第38話 本能寺を、どこまで知っている
人に刃を向けられる怖さは、まだ分かりやすい。
相手の殺気が見える。
足の運びが変わる。
間が詰まる。
こちらも身構え、受けるか外すか、斬るか退くかを決められる。
だが、秀吉のような男の怖さはそういうものではない。
笑っている。
酒も出る。
言葉もやわらかい。
怒鳴りもしない。
なのに、気づけばこちらの守りたいところのすぐ手前まで来ている。
第37話の夜、秀吉はついに本能寺の朝へ一歩だけ手をかけた。
そして一歩だけで止めた。
そこがかえって厄介だった。
全部を取りに来る相手なら、こちらも全部を守る構えができる。
だが“今夜はここまで”で止まられると、人は次の手を読もうとして勝手に疲れる。
龍之介はその夜、部屋へ戻ってもなかなか眠気が来なかった。
灯の火が少しずつ小さくなる。
外では安土の夜の気配が静かに動いている。
だが頭の中では、秀吉の問いと笑みが何度も反芻された。
本能寺の朝、どこにおられました。
あまりにも自然だった。
だからこそ怖かった。
「眠れませぬか」
障子の向こうから影鷹の声がした。
「おぬし、いま何時だと思っておる」
「忍びに時は関係ございませぬ」
「便利な理屈だな」
そう返しつつも、龍之介は障子を少し開けた。
影鷹は闇の中に半分溶けるように立っている。
こんな男の顔を見ると、少しだけ気が楽になるから不思議だ。
「眠れぬ」
龍之介は素直に言った。
「でしょうな」
「おぬし、たまには“それは大変ですね”くらい言わぬか」
「大変にございます」
「気持ちが入っておらぬ」
影鷹は小さく笑った。
「ですが、羽柴殿があそこまで触れてきた以上、今夜は眠りが浅くて当然かと」
「……あの男、どこまで知っていると思う」
影鷹は少し考えた。
「事実としては、まだ多くは知っておられぬでしょう」
「だろうな」
「ですが、“何かが起こりかけた”ことと、“その何かを誰かが包んだ”ことは、かなりのところまで見ておられるかと」
「その“誰か”が私だと」
「ほぼ、そこへ寄せておられるでしょうな」
やはりそうか。
龍之介は、静かに息を吐いた。
秀吉は、まだ証を持っていない。
だが匂いで追っている。
そしてその匂いの先に、自分がいると見始めている。
「……面倒だ」
「はい」
「今夜は、素直に頷くな」
「今夜ばかりは」
そう言って影鷹は少しだけ目を細めた。
「ですが三上殿」
「何だ」
「本能寺の朝へ、羽柴殿がどこまで触れてこられるか。そこはいずれ越えねばならぬ山でした」
「分かっておる」
「ならば、次は守るだけでなく、逆に見ることもお考えになった方がよろしい」
「逆に、か」
「はい。羽柴殿が“どこまで知っているふりをしているか”を」
その言葉に、龍之介は少しだけ考え込んだ。
たしかにそうだ。
自分は秀吉の問いに反応し、どこまで見抜かれたかばかりを気にしていた。
だが逆もある。
秀吉が本当に知っているのか、それとも知っているように見せてこちらの顔色を見ているのか。
そこをこちらも読まねばならぬ。
「……なるほどな」
「そういうことにございます」
影鷹の言う通りだった。
秀吉は問いを投げる。
だが、問いそのものの深さが、そのまま秀吉の手札でもある。
ならばこちらも、その問いの“濃さ”を見ねばならない。
「少し、気が楽になった」
「それは何より」
「おぬしの顔を見たからではないぞ」
「左様で」
まったく素直でない返しだ。
だが、今夜ばかりはそれがありがたかった。
◇
翌日、秀吉はまるで前夜の探りなどなかったかのような顔をしていた。
これがまた怖い。
信長の前では相変わらず見事な忠臣ぶりを見せ、奉行筋や近習とも自然に言葉を交わし、勝家には少し軽く、丹羽には少し静かに、相手ごとにちょうどよい顔を使い分けている。
昨夜、本能寺の朝へ指をかけた男と同じとは思えぬほど、昼間の秀吉は“ただ有能で気の利く羽柴筑前守”に見えた。
だからこそ、龍之介は分かる。
あれは昨夜、本当に狙って聞いたのだ。
うっかりではない。
だが今はもう、その続きを急がぬ。
そういう男だ。
昼過ぎ、丹羽長秀とすれ違った時、龍之介が少し疲れた顔をしていたのだろう。
丹羽が足を止めて静かに言った。
「掘られたか」
あまりに率直で、龍之介は思わず苦笑した。
