第37話 綺麗に組みたい男、濁して勝つ男
人と人が本当に合うかどうかは、好き嫌いだけでは決まらない。
むしろ厄介なのは、相手が有能であると分かっているのに、物の見方の芯が噛み合わぬ場合だ。
無能な相手なら切ってしまえば済む。
悪意ばかりの相手なら警戒し続ければよい。
だが、有能で、必要で、しかも相手なりの理屈も分かるとなると、一番扱いに困る。
羽柴秀吉という男は、まさにそういう種類だった。
第36話の一件――都の寺社筋の不満をどう捌くか――で、龍之介はあらためてそれを思い知った。
秀吉のやり方は早い。
人を動かし、利を置き、今の場を取りに行く。
間違ってはいない。
むしろ、その速さが必要な局面も多いだろう。
だが、その速さの後ろで、誰かに負荷が寄り、どこかに歪みが溜まることもまた見える。
龍之介が気にするのはそこだった。
秀吉もまた、龍之介の見方を理解しているようで、理解しているからこそ“綺麗に組みたがる”と評した。
それは軽いようでいて、かなり本質を突く言葉だった。
その日の夕刻、秀吉の方から再び声がかかった。
「三上殿」
今度は蘭丸ではなく、秀吉の近習が控えめに名を告げに来た。
「羽柴殿が、少しばかり」
やはり来るか、と思う。
第36話の場で、二人の違いはかなりはっきりした。
信長の前で互いに一歩ずつ踏み込んだ以上、秀吉がそれをそのままにしておくとは思えない。
この男は、違いが見えた時ほど、その違いがどこまで本物かを確かめに来る。
「場所は」
「昨日と同じ、小座敷に」
よくもまあ、同じように見せるものだ。
“ゆるりとした話の続き”という形を保ちたいのだろう。
あくまで表は柔らかく。
その中身だけを深くする。
「わかった」
龍之介は立ち上がった。
影鷹が、柱の影からいつの間にか現れる。
「また、でございますか」
「また、だ」
「ご苦労なことに」
「苦労をかけてくれるのは向こうだ」
影鷹は少しだけ目を細めた。
「今宵は、もう少し深く来るでしょうな」
「だろうな」
「では、三上殿も、少しは深く返されますか」
その問いに、龍之介は一瞬だけ考えた。
「返さねば、向こうは“そこを守っておる”と見る」
「はい」
「だが返しすぎれば、それはそれで渡しすぎる」
「左様にございます」
影鷹は淡々としている。
だが、言っていることは正しい。
「嫌な相手だ」
「それも毎度にございます」
龍之介は小さく息を吐き、それから歩き出した。
◇
秀吉は今宵も、前と同じようによい顔で待っていた。
灯の具合。
酒の量。
肴の種類。
何もかもが“深刻すぎず、砕けすぎず”というところに整えられている。
こういう場の作り方一つ取っても、この男がどれだけ人の心の寄り方を計算しているかが分かる。
「ようこそ」
秀吉が笑う。
「昨夜に続いて、今宵もご迷惑を」
「迷惑と申すほどでは」
「いやいや、そう言うてくださるならありがたい」
その一言一言が、やはり軽すぎず重すぎずで腹立たしいほど上手い。
互いに座る。
酒が注がれる。
最初の数手は世間話だ。
だが、それが本題へ入るための助走でしかないことは、もう二人とも分かっている。
「三上殿」
秀吉が盃を軽く揺らしながら言った。
「昨日は、面白いものを見せていただきました」
「何を、にございます」
「同じ政を、違う目で見るところです」
来た。
やはりそこから入る。
「羽柴殿の方こそ」
龍之介が返す。
「取るべき人と場を、よう見ておられる」
「それしかできませぬゆえ」
「ご謙遜を」
秀吉は笑う。
「三上殿こそ、ご自分のことを職人のように言いたがる」
「職人でよろしゅうございます」
「上様の御側で職人を名乗るのは、なかなか大胆ですな」
その言い方に、秀吉が本当にただの比喩として聞いているのではなく、“おぬしは自分をどういう種類の人間だと思っている”と問うているのが分かる。
「大きく名乗るほどの柄でもございませぬ」
龍之介は答えた。
「ただ、詰まりがどこにあるかを見る方が性に合っておるだけにございます」
「綺麗に組みたいのですな」
またそこへ戻る。
「羽柴殿には、やはりそう見えますか」
「見えますとも」
秀吉はにこやかだった。
「人が潰れぬように、役が寄りすぎぬように、流れが持つように。三上殿は、そういう方を先に見ておられる」
それは、ほとんど正しい。
だから返しにくい。
「羽柴殿は、違いますな」
龍之介が言う。
「ええ、違いましょうな」
