第40話 秀吉は、敵か味方か
人を敵か味方かで割り切れれば、世の中はもう少し楽なのだろう。
敵なら備える。
味方なら信じる。
その二つで済むなら、悩みの半分は減る。
だが、戦国のしかも信長の周りにいる人間たちは、どうにもそう綺麗には収まらない。
味方でありながら怖い者がいる。
敵のように見えて、実際には切れぬ者がいる。
忠義と野心が綺麗に分かれず、どちらも本物のまま同居している者もいる。
羽柴秀吉は、その最たるものかもしれなかった。
第39話で、勝家と丹羽からそれぞれ違う形で秀吉と龍之介の接触を見られていることを知り、龍之介はようやく自分が“秀吉と話しているだけ”では済まない位置にいると腹へ落とした。
あとはもう、信長が聞いてくる番だろうと思っていた。
案の定、その日の夕刻前、蘭丸が呼びに来た。
「三上殿」
「何だ」
「上様がお呼びにございます」
「……やはりな」
思わず漏らすと、蘭丸は少しだけ目を細めた。
「お察しにございますか」
「ここまで来ればな」
「では、話は早い」
蘭丸はそれ以上を言わなかった。
だがその“話は早い”の中に、上様もまたもう答えを聞く気でおられる、という響きは十分にあった。
◇
信長のいた部屋は、評定ほど堅くもなく、私語の場ほど砕けてもいなかった。
ちょうど中ほどの空気。
だがこの男がそういう部屋を使う時は、たいてい“重い話を軽くは見せぬが、重すぎても固めたくない”時だ。
つまり、本題は大きい。
部屋には信長と蘭丸だけだった。
勝家も、丹羽も、秀吉もいない。
ここで聞くのは、まず龍之介からの生の見立てだけでよいと決めたのだろう。
「来たか」
「は」
「座れ」
短い。
だが、いつもより少しだけ間がない。
信長はもう問いを決めている。
龍之介が座ると、少しの沈黙のあとで、やはりその問いが来た。
「龍之介」
「は」
「羽柴をどう見る」
ど真ん中だった。
あれこれ飾る余地もない。
敵か味方か。
怖いか、使えるか。
どこまで本音を混ぜて答えるか。
それを信長は見ている。
龍之介は、すぐには答えなかった。
ここで軽く“厄介にございます”で逃げても、信長は満足せぬだろう。
逆に“忠臣にございます”などと言えば、それはそれで浅すぎる。
ここはもう、自分なりに見えた輪郭をそのまま言うしかない。
「……敵ではありませぬ」
まず、そう言った。
信長の目が、ほんの僅かに細くなる。
「ほう」
「少なくとも、いまこの時点で、羽柴殿は上様の天下を壊そうとはしておられぬかと」
「続けよ」
「むしろ、進める側にございます」
龍之介はゆっくりと言葉を置いていく。
「人を寄せる。場を取る。都も武家も町も、それぞれの欲と損得を見て、今どこを押さえるべきかをよう知っておられる」
「うむ」
「上様の未来図を進める力としては、ひどく強うございます」
信長はそこで小さく鼻を鳴らした。
「惜しいか」
その言い方に、龍之介は少しだけ苦笑する。
「惜しい、にございますな」
「そうか」
「ですが」
龍之介は続けた。
「ただの味方でもございませぬ」
部屋の空気が、そこで少しだけ締まる。
「なぜだ」
「羽柴殿は、上様の天下を進めることと、ご自身の先を取ることを、別々には見ておられぬ気がいたします」
信長は何も言わない。
それは続きを促しているのだと分かる。
「忠でございます」
龍之介は言った。
「働きも本物。上様への敬いも、偽りだけではありますまい」
「……」
「ですが、その忠と働きは、そのまま羽柴殿ご自身の道にもなっている」
それは、これまでの秀吉との会話から見えた芯だった。
秀吉は、ただ従っているだけではない。
信長の天下を進めながら、同時にその中で自分がどこへ立つかも必ず見ている。
どちらが表でどちらが裏、という話ではない。
両方とも本物なのだ。
「つまり」
信長が低く言う。
「羽柴は、儂の天下を支える。だが、その支え方はいつか己の天下にも繋がる、と」
「はい」
「面白い」
またそれだ。
だが今度の“面白い”は、信長がすでにその可能性を知っている顔だった。
「上様」
「何だ」
「ご存じでございましょう」
ついそう言うと、信長はわずかに笑った。
「知っておるとも」
あっさり認める。
「では」
「だから使う」
信長の答えは速かった。
やはりこの男はそういう男なのだ。
危ういから排す、ではない。
危うくても惜しければ使う。
しかも、危うさごと使う。
「龍之介」
「は」
「敵か味方かで割り切るには、羽柴は惜しい」
その言葉は、ある意味で第40話の芯そのものだった。
敵でもない。
ただの味方でもない。
惜しい。
だから使う。
それが信長の人の見方なのだろう。
「ですが」
龍之介は慎重に言う。
「その惜しさは、いずれ危うさにもなりましょう」
「当然だ」
信長は即答する。
「惜しいものほど、扱いを誤ればこちらを喰う」
あまりに率直で、龍之介は逆に息を呑んだ。
「それでも」
「それでも使わねば、天下は狭くなる」
信長の目は鋭い。
「儂が欲しいのは、ただ従順な者ではない。働く者だ。取る者だ。進める者だ」
「……」
「羽柴はそれを持つ」
そして少しだけ口元を上げる。
「おぬしは、おぬしで別のものを持つがな」
その一言に、龍之介は少しだけ目を伏せた。
秀吉は進める。
自分は持たせる。
勝家は正面から支える。