「言い方がひどい」
「本質だ」
「……本能寺の朝に、少し」
丹羽は頷いた。
「でしょうな」
「やはり、あの男はそこへ来ますか」
「来るとも」
丹羽は淡々と答える。
「本能寺の朝は、羽柴殿にとって“起こらなかった政変”だ」
「……」
「起こっておれば、あの方の立つ場所もまた変わったかもしれぬ」
その一言は重かった。
秀吉は、ただ面白半分で真相を知りたいのではない。
本能寺の朝がもし別の形で終わっていたなら、自分の未来もまた変わったはずだ。
だからこそ、嗅ぐ。
だからこそ、誰がそれを止めたかを知りたいのだろう。
「三上殿」
丹羽が続ける。
「羽柴殿は、まだ全てを知ってはおるまい」
「ええ」
「だが、問い方に含まれる濃さを見よ」
影鷹と同じことを言う。
それだけ重要ということか。
「断じるか」
「いえ」
「器を並べてくるか」
「ええ」
「どこで引くか」
「……」
「そこが、その時の羽柴殿の手札だ」
やはりそうだ。
秀吉は、知っていることを全部出さない。
むしろ、どこで引いたかに本音がある。
「ありがとうございます」
「礼には及ばぬ」
丹羽は静かに去っていった。
この城には、口数の少ないまま大事なことだけ落としていく男が多い。
◇
そして、その夜。
またしても秀吉の方から声がかかった。
連日だ。
普通なら少し空けるところだろう。
だが、空けぬからこそ相手の息が整いきらない。
そこも計算なのかもしれない。
「今宵も、少し」
近習はそれだけ告げた。
龍之介はもう、呆れるしかなかった。
「羽柴殿は、こちらを寝かせる気がないな」
小さく呟くと、影鷹が言う。
「それだけ面白いのでしょう」
「嬉しくない」
「でしょうとも」
だが、行かぬわけにはいかない。
今夜の小座敷は、昨夜より少しだけ灯が落としてあった。
酒も軽い。
肴も重くない。
“今夜は長くならぬ”という空気をわざと作っているように見える。
それもまた罠の一種かもしれなかった。
「三上殿」
秀吉はやはり笑っている。
「二晩続けて、申し訳ない」
「お誘いに応じておるのはこちらです」
「そう言うていただけるとありがたい」
やわらかい。
だが、やわらかいまま切り込んでくるのは分かっている。
最初のやり取りはごく軽い。
城下のこと。
天気。
酒の話。
だがそれがしばらく続いたあと、秀吉は本当にさりげなく言った。
「本能寺の朝というものは」
来た。
だが、本当に自然だ。
酒の話から、寺の話へ、そこから“あの朝”へ移っている。
「妙な朝でございましたな」
断定ではない。
だが、もうかなり直接だ。
「……そうかもしれませぬ」
龍之介は慎重に答える。
秀吉は笑ったままだ。
「日向守殿が朝まだきに参り、急ぎ言上があり、上様はご無事。大事なし」
ひとつずつ、器を並べる。
その声音はあまりに穏やかだった。
だからこそ、並べられる言葉の順番が余計に鋭い。
「見事に整うております」
秀吉が言う。
「整いすぎておるくらいに」
龍之介は、そこでようやく秀吉の問いの濃さを量りにいった。
「羽柴殿」
「はい」
「整いすぎておる、とまで申される」
「ええ」
「では、何が本来は整わぬと思うておられたので」
少しだけ、逆へ打つ。
秀吉は一瞬だけ目を細めた。
だがすぐ笑みに戻す。
「おや」
「羽柴殿は、何を“妙”と思うておられるのか。そこが聞きたくなったもので」
秀吉は盃を置いた。
「そう来ますか」
「聞いてばかりでは、不公平でしょう」
「三上殿は、だんだん面白くなられますな」
褒めているようでいて、警戒も深めている声だった。
「では申しましょう」
秀吉は少しだけ声を落とす。
「わしが妙と思うのは、整い方の早さです」
「……」
「何もなければ、あれほど急ぎに“何もなかった形”は整わぬ」
やはりそこまで来ている。
「日向守殿ほどの方でも、あの場で一人きりにあれは無理でしょう」
秀吉はさらに言う。
「ならば、誰かがおる」
部屋の空気が、静かに張る。
断定ではない。
だが、かなり濃い。
「その“誰か”を」
龍之介は静かに言った。
「私と思われますか」
秀吉は、そこで初めてほんの少しだけ黙った。
その沈黙自体が答えでもある。
「思う、とは申しておりませぬ」
やがて秀吉は笑う。
「ただ、三上殿は、あの朝の匂いをようご存じだ」
「……」
