第44話 信長は、秀吉を泳がせる
人を疑うのは、まだ簡単だ。
危ういと思う。
腹に何かあると見る。
だから遠ざける。
切る。
隠す。
それで済むなら、話はずいぶん楽になる。
だが信長という男は、そこへ行かない。
危うい。
腹がある。
いつか喰うかもしれぬ。
その全部を知ったうえで、なお使う。
しかもただ使うのではない。危うさごと、動く力として使おうとする。
第43話で、都にある秀吉の耳と、その耳を生かす鼻の利かせ方を整理し始めた龍之介は、信長からはっきりと「隠しすぎるな。羽柴には、あえて見せて使う手もある」と言われた。
その一言は、分かるようでいて、実際にやるとなると骨が折れる。
何を見せるか。
どこまで見せるか。
どう見せれば、“わざと見せた”と気づかれすぎぬか。
そして、見せた先で秀吉がどう動くか。
そこまで含めて“器”を作れというのだから、軽い仕事であるはずがない。
龍之介は、その日の夕刻、また信長のもとへ呼ばれた。
今度は広い部屋ではない。
小さめの一室だ。
信長と蘭丸、そして龍之介だけ。
こういう時の信長は、単に報告を聞くだけでなく、相手の腹がどこまで整ったかも見ようとしている。
「龍之介」
「は」
「羽柴の耳、都にだいぶ伸びておるようだな」
「はい」
「で」
信長は短く言った。
「おぬし、どうする気だ」
また、ど真ん中から来る。
だがもう、ここで曖昧に逃げる段ではない。
秀吉を前にして、ただ隠すだけでは足りぬと分かった以上、自分なりの器を持たねばならない。
「……全部を塞ぐのは悪手かと」
龍之介は言った。
「うむ」
「秀吉殿は、耳で拾うだけでなく、隠された時の不自然さも嗅がれる」
「そうだ」
「ならば、あえて見せる形を置くべきかと」
信長は目を細めた。
「どういう形だ」
ここからが本題だった。
「本能寺の朝そのものは、まだ深う見せるべきではありませぬ」
「当然だ」
「ですが、“あの朝は都筋と安土筋のあいだで、かなり急ぎの調整が要った”という器までは、いずれ秀吉殿にも拾わせてよろしいかと」
信長は何も言わない。
つまり続きを促している。
「秀吉殿はいま、“明智日向守殿だけでは整いすぎる”と見ておられます」
「うむ」
「ならば、その勘を全部外そうとするより、“あの朝にはたしかに調整があった”とだけ思わせる方が自然かと」
「……」
「ただし」
龍之介は一呼吸置いた。
「その調整を、誰がどこまで担ったかは曖昧に残す」
信長の口元が、ほんの少しだけ上がる。
「よい」
短い。
だが重い“よい”だった。
「さらに申せ」
「都筋と寺社筋へは、“本能寺の朝はかなり危うい空気ではあったが、大事へ至る前に収まった”という程度の器を、少しずつ揃えるのがよろしいかと」
「ほう」
「そうしておけば、秀吉殿が耳を立てて拾っても、“何かはあったが、器の中に収まった”ところまでは自然に届く」
信長は笑った。
「羽柴の鼻へ、こちらで香を焚くか」
「……言い方は悪うございますが」
「悪くてよい」
信長は楽しそうだった。
「どうせ似たようなものだ」
たしかにそうだ。
全部を隠し切れぬなら、秀吉が嗅ぐ先にこちらで少し香を置く。
そうすれば、秀吉はその器の中で働く。
少なくとも、真へまっすぐ潜りすぎるのを少しは遅らせられる。
「蘭丸」
信長が横へ目をやる。
「は」
「聞いたな」
「は」
「都筋へ流す器、少し調えよ」
「承知」
「だが大げさにするな。わざとらしければ羽柴は余計に鼻を利かせる」
「御意」
蘭丸は短く頭を下げた。
この男は本当に、こういう時に余計な言葉を挟まない。
だからこそ怖いし、使いやすいのだろう。
「龍之介」
信長がまたこちらを見る。
「おぬし、ようやく“守る”だけでは足りぬと分かったな」
その言い方は少し腹立たしかった。
だが反論しづらい。
「認めとうございませぬが」
「認めよ」
「……はい」
信長はふっと笑った。
「綺麗に守りきれるなら、それに越したことはない」
「ええ」
「だが、羽柴のような男が相手なら、守るだけでは流れが固まる。固まれば割れる」
龍之介は静かに頷いた。
まさにその通りだった。
秀吉を前にして、全部を閉じれば、あの男はもっと細いところへ潜る。
人へ恩を置き、別筋から拾い、こちらの不自然さを逆に手がかりにするだろう。
「ならば」
信長が言う。
「少し泳がせる」
その一言は、妙に冷えて聞こえた。
「秀吉殿を、ですか」
「そうだ」
信長は当然のように言う。
「羽柴は、何も嗅げぬより、少し嗅げる方がよく働く」
「……」
「自分が何かを掴んでおると思えば、なお動く」
