第47話 濁りを覚えた異物
人は、自分が変わったことには案外鈍い。
いや、正確には、変わらざるを得なかった時ほど、それを認めたくなくなるのかもしれない。
龍之介は、ここしばらくの自分を思い返して、少し嫌な気分になっていた。
誰に何をどこまで見せるか。
信長へは広く。
光秀へは抱え込みすぎぬよう絞って。
秀吉へは拾わせる器を置き。
都へは角を削る。
第46話で、そういう整理を自分の役目として腹へ落とし始めた。
それは必要だ。
必要だからやっている。
だが、必要であることと、気分がよいことは別だった。
昔の自分なら、もっと単純に考えていたかもしれない。
知っていることは言う。
危ないことは止める。
正しいと思う方へ真っすぐ出る。
だが戦国の、それも信長のすぐ近くでは、それだけでは足りぬ。
真っすぐに言えば折れる者がいる。
全部を伏せれば余計に嗅がれる。
ならば、少し濁して持たせるしかない。
その“少し濁して”を、自分が覚え始めている。
そこが、妙に腹立たしかった。
「難しい顔で」
障子の向こうから声がした。
もう聞き慣れた声だ。
影鷹である。
「おぬしは本当に、こちらが嫌な自覚をした時だけ来るな」
「便利でしょう」
「それしか言えぬのか」
「本日はもう一つございます」
「何だ」
「羽柴殿が、また三上殿を面白がっておられます」
その一言で、龍之介は机の上の紙から顔を上げた。
「……どこで」
「廊で少し。あとは都筋へ流れる話の拾い方からも」
「なるほどな」
やはり来るか、と思う。
第46話で秀吉は、龍之介の顔つきが少し変わったことをもう見抜いていた。
“綺麗に組みたい方が、少し濁り方を覚え始める時のお顔”とまで言った。
つまり秀吉は、龍之介の変化をただ眺めているのではない。
その変化が何を意味するかを見ている。
「三上殿」
影鷹が言う。
「本日は、あちらから少し来るかもしれませぬ」
「秀吉殿が」
「はい。前より少し深く」
「……だろうな」
覚悟はしていた。
こちらが変われば、秀吉は必ずそこを見る。
秀吉という男は、人が同じままでいるかどうかをよく見る。
それが強みでもあり、実に面倒なところでもある。
「では」
龍之介は立ち上がった。
「来る前に、少し歩く」
「頭を冷やされますか」
「むしろ、濁しすぎぬようにする」
影鷹は少しだけ目を細めた。
「それは大事にございます」
◇
安土の午後は、陽が高いうちは明るい。
城下の方から上がってくる音もある。
人が働き、物が運ばれ、兵が動く。
その一つ一つが、信長の政の速さを示しているようでもあった。
龍之介は、城の廊下から少し外れた庭沿いを歩いた。
頭の中を整理するには、このくらいの静けさがありがたい。
濁りを覚えた異物。
秀吉にそう見られているのだろうか、と考える。
異物であること自体は、もう今さら否定しようもない。
安土の家中にあって、自分は血筋でも家格でも役職でも立っているわけではない。
信長に拾われ、本能寺の朝へ噛み、都と安土のあいだの詰まりを見る役を負わされている妙な男だ。
問題は、そこへ“濁りを覚えた”が加わることだ。
異物が異物のまま真っすぐなら、まだ扱いようもある。
だが、異物が少しずつこの戦国のやり方を覚え始めると、今度は何に変わるか分からぬ。
秀吉はたぶん、そこを見ている。
「三上殿」
やはり来た。
声は柔らかい。
気配も軽い。
だが、その軽さがかえって厄介だ。
振り向くと、秀吉が立っていた。
相変わらず、よい顔をしている。
疲れも見せず、忙しさも顔へ出しすぎず、にこやかで、人好きのする顔。
だが龍之介はもう、その顔だけでは判断しない。
「羽柴殿」
「お一人で」
「少し、頭を冷やしておりました」
「ほう」
秀吉が笑う。
