第56話 光秀、行くべきか留まるべきか
人は、自分が行けば早いと思う時ほど危うい。
その場の理が分かる。
相手の言葉も分かる。
こちらの都合も、向こうの面目も見える。
だから、自分が出れば早い。
それはたいてい事実でもある。
だが、早いことと、長く持つことは別だ。
そして戦国の政で最も危ういのは、“自分が行けば早い”と思う者へ、何もかもが寄り始める時なのだろう。
第55話で、龍之介は京へ下るための手配を本格的に整え始めた。
名目、供回り、先触れ、宿、会う顔、会わぬ顔。
その準備をしている間にも、胸のどこかでは分かっていた。
光秀が黙って見ていられるはずがない、と。
都の理を知る。
寺社とも話が通る。
公家筋の機微も分かる。
しかも、自分の名がすでに都で勝手に橋として歩き始めている。
そういう人間が、“自分は動かぬ方がよい”と簡単に腹を括れるはずがない。
だから第56話は、遅かれ早かれ来ると思っていた。
◇
昼過ぎ、光秀の方から呼びが来た。
珍しく、曖昧な呼び方ではない。
「少し」でも「折があれば」でもなく、
「今、話したい」
という形だった。
それだけで、龍之介にはだいたい分かった。
部屋へ通されると、光秀は座したまま文を脇へ置いた。
顔は整っている。
だが、その整い方がいつもより少し硬い。
つまり、かなりはっきり腹の中にある話だ。
「龍之介殿」
「日向守殿」
「京へ下る手配を、進めておるな」
やはり、真ん中から来た。
「形を整えております」
「誰の差配で」
「上様のご意向に沿う形にございます」
「……」
光秀は、そこでほんの一瞬だけ目を伏せた。
信長の名が出ると、この人はいつも少しだけ深く沈む。
それは忠か、重さか、その両方なのだろう。
「私も行くべきではないか」
やがて、はっきりと言った。
やはりそう来た。
だが龍之介は、すぐに答えなかった。
この問いは軽く受けてはいけない。
光秀はたぶん、もう何度も同じことを自分の中で考えてきたうえで口にしている。
「理由を、お聞かせ願えますか」
そう問うと、光秀は少しだけ苦く笑った。
「分かっておろうに」
「それでも」
光秀は息を一つ置いてから言った。
「都の理は私がよく知る」
「はい」
「寺社も、公家も、町の顔も、おぬしよりは通じる」
「ええ」
「今の火は、表の争いではない。顔と理の絡み合いだ。ならば、私が行くのが早い」
それは、正しい。
正しすぎるほどに。
龍之介は、その言葉の一つ一つが理にかなっているからこそ、逆に危ういと思った。
正しい。
だから抱える。
抱えられる。
そうしてまた、真ん中へ重みが戻る。
「それに」
光秀が続ける。
「都では、すでに私の名が歩き始めておるのであろう」
「……」
「ならば、その名をただ放っておくより、いっそ自分で出て筋を引いた方が早い」
そこまで来ている。
つまりこれは単なる義務感ではない。
責任感と現実感が、同じ方向を向いているのだ。
だからこそ、止めるのが難しい。
「日向守殿」
龍之介は慎重に言った。
「たしかに、行けば早うございましょう」
光秀の目が、少しだけこちらを向く。
「だが」
「だが、か」
「いま日向守殿が前へ出ることは、“やはり明智が橋だ”と都へ確信させることでもあります」
光秀は黙った。
「……」
「いまはまだ、寺社の下、町の口、公家の用人、そのあたりで火がつながり始めている段にございます」
「うむ」
「そこへ日向守殿ご本人が出れば、その火は“都と織田をつなぐ橋=明智”という形を得る」
「……」
「そうなれば、今後どの火もまず明智へ向かう」
それは、ひどく重い未来だった。
本能寺の朝を越えたあと、せっかく一本へ寄った重みを分けようとしているのに、ここで光秀自身が前へ出れば、また全部が戻る。
「龍之介殿」
光秀の声は低かった。
「それでも、行くべき時はある」
「はい」
「今回は、その時ではないと」
「そう思います」
そこで光秀は、少しだけ語気を強めた。
「おぬしが行くより、私が行く方が早い」
「ええ」
「話も通る」
「その通りです」
「ではなぜだ」
その“なぜだ”には、苛立ちというより切実さがあった。
自分が行けば早い。
それが分かっているのに、自分ではない形で回そうとする。
そのことへの苦さがある。
龍之介は、その切実さを真正面から受けた。
「早いからです」
「……何」
「早いから、危うい」
光秀の目がわずかに細くなる。
「日向守殿が前へ出れば、たしかに今の火は早く収まるやもしれませぬ」
「うむ」
「ですがその分、次から先、都の火は皆“まず明智へ”となる」
「……」
「今の一つを収めるために、次の十を引き受ける形になります」
部屋の空気が静かに張る。
かなり踏み込んだ。
だが、ここを曖昧にしてはいけない。
「私は」
龍之介は続けた。
「日向守殿が都へ通じることを否定しておりませぬ。むしろ、もっとも自然な橋と思うております」
「……」
「だからこそ、その一本へ全部を寄せてはならぬと申し上げております」
光秀は、しばらく何も言わなかった。
