第41話 三つの流れを、一つにせず持たせよ
信長に命じられた役目は、言葉にすれば簡単だった。
都と安土と羽柴。
その三つの流れを見て、誰に何をどこまで知らせるべきか整理せよ。
簡単に言うから困るのである。
都と安土のあいだに一本、筋を引け――というだけでも十分に厄介だった。
そこへ今度は羽柴秀吉という、また別の流れがはっきりと加わった。
しかもその流れは、ただの“人”ではない。
秀吉の人脈、勘、場を取るやり方、利で人を引き寄せる癖、その全部がまとまって一つの流れになっている。
都は、顔と曖昧さで動く。
安土は、決裁と速さで動く。
羽柴は、人と利を動かして場を取ることで動く。
それらは同じ政の中にあるくせに、まるで違う生き物だった。
「……やってくれる」
机の前で、龍之介は思わず独り言を漏らした。
信長はいつもそうだ。
その時点で一番面倒なところへ、人を平然と投げ込む。
だが同時に、その者がそこで何を見て、何に躓き、どこを越えるかも見ている。
楽な役は与えぬ。
役を与えるというより、伸びるか折れるかの境目へ立たせるのだ。
そう考えると腹も立つが、腹を立てていても始まらない。
龍之介は紙を広げた。
最近はもう、紙と墨へ向かう時間がずいぶん増えた。
現代でいえば、会議のあとにホワイトボードの前へ立って、誰が何を持ち、どこで詰まり、何を先に通すべきかを書き出すようなものだ。
時代が違っても、人の流れを見取り図へ落とす作業の本質はそう変わらない。
まず大きく三つの円を書く。
都。
安土。
羽柴。
その下へ、さらに細く書き足す。
都。
寺社。公家。町人。噂。面目。曖昧な返事。
安土。
上意。奉行。近習。決裁。兵の流れ。速さ。
羽柴。
人脈。利。働き。場の掌握。相手ごとの顔。
紙の上ではきれいだ。
だが現実はきれいではない。
都の中にも安土の理は流れ込み、羽柴の手は都にも安土にも伸びる。
線は一本ずつではなく、いくつも重なり、交差し、時に人ひとりの肩へ寄ってしまう。
そこで龍之介は、もう一つ別の印をつけた。
見えすぎる場所。
見せすぎぬ場所。
誰か一人へ寄りすぎている場所。
信長が言ったのは、つまりそういうことなのだろう。
事実をただ流すのではない。
どこへ何が見えすぎているか、逆にどこが見えなさすぎるか、その偏りまで含めて整理せよということだ。
「面倒にございますな」
声がした。
影鷹だった。
いつの間にか障子の脇にいる。
最近はもう驚くのにも少し飽きたが、それでも毎度のように自然すぎて腹が立つ。
「おぬし、本当に紙と向き合っておる時だけは出てくるな」
「三上殿がいちばん弱っておられる時でございますので」
「ありがたいような、ありがたくないような」
「どちらでも」
影鷹は机の上を見た。
「三つ、にございますか」
「うむ」
「都、安土、羽柴」
「その通りだ」
龍之介は紙の上へ指を置きながら言った。
「都と安土の違いだけでも十分に厄介だった。だが秀吉殿が、そこへ別の流し方を持ち込む」
「はい」
「しかも、ただの一武将としてではない。人を寄せ、場を取り、利を置いて動かす流れとしてだ」
影鷹は静かに頷く。
「秀吉殿は、安土の流れへ従うだけではございませぬからな」
「うむ。むしろ、安土の流れへ自分のやり方を混ぜる」
「それが強みであり」
「危うさでもある」
そこで龍之介は、改めて紙へ細い線を足した。
都から安土。
安土から都。
羽柴から都。
羽柴から安土。
安土から羽柴。
見えてくる。
都と安土は、論理が違う。
羽柴は、その違う二つへどちらにも食い込める。
しかも、食い込むだけではなく、自分にとって得になる角度へ少しだけ場を寄せる。
それができるから秀吉は強い。
だがそれができるからこそ、何も考えずに流れへ乗せれば、一人だけ別の太い管になる危うさもある。
「一つにするのではなく、持たせる」
龍之介が小さく呟くと、影鷹が目を細めた。
「章題らしいお言葉で」
「茶化すな」
「いえ。まことに、その通りかと」
影鷹は淡々と言った。
「一つにしようとすれば、どれかが無理をいたします。都を安土のように動かせば都が壊れる。羽柴殿を安土の奉行筋のように縛れば、羽柴殿の強みが死ぬ」
「そうだ」
「ですが、放っておけば三つとも勝手に伸びる」
「それもまた困る」
「ゆえに、持たせる」
そうなのだ。
ここで目指すべきは統一ではない。
同じ顔にすることでもない。
違う流れが違うまま、致命的にはぶつからぬよう持たせること。
それがたぶん、いまの龍之介の役目なのだろう。
◇
その日のうちに、龍之介は実際に人の流れを見て回り始めた。
奉行筋の一人に会う。
都からの文の返しがどう作られるかを見る。
安土側の文はやはり早い。
要点が先に来る。
誰が決め、誰が動くかが見える。
それ自体はよい。
だが、そのまま都へ出せば角が立つ。
次に、都側の口入れを知る者に当たる。
こちらは逆だ。
言い切らぬ。
相手に察させる余地を残す。
逃げ道を先に作っておく。
それ自体もまた必要だ。
だが、そのまま安土へ持ってくれば、信長なら「で、何だ」となる。
さらに秀吉方の動きを影鷹経由で拾う。
誰に笑い、誰に軽く恩を置き、どこで“自分に言えば得がある”という空気を作っているか。
秀吉は文だけではなく、人の心の通り道へ手を入れる。
