第48話 本能寺の朝、いちばん困っていた男
人は問い方で、その人間の本質が見えることがある。
何を知りたいか。
どこへ食い込みたいか。
何を“真相”だと見ているか。
羽柴秀吉という男が怖いのは、そこが普通の人間とずれているからだと、龍之介は少しずつ分かり始めていた。
普通なら、本能寺の朝のような話に近づく時はこう問うだろう。
誰が何をしたのか。
誰が主導したのか。
誰が止めたのか。
つまり、出来事の形そのものを知ろうとする。
だが秀吉は違う。
あの男は、事の表面より先に、“どこがいちばん揺れていたか”を嗅ぎに来る。
誰が中心で、誰がいちばん困り、誰がいちばん崩れかけたか。
そこを見つければ、あとの線は自然とつながると知っているかのように。
それが分かったのは、第47話の翌々日のことだった。
◇
昼過ぎ、秀吉の方からまた声がかかった。
もはや珍しくもない。
珍しくないこと自体が厄介だ。
最初は“ゆるりとした話”の顔をしていたものが、今ではほとんど定例のように差し込まれてくる。
間を空けすぎぬ。
だが詰めすぎても警戒されるほどではない。
実に秀吉らしい歩幅だと思う。
「三上殿」
近習が静かに頭を下げる。
「羽柴殿が、今宵少し」
「いつもの小座敷か」
「はい」
分かりやすい。
同じ場所、同じような空気。
だから人は、会話が少しずつ深くなっていることに気づきにくい。
あるいは気づいていても、“同じ続き”のような顔で入ってしまう。
龍之介は小さく息を吐いた。
「……承知した」
近習が去ったあと、影鷹がすぐ現れる。
「今宵も、でございますか」
「そうだ」
「そろそろ深いところへ参りましょうな」
「その“そろそろ”が嫌だ」
影鷹は少しだけ笑う。
「ですが、羽柴殿は今、三上殿の変わり方まで見ておられる」
「第47話の続き、というわけか」
「そうなりますな」
そうなのだろう。
秀吉は、龍之介が濁りを覚え始めたことを見た。
ならば次は、その濁りの向こうにある“守ろうとしているもの”をさらに量りに来るはずだ。
「何を聞いてくると思う」
龍之介が問うと、影鷹は少しだけ考えた。
「三上殿が、何をいちばん守りたいか」
「それを、どこから」
「本能寺の朝から、にございましょう」
やはりそこへ戻る。
本能寺の朝は、まだ終わっていない。
火は上がらなかった。
だが、そこにあった揺れは、まだ皆の腹の底でくすぶっている。
◇
小座敷は、今夜も整っていた。
灯はやや落ち着いている。
酒も軽い。
肴も、話しながらつまめる程度。
こういう場の“話しやすさ”の作り方が、本当に秀吉はうまい。
「三上殿」
秀吉はにこやかだ。
「ようこそ」
「羽柴殿」
「何やら、お疲れのようで」
「羽柴殿のせいにございます」
「いやはや」
笑う。
だがその笑いの下で、すでにこちらの疲れ方すら観察しているのだろう。
互いに座り、酒が注がれる。
最初の数手はいつも通り軽い。
都の空気。
安土の人の動き。
兵の通り。
寺社の機嫌。
だが、それらはすべて助走だ。
「三上殿」
秀吉が盃を揺らしながら言う。
「本能寺の朝のことで、ひとつ気になっておることがございましてな」
来た。
だが、入ってき方がいつもよりさらに柔らかい。
この柔らかさは危ない。
柔らかい時ほど、刃の向きは見えにくい。
「何でしょう」
龍之介は表面を変えずに返す。
「誰が何をしたか、ではございませぬ」
秀吉は笑みを崩さず言った。
「ほう」
「わしが知りたいのは、あの朝、いちばん困っておったのは誰か、でございます」
その一言に、龍之介はほんの一瞬、息を詰めた。
そこへ来るか。
誰が主導したか。
誰が止めたか。
誰がどこにいたか。
そうではない。
いちばん困っていた男は誰か。
問いの角度が鋭すぎる。
秀吉は、事の中心を行動ではなく“揺れ”で見ようとしているのだ。
誰がもっとも行き場を失い、誰がもっとも崩れかけ、誰の周りへ無理が寄っていたか。
そこが分かれば、あの朝の実相にもかなり近づける。
「……妙なことを、お聞きになりますな」