黙っている。
だが、その沈黙の中で言葉を飲み込み、自分の理とこちらの理を比べているのが分かる。
この人は、怒りで話を切る人ではない。
だからこそ苦しい。
「……私に」
やがて光秀が低く言った。
「行くなと言うのは」
「はい」
「私の役を、削ることにも聞こえる」
その一言に、龍之介ははっとした。
そうか。
光秀にとって“行くな”は、ただ休めという話ではない。
都をつなぐ役、そのものを一部退けという話に聞こえるのだ。
だから重い。
だから簡単には頷けぬ。
「日向守殿」
龍之介は、少しだけ声を落とした。
「役を削りたいのではありませぬ」
「では」
「役を分けたいのです」
その言葉を口にした瞬間、龍之介の中で何かが少しだけはっきりした。
そうだ。
自分がしたいのは、光秀から役を奪うことではない。
光秀へ寄りすぎた役を分けることだ。
都との橋を一本でなくすること。
そのために、自分も、秀吉も、信長の上意も、それぞれ別の橋になる必要がある。
「分ける、か」
光秀が繰り返す。
「はい」
「私が立つべきところは、まだある」
「もちろんです」
「だが今は、私一本へ寄らぬよう、他の橋も立てるべきだと」
「そういうことにございます」
光秀は、そこでゆっくりと息を吐いた。
「……それを先に言え」
「いま、ようやく言葉になりました」
それは本当だった。
頭の中では薄く見えていた。
だが、“行くな”ではなく“分けたい”という言葉になったのは、いまここが初めてだ。
光秀は、少しだけ目を細めた。
「おぬしも、ようやく面倒な役を言葉にし始めたな」
「嬉しくない褒め言葉です」
「褒めてはおらぬ」
そのやり取りだけは、少しだけ空気を和らげた。
◇
しばしの沈黙のあと、光秀は静かに言った。
「ならば問う」
「はい」
「誰が、都の橋になる」
来たな、と思う。
これが第57話の芯に繋がる問いなのだろう。
龍之介は、まだ完成していない考えを、いまある形で答えるしかなかった。
「一本ではなく」
「……」
「分けるべきかと」
「どのように」
「日向守殿の名と理」
「うむ」
「私の柔らかな器」
「……」
「羽柴殿の横から入る糸」
そこまで言うと、光秀は少しだけ苦い顔をした。
「羽柴も入れるか」
「入れねば、外から食い込んでまいります」
それはもう、第53話で十分見えていた。
秀吉は、外して済む相手ではない。
ならば一本の橋として最初から位置づける方が、まだ制御しやすい。
「……嫌な話だ」
光秀が言う。
「ええ」
「だが、理は分かる」
そこがこの人だ。
感情では嫌でも、理が通れば切らない。
だから深く、だから苦しい。
「日向守殿」
龍之介は言った。
「いまは、行かぬことで持つものがございます」
「うむ」
「その代わり、いずれ行くべき時が来れば、その時は日向守殿の理が要る」
光秀は、長く黙ったあとで言った。
「……ならば、今は留まろう」
その一言は軽くなかった。
責任感の強い人間が、自分が出れば早いと分かっていてなお留まる。
それは“何もしない”のではない。
別の形で役を果たすと決めることだ。
「感謝いたします」
龍之介が頭を下げると、光秀は少しだけ苦く笑った。
「礼を言われる筋でもない」
「いえ」
「ただし」
光秀が続ける。
「おぬしが都へ出るなら、軽い顔のままで行くな」
「はい」
「柔らかいのはよい。だが“何でも聞く顔”になるな」
それはかなり実際的な助言だった。
「都は、柔らかい顔に全部を預けたがる」
「……」
「預けられたが最後、今度はおぬしが一本橋になる」
龍之介は、その言葉を深く受けた。
そうだ。
光秀へ寄る重みを分けようとして、自分へ全部が寄っては意味がない。
橋を分けるとは、単に人を替えることではない。
重みを分散させ続けること なのだ。
「肝に銘じます」
光秀は小さく頷いた。
「よろしい」
◇
部屋を出ると、影鷹が待っていた。
「いかがでした」
「重かった」
「でしょうな」
「だが、留まると仰せだった」
影鷹は静かに目を細めた。
「大きいですな」
「うむ」
「ですが、ただ留まるのではございませぬでしょう」
「分かっておる」
光秀は、自分の役を捨てたのではない。
いまは一本橋にならぬため、前へ出ぬと決めたのだ。
それは一つの強さでもある。
「三上殿」
影鷹が言う。
「先ほどのお顔、ようやく少し定まっておりました」
「何がだ」
「一本ではなく、分ける」
龍之介は、そこで小さく息を吐いた。
「ようやく、言葉になった」
「はい」
「役を奪うのではない。橋を分ける」
「左様にございます」
「だが、まだ形は粗い」
「それでよろしいかと」
影鷹は静かだった。
「次は、その分け方を形にする話にございましょう」
その通りだ。
もう、“行くか行かぬか”だけではない。
次は、どう橋を分けるか。
どの橋へ何の荷を乗せるか。
そこをはっきりさせねばならない。
「……面倒だな」
龍之介が言うと、影鷹は頷いた。
「今さらでございます」
やはり最後はそれだった。




