第36話 同じ政を、違う目で見る
安土の政は、戦とは違う意味で息をつかせない。
刀を抜いて向き合うなら、まだ分かりやすい。
勝つか負けるか。
生きるか死ぬか。
もちろんその間にも無数の機微はある。だが少なくとも、何が争点かは見えやすい。
政は違う。
同じ一件を前にしても、何を争点と見るかが人によって違う。
誰の面目を守るか。
どこで譲るか。
何を先に取り、何をあとへ回すか。
その全部が、見る者の立場と性分で変わる。
だからこそ、本当に厄介な相手とは、同じものを見ているようで、見ている“芯”が違う者なのだろう。
そのことを、龍之介はこの日、嫌というほど知ることになる。
◇
昼前、信長から呼びがかかった。
場所は評定の広間ほど大げさではない。
だが、軽い相談でもない。
そういう時に使われる中ほどの一室だった。
信長がいて、蘭丸が控え、丹羽長秀がいる。
柴田勝家もいる。
そして羽柴秀吉もいた。
この顔ぶれを見た時点で、嫌な予感はかなり濃くなる。
信長が、何か一つの事柄について、それぞれに“どう見るか”を聞く気なのだと分かるからだ。
「来たか、龍之介」
「は」
「座れ」
いつものように短い。
龍之介は指示された位置へ座した。
秀吉とは真正面ではなく、少し斜めに向かい合うような形になる。
これも信長の置き方だろう。
正面衝突ではなく、同じ場を見ながら違いを浮かせる並びだ。
「さて」
信長が言う。
「都筋より、ひとつ面倒が来た」
それだけで、勝家が小さく鼻を鳴らす。
秀吉はにこやかなままだ。
丹羽は静かに続きを待っている。
蘭丸が一通の文を差し出した。
内容はこうだ。
都の寺社筋の一つが、近頃の兵の通行と城下の徴発について、表向きは穏やかに、しかし内実としてはかなり不満を持っている。
しかもその不満は寺社だけでなく、その周辺の町人、公家の一部にもじわじわ広がりつつある。
だが、彼らはまだ露骨に反発する気はない。
むしろ“織田方がどこまでこちらの顔を汲むか”を見ている段階だ。
厄介な話だった。
兵の通行を止めるわけにはいかない。
城下の整備も、上意として進めねばならぬ。
だが、そこで寺社と町人の気を一気に悪くすれば、都全体の空気まで重くなる。
本能寺の朝の後始末で、都側へ“安土は無用に強く押してこぬ”という印象を、ようやく薄く作り始めたばかりだ。
ここで乱暴に踏み込めば、その器もまた危うい。
「龍之介」
信長が先にこちらを見た。
「おぬしはどう見る」
いきなり来るか、と思う。
だが信長はこういう男だ。
「面目の話にございます」
龍之介は即答した。
「ほう」
「兵の通行そのものが問題なのではありませぬ。それで自分たちが軽く扱われたと感じ始めている。そこが膨らめば、兵の数より厄介になります」
信長は顎を引く。
「で」
「まず、寺社そのものへ“承知しておる”を置くべきかと」
「何を」
「不満そのものを、でございます」
勝家が腕を組む。
「認めるのか」
「認める、というより、見えておると示す」
龍之介は続けた。
「無視が一番悪うございます。見えておらぬと思われれば、向こうはさらに声を濃くする」
「……」
「ですが、すぐに兵を引くとも言えぬ。ならば、“通行と整備は上意にて変え難し、だが顔を潰すつもりではない”と、まずそこを伝えるべきかと」
「伝えて、それで収まるか」
勝家の問いはもっともだ。
「収まらぬやもしれませぬ」
龍之介は率直に言う。
「ですが、収める第一歩にはなりましょう。ここでいきなり理だけ押せば、“織田は話を聞かぬ”という形で不満がまとまります」
丹羽が静かに口を開いた。
「つまり、先に相手の顔を立てる」
「はい」
「そのうえで、兵の通行そのものは変えず」
「ええ。通行の道筋や時間、あるいは事前の触れの仕方で、少しでも角を削ぐ方がよろしいかと」
信長は、そこで秀吉へ視線を向けた。
