本のうち、いちばん危うい橋はどれか。
答えは、考えるまでもなかった。
羽柴秀吉である。
光秀は重い。
だから荷を寄せすぎぬよう気をつければよい。
自分は軽い。
だから背の重みを整えればまだ持たせられる。
だが秀吉は違う。
あの男は、使えば必ず働く。
しかも働いた分だけ、自分の糸を太くする。
その意味で、最も便利で、最も危うい。
「……厄介だな」
机の前で龍之介がそう呟いた時、影鷹がすぐに言った。
「今さらでございます」
「おぬし、最近はもう反射でそれを言うな」
「便利ですので」
やはり便利らしい。
龍之介は、机に広げた紙の上の“羽柴の糸”と書いた線を見た。
昨日までより少し太く見える。
もちろん実際に太くなったわけではない。
だが、見え方としてそれだけ存在感が増している。
「橋を三本にする、と決めた」
龍之介が言う。
「はい」
「だが、そのうち一本が勝手に太っていけば、また同じことだ」
「左様にございます」
「問題は、秀吉殿へどこまで本気を見せるか、だな」
影鷹は少しだけ目を細めた。
「隠しすぎれば、鼻を利かせる」
「そうだ」
「見せすぎれば、羽柴の糸が太る」
「まことに、その通りだ」
この男を使うとは、そういうことなのだろう。
ただ命じればよいわけではない。
全部を明かして任せれば、場は取ってくれる。
だがその代わり、その場の“通りのよい口”が羽柴へ寄る。
かといって隠しすぎれば、秀吉は外から別筋を伸ばし、余計に深く食い込んでくる。
ならば、見せる。
だが、見せすぎぬ。
この加減が必要になる。
「本気を見せるのは、火があることまでだな」
龍之介が言うと、影鷹が頷いた。
「どこが最も弱いか、までは」
「まだ渡しすぎぬ方がよい」
そうなのだ。
都に火種がある。
寺社と町と公家のあいだで、不満が薄くつながり始めている。
そこまでは秀吉へ見せてよい。
いや、見せねばならぬ。
そうでなければ、秀吉は“火の有無”そのものを嗅ぎにもっと深く潜る。
だが、どの筋が最も燃えやすいか。
どこへ最初の手を入れれば都の空気が変わるか。
その核心まで秀吉へ渡せば、今度は羽柴の糸がそこへまっすぐ通ってしまう。
「……つまり」
龍之介は小さく息を吐いた。
「火の存在は見せる。だが、薪の積み方まではまだ渡さぬ」
「ようございます」
影鷹が珍しく、少しだけ素直に言った。
「それなら、羽柴殿は働く」
「ええ」
「しかも、“こちらが使った”ではなく“自分で嗅ぎ当てた”と思いやすい」
そこが大事なのだろう。
秀吉は、与えられた答えより、自分で辿り着いたと感じる答えの方をよく使う。
ならば、器は見せても、答えそのものは少し遠くしておく方がよい。
◇
昼前、龍之介は丹羽長秀に少しだけこの悩みをぶつけた。
場所は廊下の端、庭の見える静かなところだった。
丹羽は相変わらず静かで、こちらが言葉を選ぶ前からだいたい察している顔をしている。
「羽柴殿、にございますか」
「分かりますか」
「分かる」
あっさりしている。
「橋を三本にした以上」
龍之介が言う。
「羽柴殿にも一本を担ってもらわねばならぬ」
「うむ」
「だが、その橋へ荷を乗せれば乗せるほど、羽柴殿の糸も太くなる」
丹羽は少しだけ目を細めた。
「当然だな」
「ええ」
「で、悩んでおる」
「はい」
丹羽はしばらく何も言わず、庭の木の動きを見ていた。
やがて静かに言う。
「羽柴殿に全部を任せるな」
「はい」
「だが、使うなら半端にもするな」
その言葉は重かった。
「半端に、とは」
「火があるとだけ見せ、どこへ入ればよいかを全く読ませぬなら、羽柴殿は外から別筋を作る」
それはたしかにそうだ。
「逆に、最も弱いところまで全部を渡せば」
「今度は羽柴殿の橋が太る」
「その通りだ」
龍之介は苦笑した。
「結局、言っておることは私と同じですな」
「同じだからよい」
丹羽らしい返しだった。
「では」
龍之介が問う。
「何を渡すべきでしょう」
丹羽は即答しなかった。
少しだけ考え、それから言う。
「都の火が、寺社だけでなく公家と町へ薄くつながり始めていること」
「うむ」
「だが、最初に手を入れるべき一点はまだ渡すな」
やはりそこか。
「羽柴殿には、“火はある。しかも一つではない”と見せよ」
丹羽が続ける。
「そうすれば、あの方は得意の横から入りで、まず燃え筋を割りに動く」
「……」
「それで十分働く」
「そして、まだ核心は握らせぬ」
「そうだ」
龍之介は、小さく息を吐いた。
考えの筋は合っていたらしい。
「丹羽殿」
「何だ」
「ずいぶん、羽柴殿の使い方に慣れておられる」
丹羽は、ほんの少しだけ口元を動かした。
「慣れねば、上様の下では務まらぬ」
それはたぶん、本音なのだろう。
◇
夕刻近く、秀吉の方からまた声がかかった。
やはりそう来る。
こちらが考えをまとめ始めた頃を見計らったように来るあたり、本当に嫌な勘の男だ。
小座敷に入ると、秀吉はいつも通りよい顔で迎えた。
「三上殿」
「羽柴殿」
「少し、腹が決まったお顔にございますな」
いきなりそこへ来る。
「腹の決まらぬまま、上様の近くにはおれませぬ」
「それもそうだ」