秀吉はあっさり認める。
「わしは、まず今の場でどう勝つかを見ます」
その言葉の率直さに、龍之介は少しだけ驚いた。
もっと曖昧に逃がすかと思ったのだ。
「勝つ、にございますか」
「はい」
秀吉は盃を置く。
「人がどう思うか。誰が不満か。どこに利を置けばこちらへ寄るか。そこを見て、まずは場を取る」
「……」
「場が取れねば、その先の綺麗な形も何もございませぬ」
それもまた正論だ。
だから困る。
「たしかに」
龍之介は頷いた。
「取れぬまま持たせることはできませぬ」
「でしょう」
「ですが、取ることばかり先に立てば、その場その場の勝ちは増えても、あとで誰かが持たぬ」
秀吉は笑った。
「またそこへ戻る」
「戻ります」
「なぜ」
問いは、妙にまっすぐだった。
なぜおぬしはそこまで“あとで潰れる者”を気にするのか。
秀吉はそう聞いている。
龍之介は少しだけ考えた。
「……長く生きてきたからかもしれませぬ」
つい口をついて出た。
だが、言ってからもおかしくはないと思った。
「ほう」
「人が潰れるのは、一度であればまだ派手です」
「……」
「ですが、厄介なのは派手に潰れる前の歪みの方です。少しずつ無理が寄り、できる者へさらに寄り、誰も止めぬまま、ある日まとめて崩れる」
秀吉は黙って聞いている。
「戦でも、政でも、そういう崩れ方は厄介にございます」
「なるほど」
「だから私は、その前の詰まりを気にするのでしょう」
秀吉は、そこで少しだけ目を細めた。
「三上殿」
「はい」
「それは、ずいぶんと“守る側”の目だ」
守る側。
言われてみれば、そうなのかもしれない。
信長の未来図を守る。
流れを守る。
人が持つように守る。
自分は無意識に、そちらへ寄っているのだろう。
「羽柴殿には、そう見えますか」
「見えますとも」
秀吉は柔らかく続ける。
「わしは、むしろ“勝つ側”の目に寄ります」
「その違い、ですな」
「ええ」
秀吉は少しだけ笑みを深めた。
「三上殿は、濁りを嫌う」
「嫌う、というほどでは」
「いや、嫌う」
秀吉は言い切った。
「必要は分かる。否定もしきらぬ。だが、本音では嫌っておる」
龍之介は、そこでさすがに少しだけ黙った。
そこまで見えるか。
たしかにその通りだった。
濁して勝つことを頭では理解できる。
必要な局面もある。
だが本音では、あとに歪みを残すやり方を好まぬ。
それを秀吉は、かなりはっきり見抜いている。
「羽柴殿は」
やがて龍之介が言った。
「濁りを恐れませぬな」
「ええ」
秀吉はあっさり認める。
「綺麗に済むなら、その方がよい。ですが、綺麗に済まぬことの方が多い」
「……」
「ならば、濁してでも取る。あとで整える。あるいは、整えきれぬままでも次へ進む。それが必要な時もございます」
その言い方には、一切の気後れがない。
秀吉は、自分のやり方を恥じていないのだ。
そしてそれは、強みでもある。
「嫌いかもしれませぬな」
龍之介がぽつりと言うと、秀吉は声を立てて笑った。
「それで結構」
「よろしいので」
「気の合う者ばかりでは、上様の下は持ちますまい」
前にも聞いた言葉だ。
だが今夜の方が、そこへ込める実感は濃い。
信長の下には、勝家のような真っ直ぐな武も要る。
丹羽のように静かに整える手も要る。
光秀のように都と理を捌ける才も要る。
そして秀吉のように、濁してでも場を取る男も要る。
自分は、その中でどこへ立つのか。
「三上殿」
秀吉が少しだけ声を落とした。
「一つ、よろしいか」
「何でしょう」
「本能寺の朝」
来た。
部屋の空気が、一瞬で変わる。
真正面から断じるわけではない。
だが、ついにそこへ触れてきた。
「三上殿は、どこにおられました」
あまりに自然な言い方だった。
雑談の続きのようにさえ聞こえる。
だが、これが今夜一番深い問いだと分からぬほど、龍之介も鈍くない。
返しを間違えれば、秀吉はそこから一気に食い込むだろう。
だが、守りすぎれば“そこだ”と教えるようなものでもある。
「都筋と安土筋のあいだを、見ておりました」
龍之介は静かに答えた。
嘘ではない。
だが、答え切ってもいない。
「ほう」
「上様の御近くで、ではありませぬが、遠くでもございませぬ」
秀吉は笑みを崩さない。
「ずいぶん、曖昧に申される」
「曖昧にせねばならぬこともございます」
「本能寺の朝のように」
「……」
そこへ来る。
じわりと来る。
