第39話 丹羽と勝家、秀吉を見る目
羽柴秀吉と何度か言葉を交わしたあと、龍之介はようやく一つ分かったことがあった。
あの男と話す時に疲れるのは、会話そのものが深いからだけではない。
秀吉とのやり取りは、二人きりで閉じていないのだ。
こちらが何をどう返したか。
秀吉が何を拾い、どこで引いたか。
その空気は必ず、信長の耳へも、丹羽の目へも、勝家の勘へも届いている。
つまり、自分はただ秀吉と向かい合っているのではない。
“秀吉と向かい合う龍之介” という姿ごと、安土の中で見られているのだ。
それに気づくと、疲れは一段深くなる。
その日の朝、龍之介が一人で机へ向かい、本能寺の朝の器と秀吉の問い方とを頭の中で反芻していると、早い足音が近づいてきた。
隠さない。
重い。
そしてまっすぐだ。
勝家だった。
「おるか」
「おります」
障子が開く。
勝家はいつものように、前置きなく部屋へ入ってきた。
顔もいつも通り厳つい。
だが、今朝はその厳つさに、少し別種の不機嫌さが混じっているようにも見える。
「羽柴と飲んだな」
いきなりそこから来る。
「……よくご存じで」
「この城で知られぬと思うておるのか」
もっともだった。
信長が面白がって龍之介と秀吉をぶつけている以上、その先で二人がまた言葉を交わしたことくらい、遅かれ早かれ広まる。
隠しきれる話でもない。
「いかがでした」
龍之介が問うと、勝家は腕を組んだ。
「何がだ」
「その“羽柴と飲んだな”というお顔が」
勝家は鼻を鳴らした。
「気に食わぬ」
「何が」
「おぬしが、ではない」
少し意外だった。
「では」
「羽柴だ。あれは人をよう見すぎる」
勝家らしい物言いだった。
だがその言葉には、本物の嫌悪と警戒がある。
「三上」
「はい」
「おぬし、喰われてはおらぬな」
それは不器用な聞き方だった。
だが、勝家なりの気遣いでもあるのだろう。
“あれに飲まれて足場を失っていないか”と見ている。
「まだ何とか」
「まだ、か」
「はい」
「それはよい」
勝家は言った。
「今はそれでよい」
そこで座るでもなく、立ったまま続ける。
「羽柴は、人に喋らせるのがうまい。しかも喋らせたことを、こちらが喋ったとすぐ気づかせぬ」
「ええ」
「儂のように正面から嫌うなら、まだよい。だが、あれは違う。相手に“よう分かってくれる”と思わせる」
その言い方には、いささか苦い実感があった。
勝家自身、そういう場面を何度も見てきたのだろう。
「柴田殿」
龍之介は慎重に尋ねた。
「羽柴殿を、そこまで嫌うのはなぜです」
勝家はしばらく黙っていた。
そして、低く答えた。
「儂のような武の者は、嫌なら嫌と顔に出る」
「はい」
「羽柴は、それをせぬ」
「……」
「だが、せぬまま、場を取る。人を寄せる。そうして気づけば、理の上でも空気の上でも、自分が少し遅れておる」
勝家は眉間に皺を寄せた。
「それが気に食わぬ」
正直だった。
そして、たぶんそれが勝家の本音でもある。
「だが」
勝家が続ける。
「あれが使えることも、よう分かっておる」
龍之介は小さく頷いた。
「ええ」
「そこがまた余計に腹立たしい」
まったく、勝家という男はこういうところが実に分かりやすい。
「三上」
「はい」
「おぬしと羽柴のやり取り、上様は面白がっておる」
「でしょうな」
「だが、面白がっておられるだけではない」
「……」
「見ておるのだ」
勝家の声が少し低くなる。
「おぬしが羽柴の前でどう立つか。羽柴が、おぬしの何に食いつくか。そして、あれを前にしておぬしが崩れるかどうか」
その言葉に、龍之介は少しだけ背筋が伸びた。
やはりそうか。
自分と秀吉のやり取りは、ただの会話ではない。
信長にとっては、人の組み合わせがどう動くかを見る場でもある。
「つまり」
龍之介が言う。
「私は、秀吉殿の前に置かれた観測装置のようなものですか」
勝家は少しだけ目を細めた。
「観測装置という言い方は気に食わぬが」
「では」
「試金石だな」
その方が、たしかにこの時代には似合う。
金かどうかを試す石。
秀吉という男が、自分の前で何を見せるかを測るために、信長は龍之介を置いたのだろう。
「気に食わぬか」
勝家が問う。
「気に食わぬと申せば、降ろしてくださいますか」