秀吉は楽しそうだった。
だが、その楽しさの奥で、こちらの変化の意味を量っている。
酒は軽い。
肴も少ない。
つまり今夜は長居の形ではない。
短く、だが濃く来る時の秀吉の場だ。
「羽柴殿」
龍之介は、今日は先に切り出した。
「ほう」
「都の火、ございますな」
秀吉の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「ございますとも」
「寺社だけではない」
「ええ」
「公家も、町も、薄く」
「よう見ておられる」
ここまでは見せると決めていた。
問題はこの先だ。
「上様も」
龍之介が言う。
「羽柴殿の糸を使うおつもりです」
秀吉は、そこで少しだけ笑みを深めた。
「それはありがたい」
「ただし」
「……」
「羽柴の糸だけで都を結ぶな、とのことでした」
秀吉は、そこではじめて少し声を立てて笑った。
「それは、いかにも上様らしい」
「不満か」
「まさか」
秀吉は肩をすくめる。
「羽柴に全部を任せぬ。だが、外しもしない。あのお方らしい使い方です」
その言い方には、むしろ納得があった。
秀吉自身も、信長がそういう人の使い方をする男だとよく分かっているのだろう。
「では」
秀吉が、盃を軽く回しながら言う。
「三上殿は、わしにどこまで見せるおつもりで」
来た。
やはりこの男は、そこを正面から聞いてくる。
だが、ここで全部を曖昧にするわけにもいかない。
「火が一つではないことまで」
龍之介は答えた。
「ほう」
「寺社、公家、町。それぞれ別の理で揺れておる。だが、同じ向きへ薄くつながり始めている」
「……」
「羽柴殿には、その燃え筋をまず割っていただきたい」
秀吉は黙って聞いている。
笑みはある。
だがいまはかなり真面目だ。
「で」
「何でしょう」
「どこが一番弱い」
やはりそこを聞く。
だがそこは、まだ渡さぬと決めている。
「それは」
龍之介は少しだけ間を置いた。
「まだ、私が見に行くべきところかと」
秀吉の目が、わずかに細くなる。
「三上殿が」
「ええ」
「なるほど」
それだけで、秀吉はすぐに追わなかった。
だが、追わぬからといって納得したわけではない。
“そこがまだ渡されぬ核心だ”と見たのだろう。
「つまり」
秀吉が静かに言う。
「火があることは見せる。だが、最初の手を入れる一点は、まだこちらへは渡さぬ」
やはり、言葉にされると嫌な感じがする。
だが否定しても仕方がない。
「羽柴殿に全部を任せれば」
龍之介は率直に言った。
「都が羽柴色に寄りすぎます」
秀吉は、そこで少しだけ本気で笑った。
「よう言われる」
「本気ですので」
「でしょうな」
そして、秀吉は少しだけ真顔に近づいた。
「ですが三上殿」
「はい」
「それでよい」
意外な言葉だった。
「……何」
「全部を渡されれば、それはそれで面白うない」
秀吉は言う。
「火がある。だがどこが一番弱いかは、まだ三上殿が持つ。ならば、わしはわしで別筋から燃え筋を見つける」
その言い方に、龍之介は少しだけぞっとした。
やはりそうか。
この男は、任されていないから働かぬのではない。
むしろ、自分に残された余白がある時ほど、よく嗅ぐのだ。
「羽柴殿」
龍之介が低く言う。
「やはり、使いづらい」
「誉め言葉として受け取りましょう」
まったく、そういうところだ。
◇
話が切れたあと、秀吉はふと何でもないように言った。
「三上殿」
「何でしょう」
「京へ下るおつもりですかな」
その一言に、龍之介は本気で一瞬、言葉を失いかけた。
来た。
やはり来る。
まだ正式に出立と広く出してはいない。
段取りは内々に整え始めている。
だがこの男は、そこへすでに寄っている。
「……なぜ、そう思う」
なんとかそう返すと、秀吉は笑う。
「火の在り処は、まだ三上殿が見に行くべきところ、と申された」
「……」
「であれば、もう形は整え始めておられる」
そこまで読まれるか、と内心で歯噛みした。
やはり、秀吉を橋の一本に数えること自体が危うい。
だが、だからこそ外しても済まぬ。
「羽柴殿は」
龍之介が言う。
「出る前から人を読む」
「働き者にございますので」
「嫌な働き者だ」
「ありがたいことです」
秀吉は少しも崩れない。
だが、そのやり取りで十分だった。
まだ出立していないのに、あの男の中ではもう都での勝負が半ば始まっている。
◇
部屋へ戻ると、影鷹が待っていた。
「いかがでした」
「見抜かれた」
「京下向を」
「ほぼな」
影鷹は小さく頷いた。
「でしょうな」
「火は見せた。だが核心は渡さなかった」
「はい」
「すると今度は、あちらが別筋から嗅ぎに来る」
「それが羽柴殿にございます」
まったく、その通りだった。
「……面倒だ」
龍之介が言うと、影鷹は珍しく少しだけ笑みを深くした。
「ようやく、本当に“使う”側の苦さが分かってこられましたな」
「嬉しくない」
「ですが必要にございます」
それもまた、否定できない。
秀吉を使う。
それはつまり、秀吉にこちらも読まれるということだ。
読まれながらも、なお使う。
そこが、戦国の、それも信長の政の苦いところなのだろう。




