第50話 次の火は、都から上がる
火というものは、目に見える炎だけを指すのではない。
人の不満が溜まり、面目が潰れ、誰かが「このままでは済まぬ」と思い始めた時、その心の底にも火はつく。
しかも、そういう火の方が始末が悪い。
燃え上がるまでは静かで、周りからは見えにくい。
だが一度風を受ければ、火事場より広く燃えることがある。
本能寺の朝を止めたあとも、龍之介は何度もそのことを思い知らされてきた。
火は上がらなかった。
だが、人の揺れは消えなかった。
光秀の中にも、都の空気にも、秀吉の嗅ぎ方の中にも、その残り火はずっとあった。
そして今度の火は、どうやら都から上がるらしかった。
◇
その報せを持ってきたのは、いつものように影鷹だった。
だが、その日の影鷹は、さすがに“いつものように”とは言いづらい気配をしていた。
足音はない。
声も低い。
だが、部屋へ入ってきた瞬間の空気が、少しだけ固い。
「三上殿」
「何だ」
「都にございます」
それだけで、龍之介は紙から顔を上げた。
机の上には、第49話までに書き溜めた整理がまだ散っている。
勝家は正面から、丹羽は静かに、光秀は真ん中で、秀吉は横から。
そう整理したばかりだ。
そこへ“都にございます”と来れば、ろくな話でないのは分かる。
「火か」
龍之介が問うと、影鷹は静かに頷いた。
「小さいうちにございます」
「小さいうちが一番厄介だ」
「左様にございます」
龍之介は立ち上がった。
「申せ」
影鷹は、簡潔に状況を伝えた。
寺社筋の不満。
兵の通行。
人足の負担。
城下の整備に伴う物の流れの変化。
それ自体は、第36話あたりから薄く見えていたものと地続きだ。
だが、今回はそこへ別の色が混じっている。
公家筋の一部が、寺社の不満に“もっともだ”という顔をし始めている。
さらに町人筋も、“織田の理は速すぎる”とぼやく声が少しずつ一つの向きを持ち始めている。
まだ誰も表立って逆らうつもりではない。
だが、“あれはあれで困る”という愚痴が、もうバラバラではなくなりかけている。
「……まとまりかけておるな」
龍之介が低く言うと、影鷹は頷いた。
「はい。寺社だけの愚痴なら、まだ寺社の愚痴で終わります」
「だが公家と町が乗れば、空気になる」
「そういうことにございます」
そこが厄介だった。
寺社だけなら、理の話、面目の話、利の話である程度の折り合いがつく。
だが公家が混じれば権威の話になる。
町が混じれば暮らしの話になる。
そして権威と暮らしが同じ方向へ少しでも揺れ始めると、それはただの局地的不満では済まなくなる。
「秀吉殿は」
龍之介が問う。
「すでに、少し」
やはりそうか。
秀吉が都の鼻を止めているはずがない。
むしろ、こういう火の匂いほどあの男は好む。
「どこまで」
「いまはまだ“揺れ始めた”と見る程度かと」
「だが、すぐに寄るな」
「でしょうな」
まったく、気が休まらない。
「……上様へ」
龍之介が言うと、影鷹は即座に答えた。
「もう蘭丸殿の耳にも入れております」
「早いな」
「都に火がつく話ゆえ」
それはそうだ。
都が揺れれば、信長も動く。
光秀も気にする。
秀吉は食いつく。
つまり、この火は第41話〜第49話まで整理してきた“違う支え方をする者たち”全員へ、別々の顔を見せる火になるのだ。
「……嫌な始まり方だ」
龍之介が漏らすと、影鷹は静かに言った。
「ですが、始まりとしては上々かもしれませぬ」
「何がだ」
「三上殿が整理してきたものが、全部ここへ乗ってきます」
たしかにその通りだった。
だからこそ嫌なのだ。
◇
信長のもとへ呼ばれた時、部屋にはもう秀吉がいた。
やはり早い。
さすがにこの男の嗅ぎ方は侮れない。
さらに丹羽もいる。
勝家もいる。
つまり、主要な支え手がすでに揃っている。
光秀はいない。
それが、龍之介には少しだけ引っかかった。
まだ呼んでいないのか。