「それを、こちらの器の中で」
「そうだ」
龍之介は、そこで改めてこの男の大きさと冷たさを感じた。
秀吉が危ういことなど、信長はとっくに知っている。
だがその危うさを理由に遠ざけるのではない。
むしろ、“危ういからこそ、どう泳がせれば働くか”を考える。
人を道具としか見ていない、というほど単純でもない。
惜しいと本気で思っている。
だが惜しいと思うからこそ、危うさごと使おうとするのだ。
それは優しさではない。
だが、ただの冷酷とも少し違う。
信長という男の人使いは、そういう厄介なところに成り立っている。
「上様」
龍之介は慎重に言った。
「何だ」
「秀吉殿は、こちらが“泳がせている”と気づくやもしれませぬ」
「気づくであろうな」
あっさり言う。
「では」
「それでもよい」
信長は即答した。
「なぜなら、羽柴もまたこちらを泳がせるつもりでおるからだ」
龍之介は、そこで言葉を失いかけた。
たしかにそうだ。
秀吉も、自分や安土の流れを読もうとしている。
ならば互いに、相手を完全に騙しきる話ではない。
“あえて器の中で泳ぐ”という了解のもとで、どちらがより多くを取るかの勝負になるのかもしれない。
「完全に隠すことも、完全に騙すこともできぬ」
信長は言う。
「ならば、その中で誰がより働き、より取るかだ」
信長らしい理屈だった。
きれいではない。
だが強い。
◇
話が一段落したあと、信長は少しだけ気を緩めたように座を崩した。
もっとも、この男の“気を緩める”は、普通の人間のそれとは違う。
刃を鞘に納めたというより、向きを少し変えた程度のものだ。
「龍之介」
「は」
「おぬし、羽柴が嫌いか」
突然、そんなことを聞く。
「好き嫌いで言えば、気が合う方ではございませぬ」
「そうか」
「ですが」
龍之介は少し考えてから続けた。
「嫌うだけでは済まぬとも思います」
信長は目を細めた。
「なぜだ」
「秀吉殿は、たしかに濁してでも場を取る。私はそれを好まぬ」
「うむ」
「ですが、あの方がおらねば取れぬ場もまた多いのでしょう」
「その通りよ」
「ならば、嫌って切るわけにも参りますまい」
信長は、そこで少しだけ満足そうに笑った。
「よう見えてきたではないか」
この男にそう言われると、妙に複雑な気分になる。
認められているのか、より面倒な場所へ進んだと言われているのか、その両方だからだ。
「羽柴は」
信長が言う。
「進める」
「はい」
「おぬしは」
「……持たせる、のでしょうな」
「そうだ」
信長はあっさり言う。
「ならば、互いに互いを嫌っても構わぬ。だが、違うままで噛み合わせろ」
それがどれほど難しいか、この男は本当に分かって言っているのだろうか。
いや、分かっているから言うのだろう。
できるかどうかは、こちらの問題に過ぎない。
「承知いたしました」
そう答えるしかなかった。
◇
部屋を出ると、影鷹が待っていた。
「いかがでした」
「信長公は、本当に秀吉殿を泳がせる気だ」
「でしょうな」
「しかも、気づかれても構わぬとまで仰せだった」
影鷹は少しだけ目を細める。
「互いに互いを泳がせる、という形にございますな」
「うむ」
「それはまた、胃に悪い」
「実に」
龍之介は少しだけ苦笑した。
「だが、その中で器を作れと」
「三上殿らしい役目にございます」
「嫌な意味でな」
影鷹は否定しない。
「見せる器を、こちらで定める。都には都の形、安土には安土の形、羽柴殿には羽柴殿が嗅ぎたがる形」
「そうだ」
「もはや、ただの翻訳ではありませぬな」
「……流れの設計に近い」
その言葉を口にした時、龍之介は少しだけ妙な感覚を覚えた。
たしかにそうだ。
自分がやろうとしているのは、ただ情報を右から左へ流すことではない。
誰に、どの器で、どの濃さで、どこまで見せるか。
その設計だ。
それはきれいな仕事ではない。
だが必要な仕事でもある。
「三上殿」
影鷹が言う。
「ようやく、羽柴殿を“防ぐ相手”から“使う相手”へ少し見方を変え始められましたな」
「認めたくはないが」
「事実にございます」
それもまた、その通りだった。
秀吉は怖い。
危うい。
だが、ただ遠ざけて済む相手ではない。
ならば、どう泳がせるかを考えるしかない。
それは信長の理屈でもあり、そしていまや自分の仕事にもなりつつある。
安土の夕方の風が、廊下の先を静かに抜けていった。
静かな城だ。
だが、その静けさの下で、人も情報も、そして思惑も泳いでいる。
「……本当に、面倒な世だ」
龍之介が呟くと、影鷹は小さく笑った。
「それでこそ、でございます」
相変わらず、嬉しくない返しだった。