「上様が聞けば笑うだけだ」
「でしょうな」
「ならば腹を括れ」
結局そこへ戻る。
だが勝家に言われると、妙に腹へ落ちる。
「承知しております」
「ならばよい」
勝家は、それだけ言うと踵を返した。
だが戸口のところで、一度だけ振り向く。
「それとな」
「はい」
「羽柴は、人を値踏みする。おぬしもまた、あれを値踏みしておけ」
「……」
「怖い怖いと言うばかりでは、喰われるだけだ」
その一言は、かなり本質だった。
勝家は秀吉のようなやり方を嫌っている。
だが嫌っているだけではなく、その怖さに呑まれぬためにはこちらも見返せ、と言う。
「肝に銘じます」
勝家は小さく鼻を鳴らし、今度こそ去っていった。
◇
昼過ぎ、今度は丹羽長秀と会った。
こちらは勝家と違い、向こうからどんと踏み込んでは来ない。
廊下の端、庭の見えるところで、まるで偶然のように立ち止まる。
だが、この城で丹羽と“たまたま都合よく出会う”ことが、そこまで純粋な偶然とも思えない。
「お疲れのようだな」
丹羽が言う。
「羽柴殿のせいにございます」
「でしょうな」
あっさり肯定するあたりが、この男らしい。
「少し、お時間を」
龍之介が言うと、丹羽は頷いた。
「ここでよいか」
「十分にございます」
庭には風があり、木々が静かに揺れていた。
安土の中でも、こういう場所だけは少し気が落ち着く。
もっとも、丹羽と話す時に気を緩めてよいとは到底思わぬが。
「羽柴殿と、だいぶ話されたそうだな」
丹羽が言う。
「人づてに、でございますか」
「この城にございますので」
やはりそう来る。
「いかがご覧になりました」
龍之介が問うと、丹羽はしばし庭を見ていた。
「噛み合うやもしれぬな」
意外な答えだった。
「……秀吉殿と私が、ですか」
「うむ」
「どこが」
「気は合わぬだろう」
丹羽は静かに続ける。
「やり方も違う。見る芯も違う」
「はい」
「だが、噛み合う余地はある」
龍之介は少し眉を寄せた。
「それは、どういう」
「羽柴殿は“取る”方を見る。おぬしは“持たせる”方を見る」
「ええ」
「普通なら、そこで終わる。考えが違うから合わぬ、で済む」
丹羽の声はいつも通り穏やかだ。
だが、その穏やかさの中で、言葉は鋭い。
「だが、おぬしらは互いの違いを、頭では理解しておる」
「……」
「羽柴殿は、おぬしの見方を“綺麗に組みたがる”と見抜いた。おぬしも羽柴殿のやり方を、“濁してでも取る”と見ておる」
「はい」
「つまり、嫌いでも見えている」
龍之介は、その言葉に少しだけ黙った。
なるほど。
たしかにそうかもしれない。
ただ気が合わぬだけなら、もっと雑に切ってよい。
だが自分と秀吉は、互いの理屈をある程度わかっている。
分かったうえで、なお受け入れきれないのだ。
「それは、よいことにございますか」
龍之介が問うと、丹羽は少しだけ首を傾げた。
「上様のためには、使える」
やはりそこへ行く。
「……」
「羽柴殿だけでは、場は取れても歪みが残るやもしれぬ。おぬしだけでは、持たせようとするあまり今を逃すやもしれぬ」
丹羽はまっすぐこちらを見る。
「だが、おぬしらが互いを意識し、互いの違いを知ったうえで動くなら、片方だけでは見えぬものも見える」
それは、丹羽長秀らしい見方だった。
勝家は“喰われるな”と見る。
丹羽は“噛み合う可能性がある”と見る。
同じ現象を見ているのに、立つ場所でこうも違う。
「怖いですな」
龍之介が言うと、丹羽はわずかに笑った。
「何がだ」
「私がただの異物ではなく、秀吉殿の前へ置かれた試金石か何かのように見えてきたことが」
丹羽は、そこで初めて少しだけはっきり笑った。
「その通りだ」
あっさり認める。
「やはり」
「上様が、意味なくおぬしと羽柴殿を近づけると思うか」
「思いませぬ」
「であろう」
丹羽は続ける。
「おぬしを見て、羽柴殿が何に食いつくか。羽柴殿を前に、おぬしがどこを守ろうとするか。それは、上様にとっても大きい」
「……」
「今後、誰をどこへどう使うか。そのための材料にもなる」
この城はつくづく、人を材料にする。
使う。
組み合わせる。
試す。
信長がそういう男だと分かっていても、いざ言葉にされると重い。