「そして、都と武家のあいだを噛み砕ける」
「……」
「そのうえ、上様のおそばにおる」
秀吉は、やわらかい声のまま続けた。
「揃いすぎておる」
龍之介は、そこでわずかに冷や汗を感じた。
秀吉はまだ証を持たない。
だが、仮の答えとしてはほとんど自分を置いている。
そこまで来ているのだ。
だが、だからこそ、ここで崩れてはならない。
「羽柴殿」
龍之介はあえて少しだけ笑った。
「私を買いかぶりすぎにございます」
「そうでしょうか」
「日向守殿ほどの御方と、上様のあいだのことに、私ごときがそこまで噛めるとは」
秀吉は、それを聞いて笑いを深くした。
「そこです」
「何がでしょう」
「“そこまで噛めるとは”と申された」
しまった、と一瞬だけ思った。
だが顔には出さない。
「おぬし」
秀吉は柔らかく言う。
「ただの傍観者ではございませぬな」
その一言は、ほとんど刃だった。
龍之介は、そこで逆に静かに息を整えた。
「本能寺の朝を、ただ遠くから眺めておった者ではありませぬ」
それは認める。
だが、どこまで噛んだかは言わない。
「都筋と安土筋のあいだを見ておった。それは前にも申しました」
「ええ」
「そして、あの朝は曖昧であったからこそ、大事にならずに済んだ」
「その通り」
「ならば、その曖昧さを支える手がどこかに要ったのも、また道理でしょう」
そこまで言えば、かなり踏み込んでいる。
だが、それでもまだ“自分がその手だ”とは言っていない。
秀吉は、しばらく龍之介を見ていた。
笑っている。
だがその笑いの下で、かなり本気でこちらの顔色を見ているのが分かる。
「なるほど」
やがて秀吉が言った。
「三上殿、よう守られる」
「守るべきところは」
「やはりおありか」
「人には皆、ございましょう」
秀吉は、それ以上は追わなかった。
その引き方が、逆に怖い。
もう十分だと判断したのだろう。
今夜これ以上押せば、こちらが完全に守りへ入る。
ならば、ここで止め、次へ残す。
「三上殿」
秀吉はふっと笑った。
「またゆっくり飲みたいものですな」
やはりそれを言う。
だが今夜のそれは、前よりずっと意味が濃い。
“まだ聞くべきことがある”ではない。
“おぬしがただの傍観者ではないと分かった、その続きだ”という響きがある。
「いずれ」
龍之介もまた、そう返すしかなかった。
◇
その夜、秀吉が去ったあと、龍之介はしばらく動けなかった。
表では崩れなかった。
言いすぎもしなかった。
だが、かなり近いところまで来られた感覚がある。
「……本当に、胃に悪い」
ようやくそう漏らしたところで、影鷹が現れた。
「いかがでした」
「本能寺を、かなり知っているふりをしてきた」
「ふり、にございますか」
「全部を知っているわけではない。だが、“誰かが包んだ”ところまでは、もうかなり濃い」
影鷹は静かに頷く。
「そして三上殿を、その“誰か”へ寄せておられる」
「うむ」
「ですが」
影鷹が少しだけ目を細める。
「今夜、三上殿も少し取られましたが、少しは取り返されましたな」
「……そうか」
「はい。羽柴殿が“どこまで知っているふりか”は、少し見えたはずです」
たしかに、その通りだ。
秀吉は濃い。
だが、まだ全部ではない。
器の早さ。
光秀一人では無理な整い方。
そこから自分へ寄せている。
だが、証はない。
だから、まだ断じない。
そこまでは見えた。
「次は、もっと深く来るでしょうな」
影鷹が言う。
「だろうな」
「ですが、羽柴殿もまた、三上殿を軽くは見られなくなったはずです」
それは少しだけ救いでもあり、同時に厄介でもある。
軽く見られれば、雑に切り捨てられる危険がある。
だが重く見られれば見られたで、今度は真面目に探られ続ける。
「……どちらにせよ、面倒だ」
「今さらでございます」
やはりそれか。
だが、今回はもう苦笑するしかなかった。
秀吉は、本能寺の朝をどこまで知っている。
おそらく、まだ完全ではない。
だが、かなりのところまで匂いを追っている。
そして自分がただの傍観者ではないことも、ほぼ確信したはずだ。
ならば次は、信長の前だけでなく、家中そのものの中でこの緊張がどう見られているか、という話になる。
龍之介は、安土の夜気を少し吸い込んだ。
静かな城だ。
だが静かなほど、腹の中の音がよく響く。