紙の上にあった三つの円が、少しずつ実際の人間の顔を持ち始める。
都は、曖昧であることによって折れぬようにしている。
安土は、早く決めることで崩れぬようにしている。
羽柴は、利を置いて相手を先に動かすことで場を取っている。
それぞれに理がある。
どれが絶対に正しい、という話ではない。
だからこそ厄介なのだ。
夕刻近く、龍之介は庭に面した廊下で足を止めた。
木々が静かに揺れている。
安土の中にあって、こういう場所だけはまだ少し思考が整いやすい。
「お疲れのようだな」
丹羽長秀だった。
「ええ、少々」
「三つの流れ、か」
やはりこの男は、見るべきところをすぐに見る。
「どこまでご存じで」
「上様が何を振られたかくらいは」
「この城にございますので、ですか」
丹羽はわずかに笑った。
「それもある」
そして、少しだけ庭を見た。
「どうだ」
「同じ織田の政の中とは思えませぬ」
龍之介は率直に言った。
「都は都で、独自に持ちたい。安土は安土で、早く決めたい。羽柴殿はそのあいだに利を置いて場を取りたい」
「そうだろうな」
「しかも、それぞれが自分の理を持っておる」
「うむ」
「だから一つにしようとすれば、どれかが壊れる」
丹羽は黙って頷いた。
「では、どうする」
「持たせるしかありますまい」
丹羽の目が少しだけ細くなる。
「ようやく腹へ落ちたか」
「腹立たしい言い方ですな」
「事実だ」
まったくこの城の男たちは、核心をさらりと言ってくる。
「誰に何が見えすぎておるか、から洗います」
龍之介が言うと、丹羽は頷いた。
「よい」
「まず、見えすぎている者は抱え込む。見せすぎぬ者は、逆に場を取る」
「ほう」
「ならばその偏り自体を見ねば、情報の流れも整いませぬ」
丹羽はそれを聞いて、短く言った。
「使える」
それだけだ。
だがこの男にそう言われると、妙に重い。
「秀吉殿がどう動くかも」
龍之介は続けた。
「もはや都や安土と別のものとして見るべきではありませぬな。ひとつの流れです」
「その通りだ」
丹羽は静かに言う。
「羽柴殿は、人であると同時に“流し方”でもある」
まさにそうだった。
人が城へ入ってくるだけではない。
その人のやり方、場の取り方、利の置き方、その全部が流れとして混ざる。
だからこそ、秀吉をただ一人の武将として扱っては見誤る。
「三上殿」
丹羽が続ける。
「見えすぎるところから洗うのはよい」
「はい」
「だが、それと同時に、“誰が何を見たがっているか”も見よ」
「……」
「見えすぎるかどうかは、相手が何を欲するかでも変わる」
その一言は、かなり大きかった。
たしかにそうだ。
光秀は抱え込みやすいから見えすぎる。
秀吉は嗅ぎたいものにだけ鼻を伸ばす。
勝家は真正面から筋が見えぬと苛立つ。
丹羽は偏りそのものを静かに見る。
同じ事実でも、誰が何を欲するかで“見えすぎる”の意味が変わるのだ。
「……ありがとうございます」
「礼には及ばぬ」
丹羽はそう言って去った。
◇
夜、龍之介は改めて机に向かっていた。
紙の上には、朝よりずっと多くの線が引かれている。
都。
安土。
羽柴。
それぞれから伸びる細い線。
その下に、人の名。
光秀。
勝家。
丹羽。
蘭丸。
寺社。
公家。
町人。
秀吉側の耳と鼻。
「ひどいな、これは」
思わずそう呟く。
人の流れを整理しているつもりが、紙の上はむしろ混沌としてきた。
だが、それで正しいのだろう。
現実が複雑なのだから、最初の見取り図が簡単すぎたのだ。
「お疲れにございます」
影鷹が現れた。
「おぬしも今日はよく来るな」
「三上殿が今日はとくによく詰まっておられますので」
「詰まっておるのは流れの方だ」
「それを見ておられるのでしょう」
否定できない。
「影鷹」
「は」
「最初に洗うべきは、何だと思う」
影鷹は少し考えた。
「誰に何が見えすぎているか、では」
「うむ」
「そして、誰が何を見たがっているか」
やはりそこへ行く。
丹羽と同じことを言う。
それだけ大事ということか。
「秀吉殿は、本能寺の朝の匂いを欲しておられる」
「そうだ」
「光秀殿は、ご自分の周囲で何がどう整理されているかに敏感でございましょう」
「うむ」
「上様は、全部をご存じの上で、どこで誰が動くかを見ておられる」
「……」
「ならば、まずは“見えすぎる”より、“見たがりすぎる”ところから洗うべきかもしれませぬ」
龍之介は、その言葉を聞いてゆっくり頷いた。
たしかにそうだ。
事実そのものより、“それを誰がどの温度で欲しているか”の方が、流れを歪ませることがある。
「……なるほどな」
紙の一角へ、新しく書き足す。
見たがりすぎる場所。
そこが次の入口になるのかもしれない。
都と安土と羽柴。
一つにせず持たせる。
そのためにはまず、誰が何を欲しすぎているかを見ねばならない。
「ようやく、章の入口に立った顔にございます」
影鷹が言う。
「またそういうことを言う」
「ですが事実にございます」
龍之介は小さく息を吐いた。
たしかに、ようやく入口なのだろう。
本能寺を止めたことの余波は、まだ終わらない。
むしろ、それぞれ違うやり方で信長を支える者たちが動き始めてからの方が、ずっと複雑で、ずっと面倒なのだ。
だが、その面倒さの中へもう足を踏み入れている。
ならば、行くしかあるまい。