龍之介が言うと、秀吉は楽しそうだった。
「そうでしょうか」
「ええ」
「ですが、人がいちばん困るところに、その朝の真が出ます」
やはりそう考えている。
この男は、出来事の形より、人の揺れ方を見ている。
「三上殿」
秀吉が続ける。
「誰が刃を持ったかより、誰がいちばん立ち尽くしたかの方が、わしには大事に見えましてな」
その言葉は、静かだった。
だが怖い。
怖いくらいに正しいところへ来ている。
本能寺の朝。
いちばん困っていたのは誰か。
答えはいくつかありうる。
信長も、ある意味では困っていた。
光秀もまた、もちろんそうだ。
そこへ噛んだ自分だって、平然としていたわけではない。
だが秀吉が知りたいのは、そういう平等な整理ではないだろう。
あの朝の中心にあった揺れ。
つまり、最も崩れかけていた男を見つけたいのだ。
「羽柴殿」
龍之介は慎重に問い返した。
「それを知って、どうなさる」
秀吉は少しだけ首を傾げる。
「どうもいたしませぬよ」
「……」
「ただ、知りたいだけにございます」
それが嘘ではないのが、また厄介だった。
知ること自体が、すでに次の手になる。
だから秀吉は“知る”を軽く言う。
「三上殿は」
秀吉が柔らかく言う。
「誰と思われます」
真正面から振る。
だが断定はしない。
答えはこちらに喋らせる。
龍之介は、そこで一呼吸置いた。
ここで光秀と即答すれば、秀吉はそのままそこへ寄せる。
だからといって完全に逸らせば、守りすぎる。
問題は、どういう器で返すかだ。
「……誰か一人に収まる朝ではなかった、と思います」
まずそう言った。
「ほう」
「上様も、日向守殿も、あの朝にはそれぞれ別の理があった」
「……」
「その理が、うまく噛み合わぬまま朝へ至った」
秀吉は黙って聞いている。
笑みは消えていない。
だが、その笑みの下で目だけがよく働いている。
「つまり」
秀吉が言う。
「どちらにも理があり、だからこそ危うかった」
「そういうことにございます」
「ですが」
秀吉は盃を置いた。
「そのどちらかが、より困っておったのでしょう」
やはりそこへ絞ってくる。
「三上殿は、そういう言い方をされる時、たいてい中心を知っておられる」
鋭い。
やはりこの男は、人が“ずらした時の輪郭”をよく見る。
「日向守殿、でしょうか」
秀吉が、まるで確認するように言った。
部屋の空気が少しだけ張る。
龍之介は表情を崩さぬようにした。
だが心の中では、ぞっとしていた。
秀吉は、もうかなり近いところに来ている。
事件そのものの真相ではなく、“崩れかけていた中心”として光秀へ寄せているのだ。
「羽柴殿は」
龍之介は静かに返した。
「日向守殿が、いちばん困っておられたと」
「思うております」
秀吉はあっさり言った。
「なぜなら」
「……」
「上様は、あのような朝でも立てるお方だ」
その言葉には、信長への深い理解があった。
たしかにそうだ。
信長は本能寺の朝でさえ、腹を割って向き合えた。
困らぬわけではない。
だが、揺れの中心ではなかった。
「日向守殿は違う」
秀吉が続ける。
「理が見え、人も見え、上様も知っておる。だからこそ抱える」
その言い方に、龍之介は内心で舌を巻いた。
秀吉は、もうかなりのところまで光秀の性質を見切っている。
そしてその性質が、本能寺の朝の揺れの中心だったと踏んでいる。
「羽柴殿」
龍之介は、少しだけ低く言った。
「日向守殿を、そこまでようご覧になる」
「よう見るとも」
秀吉は言った。
「敵に回しても厄介、味方でも油断ならぬ。ですが、理の深い方でもある」
「……」
「そういう方が困る時は、たいてい周りの理が噛み合わぬ時にございます」
まるで、もうその朝を見ていたかのような言い方だった。
だが見ていたわけではない。
秀吉は人の性と立場から逆算して、そこへ来ているのだ。
「三上殿」
秀吉がふと問う。
「おぬし、あの朝を見て、誰を助けたかった」
それは、思いもよらぬ問いだった。
誰を止めたか。
誰を守ったか。
ではない。
誰を助けたかった。