「丹羽殿」
「何だ」
「それでも、秀吉殿はただの敵ではありませぬな」
「そうだ」
丹羽は即答した。
「敵なら楽だ」
「ええ」
「だが、羽柴殿は上様にとって、あまりに惜しい」
その言葉は、信長自身が秀吉について言いそうな物言いでもあった。
「働く。取る。人を寄せる。場を回す。しかも、自分の足で泥にも入れる」
「……」
「そういう男を、嫌いだ危ういだだけで切るわけにはいかぬ」
たしかにその通りだった。
秀吉は必要だ。
必要で、危うい。
だからこそ厄介なのだ。
「三上殿」
丹羽が静かに言う。
「おぬしは今、少しばかり重いところへ足を入れている」
「はい」
「信長公の異物であるだけなら、まだ話は単純だ」
「秀吉殿の前へ置かれた時点で、単純ではなくなった」
「その通りだ」
丹羽は頷いた。
「おぬしは今や、“信長がどういう目で秀吉を見るか”を測るための物差しの一つにもなりつつある」
そこまで来たか、と龍之介は思う。
最初はただの異物。
本能寺を止めた妙な男。
それがいまは、秀吉の前へ置かれて、その反応ごと見られている。
もはや完全に、ただの巻き込まれではない。
役を負わされ始めている。
「……面倒だ」
思わず漏れた本音に、丹羽は少しだけ目を細めた。
「今さらだな」
今日は皆、その言葉を言う。
たしかに今さらなのだが、今さらで済むような軽さでもない。
「では」
龍之介が問う。
「私は、どうあるべきでしょう」
丹羽はすぐには答えなかった。
庭の向こうで、風が木を揺らす。
やがて、静かに言う。
「羽柴殿を、ただ怖がるな」
「……」
「怖いのは当然だ。だが、怖いだけでは見誤る」
それは勝家も似たことを言っていた。
やはりそこが肝なのだろう。
「羽柴殿の“使える”ところも、“危うい”ところも、両方見よ」
「はい」
「そして、おぬしがそのどちらに食われるかも見よ」
その言葉は、かなり現実的で、かなり冷たかった。
だが、だからこそ役に立つ。
「肝に銘じます」
丹羽は小さく頷いた。
「それでよい」
◇
丹羽と別れたあと、龍之介はしばらく廊下を歩きながら考えていた。
勝家は、秀吉を嫌う。
だが、その嫌い方の中に“喰われるな”という不器用な警告がある。
丹羽は、秀吉を危ういと思っている。
だが同時に、“噛み合う余地”と“使い道”も見る。
どちらも正しい。
どちらも違う。
そして、その違う目の真ん中へ自分が立たされている。
秀吉の前でどう返すか。
何を守るか。
どこまで踏み込むか。
それが、信長の目にも、家中の目にも、秀吉自身の目にも晒されている。
「……とんでもない役目だな」
小さく呟くと、角を曲がった先で影鷹がいた。
「ようやく、そこまで腹へ落ちましたか」
「おぬし、今日も良いところにいるな」
「便利でしょう」
「便利すぎて腹立たしい」
影鷹は少しだけ笑った。
「丹羽殿と柴田殿、いかがでした」
「二人とも、秀吉殿を見ている」
「違う目で」
「そうだ」
龍之介は立ち止まり、静かに言った。
「勝家殿は“喰われるな”と見る。丹羽殿は“噛み合う余地がある”と見る」
「どちらも正しいのでしょうな」
「だから厄介だ」
影鷹は頷いた。
「三上殿が、個人の好き嫌いの話では済まぬところまで来たということにございます」
「うむ」
「信長公にとっても、秀吉殿にとっても、もう三上殿はただの珍しい都人ではありませぬ」
「……」
「どちらがどこへ寄るかを見るための物差し。あるいは石。そういうものになり始めております」
試金石。
勝家も、丹羽も、言葉は違えど結局そこへ行き着く。
そして、信長がそれを面白がりつつも本気で見ていることも、もう疑いようがなかった。
「影鷹」
「は」
「次は、信長公が聞いてくるな」
「何を、にございます」
「秀吉をどう見たかを」
影鷹は、珍しく少しだけ目を細めた。
「それは」
「避けられぬ」
「でしょうな」
信長は必ず聞く。
秀吉との接触を経て、自分が何を感じ、何を見たか。
それを確かめたうえで、また次の手を打つだろう。
「……本当に、終わらぬな」
龍之介が小さく漏らすと、影鷹は静かに答えた。
「本能寺を止めた時点で、終わるはずのものが終わらずに動いておりますので」
まったく、その通りだった。