丹羽は静かに整える。
光秀は都と理を繋ぐ。
信長は、そうした違う強さを違うまま使う。
まったく、怪物じみた話だと思う。
「上様」
「何だ」
「では、私は羽柴殿に対し、どう立つべきでしょう」
信長は、そこで少しだけ考えるような顔をした。
だが考えているというより、どこまで言うかを量っているようでもある。
「まず、味方ぶるな」
意外に鋭い答えだった。
「……」
「羽柴は、人の気配をごまかすのがうまい。こちらが“味方でござる”と顔を作れば、その顔の作り方ごと見抜こう」
「はい」
「逆に、露骨な敵意も見せるな」
「それもまた、羽柴殿の利になる」
「その通りよ」
信長は言う。
「おぬしは、おぬしのままでおれ」
「私の、まま」
「綺麗に組みたがるのであろう」
その言い方に、龍之介は少しだけ苦笑した。
秀吉にも同じことを言われた。
しかも、かなり図星だった。
「はい」
「ならば、そのままでおれ。羽柴の前で、羽柴になろうとするな」
それは、かなり重い助言だった。
相手に合わせすぎれば、自分の足場を失う。
秀吉のような男の前で、自分まで秀吉のように立ち回ろうとすれば、たぶん勝てぬ。
ならば、自分は自分の見方のままで、どこまで持つかを見るしかない。
「承知いたしました」
「よい」
信長は頷く。
「で、次だ」
やはり来る。
この男が一つの答えを聞いて終わるはずがない。
「羽柴と都、安土、その三つの流れを見よ」
「三つ、にございますか」
「そうだ」
信長の声は静かだが、重い。
「都には都の顔がある。安土には安土の顔がある。羽柴には羽柴の流し方がある」
「……」
「それぞれ違う」
「はい」
「ならば、おぬしはそれを見て、誰に何をどこまで知らせるべきか、整理せよ」
龍之介は、思わず一瞬だけ息を止めた。
重い。
だが、ここまで来れば自然な役目でもある。
都と安土のあいだに筋を引く。
そこへさらに羽柴秀吉という“人を動かして場を取る流れ”が加わる。
つまり次は、情報と意図の整理だ。
誰にどこまで見せるか。
どこで器を揃え、どこであえて曖昧さを残すか。
それを龍之介にやれと言う。
「上様」
「何だ」
「それは、かなり」
「面倒か」
「はい」
信長は笑った。
「だろうな」
「よくも、そう軽く」
「軽くは言うておらぬ。面倒だからこそ、おぬしに振る」
そこに、信長の本音があった。
この男は、人へ役目を与える時、楽だからではなく、面倒で、しかもその者の癖が一番出るところを振る。
だから人は削れる。
だが、だからこそ一気に鍛えられるのも事実なのだろう。
「龍之介」
「は」
「信長の未来を支えるとは、ただ信長一人を見ておればよい話ではない」
その声は、妙に静かだった。
「羽柴も、日向も、柴田も、丹羽も、それぞれ違う未来を少しずつ見ておる」
「……」
「その違いを抱えたまま、流れを持たせる。それが要る」
龍之介は、その言葉を深く受け止めた。
本能寺を止めた。
その時は、信長の命だけを見ていた。
だが今はもう違う。
信長を生かした先には、秀吉も、光秀も、勝家も、丹羽も、それぞれの未来が絡み合っている。
その中で、ただ信長だけへ忠義ぶっていても、流れは持たぬ。
それぞれが何を見ているか。
どこでぶつかり、どこで支え合うか。
それを見て、壊れぬようにする。
それが、いま自分に振られ始めている役なのだ。
「……承知いたしました」
ようやく、そう答えた。
信長は満足そうに頷く。
「よい」
それで話は終わった。
だが実際には、ここからまた始まるのだ。
◇
部屋を出ると、影鷹がいつものようにいた。
「いかがでした」
「予想通りだ」
「秀吉殿をどう見るか、と」
「うむ」
「で」
「敵ではない。だが、ただの味方でもない」
影鷹は小さく頷いた。
「左様でございましょうな」
「そして上様も、それをご存じだった」
「でしょうとも」
龍之介は少しだけ苦笑した。
「この城の人間は、皆、知っておることをわざわざ聞いてくる」
「答え方を見るのでしょう」
「それもその通りだ」
そして影鷹へ、信長から与えられた次の役目を伝える。
都、安土、羽柴。
三つの流れを見ながら、誰へ何をどこまで知らせるか整理せよ、と。
影鷹は、珍しく少しだけ感心したような顔をした。
「重うございますな」
「ようやくそう言ったな」
「本日はそのくらいの重さにございます」
たしかに、これはかなり重い。
秀吉との会話は厄介だ。
だがそれ以上に厄介なのは、その秀吉という流れそのものを、都と安土のあいだへどう置くかを見ることだ。
「影鷹」
「は」
「本能寺を止めたことより難しいのは、この先だと何度も思ってきた」
「ええ」
「いまや、かなり本気でそう思う」
影鷹は静かに頷いた。
「それで正しいかと」
龍之介は廊下の向こうを見た。
秀吉は敵か味方か。
その問いに対する答えは、結局どちらでもない。
必要で、危うい。
進める力であり、いつか喰う力にもなりうる。
だから切れず、だから恐ろしい。
そして、その秀吉を含めた全体の流れを、今度は自分が持たせねばならぬ。
「……まったく」
小さく息を吐く。
「面倒な未来だ」
だが、その面倒さの中へ足を踏み入れたのは自分だ。
本能寺で信長を止めた時点で、もうそこから外に立つことはできない。
ならば、行くしかあるまい。