「それはまた、わしのせいかもしれませぬな」
「否定はいたしかねます」
「いやはや、嫌われたものです」
そう言いながら、まるで気にしていない。
いや、気にしていないように見せて、どの程度の嫌い方かを測っている。
「嫌う、というより」
龍之介は少しだけ笑った。
「羽柴殿と話すと、自分の腹の持ち方まで見られている気がする」
秀吉の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「それはまた」
「違いますか」
「いや」
秀吉はあっさり認める。
「人が、知ったものをどう持つかは大事ですので」
やはりそうか。
この男は、情報そのものより、人がそれをどう持つかを見る。
「三上殿」
秀吉がゆるやかに歩き出し、龍之介も自然に並ぶ形になった。
「少し変わられましたな」
いきなりそこへ来る。
「そうでしょうか」
「ええ」
秀吉は庭を眺めるような顔で言った。
「前はもっと、真っすぐ“正しそうな方”へ立とうとなさっていた」
図星だった。
「いまは」
「いまは、少し器を選ぶ顔になられた」
龍之介は、一瞬だけ黙った。
「……そう見えるか」
「見えますとも」
秀吉は楽しそうだった。
「誰へ、どこまで、何を見せるか。そこをお考えになる顔にございます」
そこまで見抜くか、と改めて思う。
しかも、それを責めているのではない。
むしろ面白がりながら、変化そのものを値踏みしている。
「羽柴殿には」
龍之介は言った。
「だいぶ見えておるようだ」
「ようやく、と申すべきかもしれませぬ」
その返しがまた癪に障る。
だが、腹を立てたところで意味はない。
「綺麗に組みたい方が」
秀吉は続ける。
「ようやく、少し濁りを覚えられた」
やはりその言い方か。
「不快ですな」
龍之介が率直に言うと、秀吉は声を立てて笑った。
「誉めておるのですが」
「羽柴殿の誉め言葉は、相変わらず胃に悪い」
「それは失礼いたした」
秀吉は謝っているようで、少しも退かない。
そして、そこで終わりにもせぬ。
「ですが」
秀吉は少しだけ声を和らげた。
「必要な変わり方でもございます」
「……」
「都を見、安土を見、日向守殿を見、わしを見れば、真っすぐだけでは足りぬと分かる」
その言葉には、妙に本音が混じっていた。
秀吉は、自分のやり方を龍之介へ押しつけているわけではない。
むしろ、“この場にいるならそうならざるをえぬ”と見ているのだろう。
「羽柴殿は」
龍之介が問う。
「それを嬉しそうに見ておられるな」
秀吉は少しだけ首を傾げた。
「嬉しそうに見えますか」
「ええ」
「そうかもしれませぬ」
否定しない。
そこがこの男だ。
「なぜです」
龍之介がさらに問うと、秀吉は少し考えるようにしてから答えた。
「三上殿が、ただの綺麗事の方ではないと分かるからでしょうな」
「……」
「綺麗事だけであれば、いずれ上様の下では折れる」
「ええ」
「ですが、濁りを嫌いながらも、それを少しずつ覚えるなら」
秀吉はそこまで言って、少しだけ笑った。
「これは、なかなか厄介だ」
その“厄介”には、誉めも警戒も両方入っているのが分かった。
「私が、ですか」
「ええ」
秀吉はあっさり頷く。
「前はまだ、“上様の側へいる都筋の妙な男”という見え方が強かった」
「いまは」
「いまは、それだけでは済みませぬ」
秀吉は視線を少し前へやった。
「都の顔を知る。武の理も少し知る。上様の速さを見ている。そのうえで、情報の器まで選び始める」
「……」
「そうなると、ただの客でも、ただの異物でもない」
龍之介は、その言葉を静かに受けた。
そうかもしれない。
秀吉の目から見れば、自分はもう単なる観客ではないのだろう。
「羽柴殿」
龍之介は慎重に言った。