それとも、あえて先に外しているのか。
信長は、部屋へ入った龍之介を一目見て言った。
「来たか」
「は」
「都に火がつきかけておる」
隠しも何もない。
この男はこういう話になると、むしろ真ん中を先に言う。
「おぬしも聞いたな」
「はい」
「ならば、まず申せ。どう見る」
いきなり来る。
だが、もはや驚かぬ。
「寺社の不満そのものより」
龍之介は言った。
「その不満へ、公家と町の気が薄く乗り始めていることが厄介かと」
信長が頷く。
「うむ」
「寺社だけなら、まだ寺社の理と面目の話に留められます。ですが公家が乗れば権威へ寄る。町が乗れば暮らしへ寄る」
「つまり」
丹羽が静かに問う。
「不満が“空気”になりかけている」
「はい」
丹羽は目を細めた。
やはりこの人はそこを拾う。
勝家が低く言う。
「ならば、叩くか」
いかにも勝家らしい。
揺れがまとまる前に、正面から押さえる。
その理も分かる。
だが、秀吉がすぐに笑って言った。
「柴田様、それでは都がよけいに火を持ちます」
「ではどうする」
「寄せるのです」
秀吉の声は柔らかい。
だが中身はいつも通り鋭い。
「寺社も、公家も、町も、今はまだ一枚岩ではございませぬ」
「……」
「ならば、その中で“こちらへ話せば得がある”方へ何人か寄せる。全部を黙らせるのではなく、まとまる前に筋を分けるのです」
秀吉らしい。
火を消すというより、燃え広がる前に燃え筋を分断する発想だ。
信長は面白そうだった。
「龍之介」
「は」
「羽柴と違うところを申せ」
乱暴な振り方だが、もはや信長らしいとしか言いようがない。
「……秀吉殿のお考えは早い」
「うむ」
「ですが、寄せる先を作るだけでは、都に“織田に近い口”ばかりが増え、今度は別の不満を呼びます」
秀吉が笑みを崩さず言う。
「それは後で整えればよろしい」
「後で整える前に、人は“選ばれた者だけが得をしている”と見ます」
そこが龍之介の見るところだった。
秀吉のやり方は速い。
だが速いがゆえに、火の筋は分かれても、そのあとに“新しい偏り”が残る。
それが次の火種になるかもしれない。
「では」
信長が問う。
「おぬしはどうする」
「都へは、まず“聞く耳はあるが、退かぬ芯もある”を置くべきかと」
龍之介は言った。
「寺社には顔を立てる。公家には権威を潰すつもりはないと見せる。町には暮らしを壊すためではないと伝える」
「……」
「つまり、一つの器ではなく、それぞれに“ここは見えている”を置く」
秀吉がそこで小さく笑った。
「三上殿らしい」
「何がでしょう」
「皆へ、なるべく均等に見せたいのでしょう」
その言い方は、半分本当で、半分は刺している。
「羽柴殿は違う」
「ええ。わしは、まず火を割る」
秀吉はあっさり認めた。
「三上殿は、火の下の薪の積み方を変えたい」
その言葉に、龍之介は一瞬だけ感心した。
たしかにそうだ。
秀吉は燃え筋を分ける。
龍之介は燃えやすい積み方そのものを変えたい。
同じ火を見ているのに、手の入れ方が違う。
信長は、その違いをまた面白がっている顔だった。
「どちらも要るな」
その一言が、この男の恐ろしさだ。
普通ならどちらかへ寄る。
だが信長は違う。
火を割る手も、薪の積み方を変える手も、両方使おうとする。
「羽柴」
「は」
「まず、都の中で火が繋がりそうな筋を見分けよ」
「御意」
「誰を寄せれば、誰が離れるかも見ておけ」
「承知」
「龍之介」
「は」
「都へ流す器を、寺社・公家・町で少しずつ変えよ。だが、全部に同じ“退かぬ芯”は通せ」
「承知いたしました」
「丹羽」
「は」
「都と安土のやり取りで、言葉が強すぎぬよう見ておけ」
「御意」
「柴田」
「何だ」
「都に向けていまはあまり前へ出るな」
勝家が露骨に顔をしかめた。
「分かっておる」
「おぬしが前へ出ると、都が余計に身構える」
「分かっておると言うた」
