第45話 光秀へは、どこまで知らせるか
人に何かを知らせるというのは、よいことばかりではない。
知らぬままでは備えられぬ。
だから知らせる。
それは理屈として正しい。
だが同時に、知るということは、その知ったものを抱えるということでもある。
抱えきれる者ならよい。
抱えたうえで、重さを分けられる者ならもっとよい。
だが世の中には、見えたものを全部まず自分の腹へ入れてしまう人間がいる。
明智光秀は、たぶんそういう人間なのだろう。
第42話で龍之介は、光秀を“見えすぎる男”、秀吉を“見せすぎぬ男”と整理し始めた。
第44話では、信長から「秀吉をただ防ぐな。泳がせて使う手もある」とまで言われた。
ならば次に問題になるのは、光秀へどこまで知らせるべきか、ということだった。
秀吉が本能寺の朝の器を嗅いでいる。
都筋へ薄く耳を立てている。
龍之介の出自と立ち位置を探っている。
そうしたことを、光秀へそのまま全部渡してよいのか。
答えは簡単ではなかった。
全部を言えば、光秀はきっとすぐ理解する。
理解したうえで、自分の中へ抱える。
抱えて、またあの人は一人で考え始めるだろう。
そしてその考えは、たぶん深く正しく、だからこそ危うい。
「……厄介だな」
机の前でそう漏らしたところで、障子の向こうから影鷹の声がした。
「今さらでございます」
「おぬしは本当に、その言葉が好きだな」
「便利ですので」
「便利だが、慰めにはならぬ」
影鷹が入ってくる。
相変わらず気配が薄い。
こういう時、この男の静けさは少しありがたい。
「日向守殿、にございますか」
「うむ」
「どこまで知らせるか」
「そうだ」
影鷹は机の上の紙を見た。
そこには都・安土・羽柴の三つの流れに加え、それぞれへ誰がどれだけ見えすぎるか、見たがるか、抱え込むかが雑に書き足されている。
「三上殿」
「何だ」
「全部を言えば、日向守殿は抱えられますな」
「そうだろうな」
「抱えたうえで、さらにご自分で整えようとされる」
「そうだ」
「ですが、言わねば“自分だけ外された”とも感じられましょう」
まったくその通りだった。
光秀は勘のよい男だ。
自分の周りで何かが整理され、しかもそれが自分へ届いていないと知れば、その欠落ごと重く受け取る。
そこに孤立感が加われば、また危うい。
「守るだけでは足りぬ」
龍之介が言うと、影鷹は頷いた。
「持たせるために、絞る」
「そういうことになるな」
「嫌なお顔で」
「好きでやる仕事ではない」
「ですが必要にございます」
必要。
その言葉がいちいち腹立たしいくらい正しい。
「……一部だけ渡す」
龍之介は、ようやくそう言った。
「何を、にございます」
「秀吉が都筋と寺社筋を嗅いでいること」
「本能寺の朝への寄せ方は」
「そこは薄くする」
影鷹は少しだけ目を細めた。
「理由は」
「秀吉が何をどこまで知っているか、その“濃さ”までは、まだ日向守殿へ渡しすぎぬ方がよい」
「なるほど」
「知れば、あの人はその濃さごと抱える」
そして抱えたまま、自分で答えへ寄ろうとするだろう。
それは危うい。
いまはまだ、秀吉の鼻の利き方を“知っておく”だけでよい。
“どこまで嗅ぎ当てたか”まで渡すのは、その次だ。
「……冷たい役だな」
龍之介がぽつりと漏らすと、影鷹は静かに言った。
「そうでございましょうな」
「否定せぬか」
「三上殿も、否定できぬのでしょう」
できなかった。
◇
光秀のもとを訪ねたのは、昼が少し傾き始めた頃だった。
安土の廊は今日も静かに人が行き交っている。
何事もないような顔で、文が動き、人が動き、兵が動く。
だがこの城の中で、“何事もないように見せること”自体がどれだけ重い仕事かを、龍之介はいまやよく知っていた。
光秀の部屋は、相変わらず整っていた。
整い方が丁寧すぎるのは、持ち主の性分でもあり、崩れぬための工夫でもあるのだろう。
「龍之介殿か」
光秀は文から顔を上げた。
「少し、お時間を」
「よかろう」
声は落ち着いている。
だが、その落ち着きの下に、常に何かを考え続ける張りがある。
龍之介は座し、少しだけ間を置いてから言った。
「羽柴殿が、都筋をさらに嗅いでおられます」
光秀の目が、静かに深くなった。
「……そうか」
「寺社、商人、浪人」
「広いな」
「はい。露骨ではありませぬが」
光秀はすぐには口を開かなかった。
視線をわずかに落とし、何本か先まで線を引いている顔をしている。
やはりこの人は、ひとつ聞けばその先をすぐ思考する。
「何を拾いたいのだろうな」
光秀が低く言った。
「都の不満そのものか。あるいは、本能寺の朝の整い方か」
そこへ来る。
だが龍之介は、ここで少しだけ踏みとどまった。
「おそらく、両方にございます」
「……」
「ですが、まずは都の空気を通して見ておられるように思います」
嘘ではない。
だが、全部でもない。
秀吉はたしかに本能寺の朝へかなり寄せてきている。
だが、その“濃さ”まではいまここで言わぬ。
それが、龍之介の選んだ器だった。
「羽柴らしい」
光秀は小さく吐き出すように言った。
「正面からは来ぬ」
「ええ」
「だが周囲から温度を測る」
「そう見えます」
光秀は、そこでふと龍之介を見た。
「おぬしは、どこまで見ている」
直球だった。
たぶん、この人は気づいている。
