第52話 光秀の名が、勝手に歩き始める
人が歩くより先に、名だけが歩き始めることがある。
戦国という時代では、とくにそうだ。
本人がまだ安土にいても、名だけは都にいる。
顔を出していなくとも、「あの者なら分かる」「あの者へ言えば届く」と、勝手に意味を持たされる。
それが名声だと言えば聞こえはよい。
だが実際には、ひどく厄介な荷でもある。
明智光秀という名は、まさにそういう荷を背負っていた。
第51話で、都の火の根が寺社の縁の下にあることが見えてきた。
大寺そのものではなく、その下で日々の段取りに追われる者、出入り商人、町の有力者、公家屋敷の用人。
そうした層に不満が溜まり、少しずつ同じ向きを向き始めている。
そしてその火に、光秀の“旧縁”が薄く触れ始めている。
それが龍之介には、火そのものより嫌な気配に思えた。
◇
翌朝、影鷹が持ってきた報せは、やはりその嫌な予感を裏づけるものだった。
「三上殿」
「何だ」
「都にて、明智殿の名が少し」
「歩き始めたか」
影鷹は静かに頷いた。
龍之介は机の上の紙へ視線を落とした。
昨日書きつけたままの線がある。
寺社の下働き。
出入り商人。
町の顔役。
公家の用人。
そしてそこへ、細く引いた“明智”の線。
「どのように」
龍之介が問うと、影鷹は短く答えた。
「“明智なら話が通るのでは”にございます」
やはり来た。
「まだ、表立ってではありませぬ。ですが、寺社の下役や、そこへ出入りする商人の口から、“織田家中で都の理を分かるのは明智殿だろう”という言い方が出始めております」
「本人は何も動いておらぬのにな」
「都にございますので」
その一言が、妙に重かった。
都では、本人の実際の位置や意志より、“どう見られているか”の方が先に独り歩きすることがある。
光秀は都に通じている。
寺社とも話ができる。
公家の言葉も分かる。
織田家中で、都と武家の間をつなげる顔に見える。
ならば不満の火がくすぶり始めた時、誰かが自然とそう言う。
明智なら分かるのではないか。
そしてその一言が、次の者の口へ渡る。
「強い期待ではないな」
龍之介が言うと、影鷹は頷いた。
「ええ。命を懸けて頼るほどではない。ですが、“まず思い出す名”としては十分にございます」
そこが嫌なのだ。
露骨に“明智に言え”と騒がれれば、まだ対処のしようもある。
だが、ふと困った時に最初に思い出される名になると、本人が動く前から周囲の期待だけが静かに積もっていく。
それは重い。
しかも重いと本人が気づいた時には、もうかなりの荷になっている。
「……本人を今すぐ都へ出すのは、やはり悪手だな」
「左様にございます」
影鷹はためらいなく言う。
「行けば、“やはり明智が橋だ”となります」
「そうだ」
「しかも羽柴殿は、それを待っておられるかもしれませぬ」
そこもまた厄介だった。
秀吉にしてみれば、光秀が都へ出れば分かりやすい。
都との橋として表へ立てば、火の揺れの中心がどこか、ますます輪郭が濃くなる。
そして秀吉はそこへ横から入れる。
「……先に、名の歩き方を制御せねばならぬな」
龍之介が低く言うと、影鷹は小さく目を細めた。
「人物ではなく、名の使われ方を」
「そうだ。本人がまだ何もしておらぬうちに、“都の橋は明智一本”と思われるのは危うい」
「まことに」
影鷹は頷いた。
「では」
「まずは、明智殿以外にも“話の通る筋”があると見せる」
「三上殿ご自身」
「それだけでは足りぬ」
龍之介は紙へ指を置いた。
「信長公の上意。丹羽殿の整え。秀吉殿の糸。私の器。そうしたものを、少しずつ都へ見せる必要がある」
「つまり」
「明智の名に全部が寄らぬようにする」
それが第57話の“三本橋”へつながる前段になるのだろうが、今はまだ言葉にしきらなくてよい。