龍之介は、あえて一呼吸置いた。
「羽柴殿」
「はい」
「本能寺の朝は、曖昧であったからこそ、大事にならずに済んだ面もございましょう」
秀吉の目が、ほんの少しだけ細くなる。
つまりそれは、“何かはあった”と認めたも同然だ。
だが何があったかは言っていない。
「なるほど」
秀吉は言う。
「三上殿は、やはりあの朝の匂いをようご存じらしい」
そこまでで止める。
それ以上は踏み込まない。
今夜のところは、そこまでで十分なのだろう。
龍之介は逆に、その“止まり方”に秀吉の怖さを感じた。
知りたいことはある。
だが、いま全部を取る気ではない。
取れるところまで取り、あとは次へ残す。
それができるのが、この男だ。
「三上殿とは」
秀吉が盃を手にしながら言う。
「またゆっくり飲みたいものですな」
それは表向きには穏やかな誘いだった。
だが実際には、“まだ聞くべきことがある”という宣言でもある。
「いずれ」
龍之介もまた、そう返すしかない。
◇
その夜、秀吉はそれ以上の深追いをしなかった。
話は、都の空気や安土の動きへまた少し戻り、やがて自然なところで切れた。
秀吉は最後までやわらかいまま席を立ち、何事もなかったように去っていく。
だが、何事もなかったはずがない。
本能寺の朝へ、秀吉はついに指をかけた。
そして龍之介が“ただの傍観者ではない”ことも、かなりのところまで確信したはずだ。
部屋に一人残った龍之介は、ようやく深く息を吐いた。
「……冷や汗が出るな」
ほんの少しだけ、掌が湿っている。
最初から最後まで怒鳴られたわけでも、脅されたわけでもない。
だが、あれほどやわらかく、あれほど自然に核心へ近づいてくる相手はそういない。
秀吉は、人を追い詰める時に、追い詰めている顔をしないのだ。
「お疲れのようで」
案の定、影鷹が現れた。
「おぬし、本当に人が息を吐く時だけはいるな」
「便利でしょう」
「便利だが腹立たしい」
影鷹は少しだけ笑った。
「本能寺の朝、聞かれましたか」
「ああ」
「どこまで」
「どこにいたか、と」
「なるほど」
「直接は断じぬ。だが、もうほとんどあの朝に私が噛んでおると見ている」
影鷹は静かに頷いた。
「でしょうな」
「それでも今夜は、そこまでで止めた」
「それが羽柴殿なのでしょう」
たしかにその通りだ。
全部を今夜取りに来るなら、こちらももっと強く守れたかもしれない。
だが秀吉はそうしない。
取れるだけ取り、残りは次へ回す。
その加減がうまい。
「面倒だな」
龍之介が言うと、影鷹は穏やかに返した。
「三上殿も、ようやく本気で羽柴殿を面倒と思われるようになりましたな」
「前から思っておる」
「今夜のそれは、前より深い」
否定できなかった。
秀吉はただ厄介なだけではない。
こちらを読んでくる。
しかも、かなり深いところまで読める。
「……だが」
龍之介は少しだけ顔を上げた。
「私も、秀吉という男の芯が少し見えた気がする」
「ほう」
「綺麗に組むより、まず勝つ。まず取る。濁してでも場を取る」
影鷹は静かに頷く。
「それでいて、ただの野心だけでもない」
「ええ」
「上様の未来を進める側の男だ」
そう言ってから、龍之介は少しだけ苦笑した。
「だからこそ厄介だ」
もし秀吉が、ただ信長を喰うだけの下卑た野心家なら、もっと分かりやすい。
だが違う。
この男は本当に信長の役にも立つ。
むしろ、その未来図を進める上で強い力になりうる。
だから信長も使う。
だから周囲も切れぬ。
そして、だからこそいつか危うくもなる。
「……信長公も、難儀なものを抱えておられる」
龍之介がそう漏らすと、影鷹は少しだけ目を細めた。
「抱えておられる、というより」
「何だ」
「ご自分で集めておられるのでしょうな」
それはまことにその通りだった。
信長という男は、勝家も、丹羽も、光秀も、秀吉も、それぞれ違う強さを持つ男たちを手元へ集める。
そして、違うまま使おうとする。
それは大きさであり、同時に危うさでもある。
龍之介は、小さく息を吐いた。
本能寺を止めたことで終わったのではない。
むしろ、本当に面倒なのはここからだ。
信長の未来図を支える者たちが、それぞれ違う未来を見ている。
その中で、流れを持たせる役を自分が担い始めている。
「……厄介だな」
もう何度目か分からぬその言葉に、影鷹は小さく笑った。
「それでこそ、でございます」
あまり嬉しくない励ましだった。