龍之介が何かを少し絞っていることに。
「見えているところまでは」
龍之介は慎重に答える。
「……曖昧だな」
「いまは、その方がよいと思うております」
光秀はすぐには怒らなかった。
だが、少しだけ眉のあたりが動いた。
「私に全部を申さぬ方がよい、と」
「はい」
ついにそこまで言った。
部屋の空気が少し張る。
だが、ここで曖昧にごまかす方がむしろ悪い気がした。
「理由を聞こう」
光秀の声は低い。
責めているわけではない。
だが真剣だった。
「日向守殿は、見えたものをまずご自分の腹へ入れられる」
龍之介は言った。
「……」
「抱えたうえで、どこへ通し、どう収めるかを考えられる」
「そうだな」
「それが強みでもございます」
「だが」
「今は、その強みがそのまま負荷にもなります」
光秀はしばらく黙っていた。
その沈黙の長さが、この人の重さでもある。
感情に任せてすぐ返さない。
受けて、飲み込み、そこから自分で言葉を選ぶ。
「つまり」
やがて光秀が言った。
「おぬしは、私を守るために情報を絞る、と」
「守る、だけではございませぬ」
「では」
「持たせるため、にございます」
そこまで言うと、光秀はわずかに口元を歪めた。
苦笑とも、自嘲ともつかぬ顔だった。
「痛いところを突く」
「……」
「私がいままた、見えすぎたものを抱え込めば、危ういと」
「はい」
光秀は、そこで小さく息を吐いた。
「上様の近くにおると、人に言われぬことまで言われるようになるな」
「それは、私にも少しずつ分かってまいりました」
「そうか」
光秀は少しだけ視線を和らげた。
「腹は立つ」
「でしょうな」
「だが、まるきり外れてもおらぬ」
その言葉に、龍之介は小さく頭を下げた。
「恐れ入ります」
「褒めておらぬ」
「承知しております」
少しだけ空気が緩む。
だが重さは消えない。
「では」
光秀が言う。
「何を知っておればよい」
ここだ。
全部を渡さぬと決めた以上、何を渡すかをきちんと定めねばならない。
「羽柴殿が、都筋と寺社筋を嗅いでいること」
「うむ」
「そして、それを本能寺の朝へまっすぐ繋げる前に、都全体の空気として拾っていること」
「……」
「つまり、日向守殿個人へ刃を向けているというより、まずは都の揺れの中で何が見えるかを見ておられる」
それは大事な違いだった。
光秀だけが標的だと思えば、またこの人はそれを自分一人で受けようとする。
だが、秀吉はいま都全体の揺れを嗅いでいる。
その中に本能寺の朝の匂いも混じっている。
ならば、それは光秀一人で抱えるべきものではない。
「なるほど」
光秀は静かに頷いた。
「それなら、まだ見方を誤らずに済む」
「ええ」
「おぬし、そこまで考えて絞ったか」
「はい」
光秀は少しだけ苦い顔をした。
「やはり腹は立つな」
「そうでしょうな」
「だが、前よりはよい」
それがどういう意味か、龍之介には分かった。
以前の自分なら、全部を一人で抱えようとしていた。
だがいまは違う。
抱えすぎれば持たぬことを、少しは自分でも認め始めているのだろう。
「羽柴が嗅いでいるなら」
光秀がぽつりと言った。
「いずれこちらへも来る」
その声は低かった。
「はい」
「表では何もなかった顔で。だが、その笑いの裏で何をどこまで知っているふりか、測ってくる」
「そう見えます」
「……面倒な男だ」
そこは、光秀も勝家も龍之介も同じだった。
「日向守殿」
龍之介は少しだけ身を乗り出すようにして言った。
「羽柴殿が来た時、全部を一人で受けようとなさらぬ方がよろしい」
光秀は、しばらく龍之介を見ていた。
「おぬし」
「は」
「だいぶ、言うようになった」
「上様の近くにおりますので」
光秀はそこで、小さく笑った。
「悪い癖が移ったな」
「ありがたいような、ありがたくないような」
「その両方だろう」
そのやり取りだけは、少しだけ人間臭い温度があった。
◇
光秀の部屋を出たあと、龍之介はしばらく無言で廊を歩いた。
やはり、全部を言わぬのは気分がよいものではない。
だが、全部を言えばよいという話でもない。
それを実感として引き受け始めている自分が、少しだけ嫌だった。
「お顔が渋うございます」
影鷹が現れた。
「おぬしは本当に、いちばん見たくない顔の時だけいるな」
「便利でしょう」
「その便利さをたまには呪う」
影鷹は小さく笑った。
「いかがでした」
「腹は立たせた」
「でしょうな」
「だが、受け止めてもいた」
「左様にございますか」
「前より少しだけ、“抱え込む前に見る”方へ寄っておられる気もする」
影鷹は静かに頷いた。
「それなら結構」
「結構、か」
「全部を渡して潰れるより、よほど」
それもまた、その通りだった。
「……冷たい役だ」
龍之介がもう一度言うと、影鷹は今度は否定しなかった。
「そうでしょうな」
「だが、必要でもある」
「ええ」
「戦国の政というのは、こういうものか」
影鷹は少しだけ考えてから答えた。
「少なくとも、上様の政は」
たしかにそうだ。
信長の政は、人を信じるだけでも回らぬ。
疑うだけでも回らぬ。
誰にどこまで見せ、何を背負わせず、どこで曖昧さを残すか。
そういう冷たさまで要る。
そしていま、龍之介はその中へ入っている。
「……面倒だな」
「今さらでございます」
やはりそれか、と苦笑するしかなかった。




