第43話 都にある耳、羽柴にある鼻
都には耳がある。
それは昔からそうだ。
人が多い。
身分が多い。
立場が多い。
寺社、公家、町人、浪人、商人、女房衆、使いの者、宿の主、茶の湯に顔を出す者、表では何も語らぬくせに裏では驚くほどよく知っている者。
人が重なれば、それだけ耳が生まれる。
そして羽柴秀吉には、鼻がある。
耳で拾っただけでは終わらぬ。
拾った断片の中に、どこが濃く、どこが薄く、どこに人の欲や怖れが混じっているかを嗅ぎ分ける。
だから厄介だと、龍之介はだんだん骨身に沁みてきていた。
第42話で、光秀は“見えすぎる男”、秀吉は“見せすぎぬ男”だと整理し始めた。
そして秀吉が、都筋・寺社筋・商人筋に薄く耳を立てていると影鷹から聞かされた時、龍之介はもう“どう隠すか”だけでは足りぬと悟っていた。
全部を塞げば、秀吉はもっと深く潜る。
ならば何をするか。
見せる形を選ぶしかない。
そのためにはまず、秀吉の鼻がどこまで伸びているかを知らねばならなかった。
◇
夜明け前に近い時刻、影鷹は珍しく自分から龍之介を起こしに来た。
「三上殿」
声は小さい。
だが、いつもの気楽さが少し薄い。
「何だ……まだ暗いぞ」
「都筋より、少しまとまったものが」
その言い方で、眠気は半分飛んだ。
「入れ」
灯を少しだけ明るくすると、影鷹は滑るように入ってきた。
いつも通り気配は薄い。
だが目だけは、いつもより少し鋭かった。
「羽柴殿の耳、思っていたより広うございます」
「やはりか」
「寺社筋に一つ。商人筋に二つ。浪人筋に一つ」
「四本か」
「いま見えているだけで」
龍之介は小さく息を吐いた。
見えているだけで四本。
実際にはもっとあるのだろう。
ただ、その全部が“秀吉の手”と丸見えではないだけだ。
「どういう拾い方をしておる」
龍之介が問うと、影鷹は即座に答えた。
「露骨に“探る”のではございませぬ」
「だろうな」
「まず、向こうに少し得を置く」
やはりそこか。
「寺社筋には」
影鷹が続ける。
「兵の通行や人足の件で、不満をそのまま受けるのでなく、“羽柴へ話せば少し早く届く”という顔を作っております」
「取次役、か」
「はい。しかも表向きは、あくまで“働き者の羽柴がよく気がつく”で通っております」
秀吉らしい。
正面から網を張るのではない。
人に“ここへ話せば少し得だ”と思わせ、自分から口を開かせる。
「商人筋は」
「こちらも似たようなものにございます」
影鷹は言った。
「安土と都の物の流れ、その目利きや値の動きに早く気づく者へ、羽柴方から軽く恩を置いております」
「恩、か」
「はい。“あの方へ一言通せば損はせぬ”という程度の、薄い恩にございます」
それが一番厄介だ。
大きすぎる恩は警戒される。
だが薄い恩は、人の中で“つい口が軽くなる理由”になる。
「浪人筋は」
「噂にございます」
影鷹は短く答えた。
「浪人は身が軽い。ゆえに町の噂にも、寺の裏話にも、公家屋敷の下働きの不満にも触れやすい」
「それを拾わせる」
「ええ。ただし、“羽柴が拾っている”と見えぬ程度に」
龍之介は、そこで机へ向かい紙を広げた。
都。
寺社。商人。浪人。
そこから羽柴へ向かう細い線を三本、四本と足していく。
見えてくる。
秀吉は都を正面から押さえようとしていない。
押さえれば、相手も身構えるからだ。
そうではなく、“ここへ話せば少し通りがよい”“ここへこぼせば少し得だ”という形を各所へ置き、その先で匂いだけ拾っている。
やはり、耳ではなく鼻だ。
「本能寺の朝に関しては」
龍之介が言う。
「どこまで」
「まだ、器の速さの話が中心にございます」
影鷹が答えた。
「急ぎ言上。大事なし。都筋の細事。その形が早すぎ、整いすぎる」
「……」
「そして、その整い方が、明智方一つでは説明しづらい、と」
そこまではもう秀吉の中でほぼ筋になっているのだろう。
「では」
龍之介は問う。
「私に関しては」
「出自、つながり、都での立ち位置」
影鷹の返しは簡潔だった。
「三上龍之介という男が、ただの都の客ではなく、どこまで寺社・武家・町へ顔が利くのか」
「本能寺そのものより、まず足場か」
「はい。羽柴殿は、まず人の足場から量るのでしょう」
それは秀吉らしいやり方だった。
“何をしたか”を先に問うのではない。
“その人間が、何をしうる位置にいたか”を先に固める。
そうしてから、行動の可能性を狭めていく。
「やはり、嫌らしいな」
「誉め言葉に聞こえます」
「実際、半分は誉めておる」
秀吉のやり方は厄介だが、下手ではない。
むしろ、かなりうまい。
だからこそ、正面から塞ぐだけでは足りぬのだ。
◇
朝になり、龍之介はその足で都筋に近い口入れの者へ会いに行った。
安土の中にいても、都とつながる人間はいる。
商いを通じて。
寺社を通じて。
文のやり取りを通じて。
そういう人々の空気を見れば、秀吉が何を拾いやすいかも分かる。
茶を出された小部屋で、年嵩の商人が言った。
「羽柴様は、よう気がつかれますな」
その一言で、龍之介にはもう十分だった。
「どういうあたりが」
「こちらが言う前に、“その件、お困りでは”とおっしゃる」
商人は苦笑する。
「困っておりますとも言いやすい」
「……」