勝家は不機嫌そうだが、理は分かっているのだろう。
そこがこの人のよいところでもある。
龍之介は、その一連を見てあらためて思った。
同じ火を見ても、
勝家は正面から押さえたい。
秀吉は横から割りたい。
丹羽は静かに流れを整えたい。
自分は薪の積み方を変えたい。
そして信長は、その全部を同時に使おうとする。
この政権はやはり、違う強さが噛み合っているから強い。
だが、それが同時に危うさでもある。
◇
場が一度切れたあと、信長は龍之介だけを残した。
秀吉も、勝家も、丹羽も、それぞれ役目を抱えて去っていく。
秀吉は去り際に、ほんの一瞬だけこちらを見て笑った。
“次は都ですな”とでも言いたげな笑みだった。
まったく、あの男はどこまで行っても腹立たしい。
「龍之介」
「は」
「見えたか」
信長が言う。
「何がでしょう」
「火が出た時、皆がどう動くかだ」
龍之介は少し考えてから答えた。
「はい」
「申せ」
「勝家殿は、正面から押さえたがる。丹羽殿は、言葉の流れを整える。秀吉殿は、横から人を寄せて火を割る」
「うむ」
「そして上様は、その全部を同時に使おうとなさる」
信長は笑った。
「それでよい」
やはりこの男は、そういう男だ。
「ですが」
龍之介は続けた。
「この政権は、違う強さが噛み合っているからこそ強い。だが、違うまま引っ張れば、いずれ歪みも深くなる」
「当然だ」
信長は即答した。
「歪まぬ政などつまらぬ」
つまらぬ、か。
そういうところが本当に怪物じみている。
「歪みは出る」
信長は言う。
「だが、歪むから進む。問題は、折れる前に次の手を入れられるかよ」
それが、この男の理なのだろう。
完全な安定など求めない。
歪みながらでも前へ進み、その都度折れる前に手を入れる。
だから速い。
だから人が削れる。
そしてだから、信長の未来図は大きい。
「上様」
「何だ」
「都の火は、消えますか」
信長は少しだけ目を細めた。
「消えぬ」
「……」
「今度の火は消しても、また別のところへつく」
その言い方は、妙に静かだった。
「本能寺を止めた時もそうだ」
龍之介は、息を止めた。
「火は上がらなかった。だが、それで終わったか」
「いえ」
「そういうことよ」
あまりにも正しい。
そして、あまりにも厳しい。
本能寺を止めた。
だが終わりではなかった。
火は別の形で、都にも、人の心にも、政の継ぎ目にも移っていく。
「ならば」
信長が言う。
「次の火に備えよ」
それが、第50話の締めにふさわしい言葉だった。
◇
部屋を出たあと、影鷹が待っていた。
「いかがでした」
「やはり、次は都だ」
「でしょうな」
「寺社、公家、町」
「はい」
「そして秀吉殿も、もうそこへ寄り始めている」
影鷹は頷く。
「火の匂いは、羽柴殿がお好きでしょう」
「好きという言い方は気に食わぬが」
「ですが、よう嗅がれる」
たしかにその通りだった。
「影鷹」
「は」
「本能寺を止めても、火は別の形で上がる」
「ええ」
「いま私が持たせようとしているのは、ひとつの事件の後始末ではないな」
影鷹は静かに答えた。
「信長公の未来図を支える者たちが、それぞれ違う方向へ引く流れそのもの、にございましょう」
その言葉に、龍之介は小さく頷いた。
たしかにそうだ。
勝家は正面から支える。
丹羽は静かに整える。
光秀はつなぎ、抱える。
秀吉は横から入り、場を取る。
信長は、その全部を使って先へ進む。
その違う引き方があるからこそ政権は強い。
だが、だからこそ火もまたどこかで生まれる。
龍之介が持たせようとしているのは、結局その違う引きのあいだの流れなのだ。
「……ひどい役目だな」
思わず漏らすと、影鷹は少しだけ笑った。
「今さらでございます」
「最後までそれか」
「最後までそうでしょうな」
やはり、そうなるらしい。
安土の夕方は静かだった。
だがその静けさの向こうで、都の火はもう小さく灯り始めている。