まず必要なのは、一本の橋だと思われぬことだ。
◇
午前のうちに、龍之介は都筋とつながる口入れの者を何人か呼んだ。
大きな顔ではない。
その方がよい。
大きな顔を呼べば、それだけで“何かあった”と見られる。
いまはまだ、縁の下の熱を測る段階だ。
年若いが気の利く商人上がりの者が、静かに言った。
「明智殿の御名は、都ではよく通ります」
「どのあたりで」
「寺社、公家、そのどちらにも」
「なぜだ」
問うと、その者は少し考えてから答えた。
「武家のくせに、都の理を雑に扱わぬと見られておるからでしょう」
なるほど、と思う。
それはつまり、光秀の強みがそのまま危うさでもあるということだ。
都を分からぬ武将なら、最初から期待もされぬ。
だが分かると見られているからこそ、何かあれば“明智なら”になる。
「最近は」
別の者が口を開いた。
「まだ“言えば何とかしてくれる”というほどではございませぬ」
「ほう」
「ですが、“明智殿なら困り顔はしてくれるのでは”という気はございます」
その言い方に、龍之介は思わず顔をしかめた。
「困り顔、か」
「はい。都では、それが大事でございましょう」
まことに都らしい話だった。
ただ命じ返されるより、“こちらの困りに顔を曇らせてくれる”方が、よほど通じる。
光秀には、そういう顔ができる。
だから名が歩く。
別の口入れは、さらに嫌なことを言った。
「今のところ、寺社筋や公家筋の者らは、織田家中で都に通じる名を挙げる時、まず明智殿を思い浮かべております」
「まず、か」
「ええ。羽柴殿は、まだ“早く通じる口”にございます」
そこで龍之介は、秀吉と光秀の違いがまた見えた気がした。
光秀の名は、理と顔で歩く。
秀吉の名は、利と速さで通る。
都の火を前にした時、どちらが先に求められるかは場による。
だが今はまだ、寺社と公家が混じるぶん、光秀の方が“名としての橋”になりやすいのだろう。
それが危ない。
◇
昼過ぎ、龍之介は光秀のもとへ向かった。
知らせるべきか。
少し迷った。
だが、名前だけが歩き始めていることは、本人が知らぬ方がもっと危うい。
とはいえ、全部を重く渡せばまた抱え込む。
だからここでも器を選ばねばならぬ。
光秀は、今日も整っていた。
文を読んでいた手を止め、龍之介を見る。
「何かあったな」
さすがに早い。
「都にて」
龍之介は静かに言った。
「日向守殿の御名が、少し」
光秀の目がわずかに動く。
やはりそこへ来る。
「どういう形で」
「“明智なら都の理が通じるのでは”という程度にございます」
「……」
「まだ正式に頼る気ではない。ですが、困りごとの中で最初に思い出される御名になり始めております」
光秀は、すぐには言葉を返さなかった。
視線だけが少し落ちる。
それがこの人の重さだ。
すぐ反応せず、まず全部を受け止めようとする。
「厄介だな」
やがて低く言った。
「はい」
「本人が何も動かぬうちに、名だけが橋になる」
「そうです」
光秀は少しだけ苦く笑った。
「都は、そういうところがある」
「ええ」
「で、おぬしは私を止めに来たのか」
鋭い問いだった。
「都へ出るな、と」
龍之介は、少しだけ呼吸を整えた。
「いまは、にございます」
光秀の目がこちらへ戻る。
「いまは」
「はい。いま日向守殿が前へ出れば、“やはり明智が橋だ”と都へ確信させます」
「……」
「それは、日向守殿に重みを戻しすぎる」
光秀は長く黙った。
「おぬし」
「は」
「ずいぶんと言うようになった」
「上様の近くにおりますので」
「便利な言い訳だな」
そのやり取りだけは、少しだけ人間臭かった。
「ですが」
龍之介は続ける。
「都へ向けて、明智殿以外にも橋があると見せる方が先かと」