「しかも、全部を引き受けるような大きなことは申されぬ。ですが“話だけは通しておきます”とおっしゃる」
やはりそうだ。
全部を引き受けぬ。
だが、話の通り道の一つにはなる。
その程度の軽さだから、人は口を開きやすい。
「そのあと、何か変わりますか」
龍之介が問うと、商人は首を傾げた。
「劇的には変わりませぬ」
「ほう」
「ですが、“羽柴様は知っておられる”という気にはなる」
その言葉に、龍之介は内心で舌を巻いた。
そこだ。
秀吉の強さは、全部を変えることではなく、“知っておる側に回る”ことにあるのかもしれない。
人は、自分の困りごとを知っている相手に対して、知らぬ相手より少しだけ気を許す。
その少しが集まれば、十分に強い。
寺社筋でも似たような話を聞いた。
羽柴筑前守は、表では押しつけがましくない。
むしろこちらの顔を立てる。
だがその中で、“ではその話、こちらで承っておきましょう”と自然に言う。
それが何度か重なると、人はもう“羽柴へ流しておけば早い”と思い始める。
速いのは安土。
顔があるのは都。
そのあいだに、秀吉は“話が通る感触”を作って入り込んでいるのだ。
「なるほどな……」
城へ戻る頃には、龍之介の中でだいぶ形が見えていた。
秀吉の耳は都にある。
だが耳そのものより、その耳へ話を運びたくさせる鼻の利かせ方が怖い。
◇
昼過ぎ、信長に呼ばれた。
部屋へ入ると、信長はすでにいくつかの文に目を通していた。
蘭丸が控えている。
今日は他に誰もいない。
「来たか」
「は」
「都はどうだ」
いきなり本題だった。
「羽柴殿の耳が増えております」
龍之介は率直に言った。
信長の口元が、ほんの少しだけ上がる。
「鼻ではなく」
「耳もございますが、本体は鼻かと」
「申せ」
龍之介は、朝から拾ってきた話をまとめて告げた。
寺社筋には、話を通せば早いという顔を作っていること。
商人筋には、薄い恩を置いて“羽柴へこぼせば損はない”という空気を作っていること。
浪人筋には噂を拾わせていること。
そして、本能寺の朝そのものではなく、その“整い方の早さ”を嗅ぎ続けていること。
信長は黙って聞いていた。
全部を話し終えた時、信長は一言だけ言った。
「うむ」
短い。
だが、その“うむ”は軽くない。
「おぬし、どうする」
来ると思った。
「塞ぎすぎぬ方がよろしいかと」
「ほう」
「羽柴殿は、全部を隠そうとすれば余計に深う潜る。ならば、拾わせる形をこちらで選ぶべきかと」
信長は、その答えに少しだけ目を細めた。
「ようやくそこへ来たか」
やはりその言い方だ。
この男は、人が一段進むたびにそう言う。
「隠しすぎるな」
信長が言う。
「はい」
「羽柴には、あえて見せて使う手もある」
それは、第44話の入口になる言葉だったが、いまこの時点でも十分に重い。
「何を見せるか、にございますな」
「そうだ」
信長は文をひとつ机へ置いた。
「羽柴が欲しがっておるのは、全部の真ではない。まずは“どこまで嗅げるか”だ」
「……」
「ならば、嗅がせる範囲をこちらで定めればよい」
理屈としてはその通りだ。
だが実行はかなり難しい。
秀吉は、あえて見せたものと、本当に漏れたものの違いをも嗅ぎ分けようとするだろう。
だから雑にはできない。
“わざと見せた”と見抜かれぬ程度に、自然な形を作らねばならない。
「龍之介」
「は」
「おぬし、全部を塞いで守る方が性に合うか」
信長が不意に問う。
その問いに、龍之介は一瞬だけ考えた。
「……以前なら、そうしていたやもしれませぬ」
「今は」
「いまは、それでは持たぬと思い始めております」
信長は笑った。
「よい」
そう言われると、少しだけ不本意な気もする。
この男にとって“よい”は、大抵こちらが面倒な方へ一歩進んだ時に落ちてくるからだ。
「羽柴をただ防ぐな」
信長は言う。
「使えるなら使う」
「はい」
「使うためには、何も見せぬより、少し見せた方がよいこともある」
まったくその通りだ。
そして、それをこちらへやらせるのだから、この男はやはり怪物じみている。
「承知いたしました」
「では、おぬしの器を作れ」
器。
その言葉が、いまはとても重い。
◇
部屋を出たあと、影鷹が待っていた。
「いかがでした」
「やはりだ」
「何が」
「上様も、羽柴殿を泳がせる気だ」
影鷹は小さく頷いた。
「でしょうな」
「全部を塞ぐな、と仰せだった」
「はい」
「拾わせる形をこちらで作れ、と」
影鷹は少しだけ目を細めた。
「いよいよ、本格的に“見せる”方へ入られますな」
「嬉しくない進歩だ」
「ですが必要でございましょう」
それは否定できない。
秀吉を前にして、ただ守るだけでは足りない。
秀吉の鼻を逆に利用し、こちらがあえて置いた器の中で嗅がせる。
そこまでやらねば、この先は持たぬのだろう。
「影鷹」
「は」
「都にある耳は厄介だ」
「ええ」
「だが、それ以上に厄介なのは、羽柴殿が“耳があるように見せぬ”ことだな」
影鷹は静かに笑った。
「それが鼻、なのでしょう」
たしかにそうだ。
龍之介は安土の廊下の先を見た。
静かな城だ。
だが、その静けさの下では、都の耳も、羽柴の鼻も、まだ休んでいない。
こちらもまた、休んではいられぬ。