「それは、敵として厄介という意味か」
秀吉はそこで、はっきり笑った。
「早い」
「答えを」
「敵、と決めてはおりませぬ」
その返しは、いつも通りだ。
だが今は、そのいつも通りの中に少し濃いものがある。
「ですが」
秀吉は言う。
「無視してよい相手ではなくなった」
それは、ある意味でかなり重い評価だった。
軽く見られない。
だが、味方と信じきられてもいない。
つまり、互いに互いを“見ておくべき相手”と認識し始めているのだ。
「三上殿」
秀吉が、ふと静かな調子で言った。
「おぬし、濁りを覚えても、本音ではまだそれを好いてはおられぬでしょう」
あまりにも図星で、龍之介は少しだけ苦い顔をした。
「……そうだな」
「そこは変わらぬ」
「ええ」
「だから、まだ面白い」
秀吉は笑う。
「濁ることを当然と思い始めたら、また別の顔になる」
その言い方に、龍之介は少しだけぞっとした。
秀吉は、自分の変化を喜んでいるのではない。
変化の途中を面白がっているのだ。
きれいな方が少し濁りを覚え、だがまだ濁りを好きにはなれぬ。
その不安定さが、秀吉には見どころなのだろう。
「羽柴殿」
龍之介は言った。
「人が変わっていくところを見るのが、お好きか」
秀吉は少しだけ目を細めた。
「人が、どう場に染まるかを見るのは嫌いではありませぬな」
「場に、か」
「ええ」
「それは、上様の場か」
「今は」
秀吉は即答した。
「今は、そう申してよろしい」
今は、か。
その一言に、この男の未来が滲む気がした。
◇
その日の夕方、秀吉は最後に一つだけ妙なことを言った。
「三上殿」
「何でしょう」
「だいぶ濁り方を覚えられましたな」
またそこか、と思う。
だが今度は、ただの皮肉ではないようにも聞こえた。
「不快です」
龍之介が答えると、秀吉は笑った。
「分かっております」
「では、なぜ言う」
「嬉しいからではありませぬ」
秀吉は少しだけ声を落とした。
「上様の場で、生き延びる顔になってこられた」
その言葉には、妙な実感があった。
秀吉自身、きっとそうやって変わってきたのだろう。
濁りを覚え、場に染まり、だがその中で自分の芯も残してきた。
だから龍之介の変化も分かるのかもしれない。
「……ありがたくない評価だ」
「でしょうな」
秀吉は頷いた。
「ですが、必要なことにございます」
それだけ言って、秀吉は去っていった。
残された龍之介は、しばらく動けずにいた。
濁りを覚えた異物。
それがいまの自分なのだろうか。
嫌だ。
だが、完全には否定できない。
◇
夜、影鷹が現れた時、龍之介は机の前でしばらく何も書けずにいた。
「お疲れにございます」
「……ああ」
「羽柴殿に、言われましたか」
「よく分かるな」
「そのお顔を見れば」
「だいぶ濁り方を覚えたと」
影鷹は、珍しく少しだけはっきり笑った。
「それはまた、羽柴殿らしい」
「嬉しくない」
「ですが、外れてもおられますまい」
やはりそこへ来る。
「認めたくはない」
「その認めたくなさが、まだ大事なのでしょう」
影鷹が言う。
「何だ」
「濁りを覚えた。ですが、まだそれを好いてはおられぬ」
「……」
「ならば、まだ三上殿は三上殿にございます」
その言葉に、龍之介は少しだけ息を抜いた。
そうかもしれない。
必要だからやる。
だが、それを当然の顔で好んではいない。
その違和感が残っているうちは、まだ自分の芯は消えていないのだろう。
「……厄介な慰めだな」
「三上殿向きかと」
「それは否定しづらい」
安土の夜は静かだった。
だがその静けさの下で、人の心も、情報も、思惑も、少しずつ濁って流れている。
その流れの中で、龍之介もまた、異物のまま少しずつ変わっている。
それが次に何を生むかは、まだ分からない。