その問いに、龍之介は一瞬だけ本気で言葉を失った。
信長を救いたかった。
それは本当だ。
だが、光秀を破滅へ落としたくなかったのもまた本当だった。
誰か一人のためだけではなかった。
だからこそ、本能寺の朝はあそこまで危うかったのだ。
「……一人ではありませぬ」
やがて龍之介は、ゆっくりと言った。
「ほう」
「上様も、日向守殿も、どちらもあの朝に落ちてはならぬと思うた」
それは、かなり本音に近かった。
秀吉は、それを聞いて少しだけ静かになった。
「なるほどな」
「……」
「三上殿は、誰が悪いで切れぬ方か」
その言い方は、どこか感心しているようでもあり、同時に“だから厄介だ”と確信したようでもあった。
「悪い悪くないだけで済む朝ではございませぬでした」
龍之介は言う。
「誰かがただ欲で動いたのではない。理と理が噛み合わず、人が抱え込みすぎて、崩れかけた」
秀吉はしばらく黙っていた。
やがて、盃を静かに持ち上げる。
「それは、よく分かる」
その一言には、妙な重みがあった。
秀吉は全部を白黒で割ってはいない。
むしろ、人が理を抱え込みすぎた時の危うさもよく知っているのだろう。
だからこそ、“誰がいちばん困っていたか”という問いが出る。
「日向守殿とは」
秀吉がぽつりと言う。
「いずれ、腹を割らねばなりませぬな」
その声は、これまでより少しだけ低かった。
軽口ではない。
秀吉は、本気でそう思い始めているのだろう。
光秀があの朝の揺れの中心だったと、かなりのところまで確信したからこそ。
「羽柴殿」
龍之介は慎重に言った。
「それは、よい方へ転ぶとは限りませぬ」
秀吉は笑う。
だが、その笑いは少し冷えていた。
「戦国にございますので」
その返しは、妙に影鷹めいていて、龍之介は少し嫌な気分になった。
◇
話はそこで切れた。
今夜の秀吉は、それ以上深く押してこなかった。
だが押してこなかったからといって、軽かったわけではない。
むしろ今夜は、かなり深いものを持ち帰ったはずだ。
光秀が、あの朝いちばん困っていた男である。
少なくとも、そう仮置きするに足るだけの言葉を、龍之介は与えてしまった。
部屋へ戻ったあと、龍之介はしばらく灯の前で何も考えられなかった。
ようやく息を吐いた時、影鷹が現れた。
「いかがでした」
「……ひどい問いをされた」
「どのような」
「本能寺の朝、いちばん困っていた男は誰か、とな」
影鷹は少しだけ目を細めた。
「それはまた、羽柴殿らしい」
「そうか」
「誰が何をしたかより、誰がいちばん揺れていたかを知ろうとする」
龍之介は頷いた。
「まさにそうだ」
「で」
「光秀殿へかなり寄せた」
影鷹は黙った。
その沈黙の意味は分かる。
それは軽くない。
「まずいと思われますか」
龍之介が問うと、影鷹は少し考えてから答えた。
「まずい、とは言い切れませぬ」
「ほう」
「羽柴殿は、遅かれ早かれそこへ至ったでしょう」
たしかにそうかもしれない。
光秀の性と立場を考えれば、秀吉ほどの男なら遅かれ早かれ“揺れの中心”としてそこへ寄せただろう。
「ですが」
影鷹が続ける。
「三上殿のお言葉で、だいぶ輪郭は濃くなったでしょうな」
「そうだろうな」
「つまり」
「次は、光秀殿との線がもっと近くなる」
それが第49話や第50話へ向かう不穏さなのだろう。
「……面倒だ」
「今さらでございます」
やはりそれか、と龍之介は苦笑した。
だが、今夜ばかりはその通りすぎて、反論のしようもなかった。
「本能寺の朝は」
龍之介がぽつりと言う。
「やはり、人がいちばん崩れかけた朝だったのだな」
影鷹は静かに頷いた。
「火は上がりませなんだ」
「うむ」
「ですが、火の代わりに、人が揺れた」
それは、ひどく正確な言い方だった。
本能寺の朝を止めた。
だが止めたのは火であって、人の揺れそのものではなかったのだ。
その揺れが、いまもなお都と安土と羽柴のあいだで尾を引いている。
「……本当に、終わらぬな」
龍之介のその呟きに、影鷹は答えなかった。
答えなくても、答えは同じだからだろう。