「誰が」
「上意そのもの。丹羽殿の整え。羽柴殿の糸。私の柔らかな器」
そこまで言うと、光秀はほんの少しだけ眉を寄せた。
「羽柴も入れるか」
「入れねば足りませぬ」
これは苦いが本当だった。
秀吉を都から外すことはできない。
あの男はすでに鼻を利かせている。
ならば、都との橋から完全に外すのでなく、橋の一本として位置づける方がまだましだ。
光秀はゆっくり息を吐いた。
「……なるほどな」
「はい」
「私一人の名へ寄せぬため、橋を分ける必要があると」
「そういうことにございます」
光秀は、それ以上は反発しなかった。
むしろ、その理が分かるからこそ苦い顔をしているようだった。
「惜しいな」
不意に光秀が言った。
「何がでしょう」
「都との橋になることそのものは、私にとって自然だ」
「……」
「だが自然な役ほど、気づけば全部が寄る」
それは本当にその通りだ。
「日向守殿」
龍之介は静かに言った。
「御名はすでに歩き始めております」
「うむ」
「だからこそ、いまは本人が前へ出すぎぬ方がよい」
「分かった」
その一言は軽くなかった。
光秀にとって“出ぬ”ことは、怠けることではない。
役を引き受けぬと決めることに近い。
それでも分かったと言ったのだ。
それは一つの大きな判断だった。
◇
夕刻、秀吉と顔を合わせた時、あの男はまたしても軽い顔で嫌なことを言った。
「三上殿」
「羽柴殿」
「都は、人より先に名前を使いますな」
その一言で、龍之介は内心で舌を巻いた。
やはり、もう見えている。
光秀の名が都で橋として歩き始めていることを。
「羽柴殿も、そう見えるか」
龍之介が返すと、秀吉は笑った。
「見えますとも。寺社、公家、そのあたりが困り始めると、まず“都の理が分かる武家”の名が欲しくなる」
「……」
「いまは、日向守殿にございますな」
やはりそうだ。
秀吉もそこを見ている。
「それが厄介にございます」
龍之介が言うと、秀吉は少しだけ目を細めた。
「三上殿は、日向守殿へ重みが寄るのを嫌がっておられる」
「ええ」
「それは優しさか」
「持たせるためだ」
秀吉は、小さく笑った。
「だいぶ、よう分かってこられた」
またその言い方だ。
腹立たしい。
だが、完全には否定できない。
「羽柴殿は」
龍之介が問う。
「この火に、どう入る」
「横から」
秀吉は即答した。
それがあまりに秀吉らしくて、龍之介は少しだけ苦笑した。
◇
夜、龍之介は机に向かいながら思った。
火の根は寺の縁の下にある。
だが、それが燃え広がる時は、人の不満だけでなく、人の名も薪になる。
光秀の名が勝手に歩き始めた。
それは都の理がそうさせる。
だが、そのまま歩かせれば、また光秀へ重みが寄る。
ならば、別の橋を早く立てねばならない。
信長の上意。
丹羽の整え。
秀吉の糸。
龍之介の器。
それらを、光秀の名へ重みが寄りすぎぬ前に都へ見せねばならない。
「……橋を一本ではなく」
そこまで呟いて、龍之介は少しだけ目を細めた。
まだ言葉として完成してはいない。
だが考えの形は見え始めている。
一本橋だから折れる。
ならば、分けるしかない。
その時、影鷹が言った。
「ようやく、次の答えが見えてまいりましたか」
「おぬし、本当に人の独り言の後だけ現れるな」
「便利でしょう」
「それしか言えぬのか」
「本日は、“橋は一本では足りぬ”あたりでしょうか」
やはりこいつは腹が立つほど勘がよい。
「……そうかもしれぬ」
龍之介は小さく頷いた。
「明智の名一本へ寄るから危うい」
「はい」
「ならば、都への橋を分けねばならぬ」
「左様にございます」
その答えは、第57話へつながるものになるのだろう。
だが、いまはまだその入口で十分だった。