「羽柴」
「は」
「おぬしはどうだ」
来た。
同じ事柄に対し、秀吉が何をどう見るか。
それがこの場の本題の一つでもある。
秀吉は、少しも慌てない。
「三上殿のおっしゃること、もっともにございます」
まずそこから入る。
いきなり否定しない。
その時点で、もう秀吉の会話術が始まっている。
「寺社の顔を潰せば、あとが面倒になる」
「うむ」
「ですが、わしなら、顔を立てるだけでは足りぬと思います」
信長の目が細くなる。
「ほう」
「いま欲しいのは、黙らせることではございませぬ」
「では」
「こちらへ少し寄せることです」
龍之介は、その一言で秀吉の見ている芯がはっきり見えた気がした。
自分は“不満がまとまらぬよう持たせる”方を見ていた。
秀吉は“この機に誰をこちらへ寄せるか”を見ている。
「申せ」
信長が促す。
「不満を抱いておる寺社筋がある。だが、まだ露骨に反発する気ではない。ならば、そこで顔を立てつつ、ひとつ利を渡す」
「利、とな」
「はい」
秀吉は柔らかく続ける。
「兵の通行は変えぬ。整備もやめぬ。だが、寺社側の者に“こちらの話を運ばせる役”を一つ置くなり、何かしら“羽柴方に話せば得がある”形をつける」
勝家が眉を寄せる。
「懐柔か」
「そのようなもので」
秀吉はあっさり言う。
「こちらへ口の利く者を一人作れば、あとはそこから空気が変わります」
龍之介は、その答えに思わず息を詰めそうになった。
うまい。
そしてやはり違う。
自分は“構造が持つか”を見る。
秀吉は“誰をこっちへ乗せるか”を見る。
同じ案件なのに、目のつけどころがまるで違う。
「羽柴殿」
龍之介は思わず口を開いた。
「何でしょう」
「それは、たしかに早い」
「ええ」
「ですが、一人に利を持たせれば、その者が今度は新しい詰まりになりませぬか」
秀吉は、にこやかに龍之介を見た。
「なります」
即答だった。
「……」
「ですが今は、そこまで大きな話ではございませぬ」
秀吉は盃も持たず、言葉だけで場を回す。
「まずはこの場を取ること。都の空気が悪うなる前に、一人でもこちらへ寄せること。そこが先です」
信長は笑った。
「やはり取る方から入るか」
「上様の前にございます。まずは場を取らねば、次へつながりませぬ」
その返しもまた上手い。
龍之介は、秀吉の理屈の強さを認めざるを得なかった。
間違っていない。
むしろ現実には、秀吉の方が速いだろう。
顔を立てるだけではなく、寺社側から一人こちらへ口の利く者を作る。
それができれば、今後のやり取りはずっと楽になる。
ただし、それは同時に新しい力の偏りも生む。
自分が気にするのはそこだ。
「三上殿」
秀吉が、柔らかく言う。
「お顔に出ておられますぞ」
「何がでしょう」
「“その先が危うい”と」
その言い方に、龍之介は少しだけ苦笑した。
「その通りにございます」
「でしょうな」
秀吉は少しだけ肩をすくめる。
「ですが、先の危うさばかり見て、今の場を取り逃がしても困る」
それもまた正しい。
だから厄介なのだ。
秀吉の物の見方は、ただ欲深いだけではない。
いま必要なところを確実に取るという意味では、非常に実務的でもある。
「おぬしら」
信長がそこで口を挟んだ。
「同じ話をしておるのに、まるで違うところを見ておるな」
勝家が鼻を鳴らした。
「三上は、後で詰まらぬかを気にしておる」
「うむ」
「羽柴は、今どうやってこちらへ寄せるかを見ておる」
「その通りだ」
丹羽が静かに言う。
「どちらも違えませぬ」
部屋が少し静かになる。
信長はその静けさを楽しむように、一度全員を見回した。
「龍之介」
「は」
「おぬしの目は、流れが持つかどうかを見る」
「はい」
「羽柴」
「は」
「おぬしの目は、誰をどう動かせば今の場が取れるかを見る」
「そのようなところにございます」
信長は笑った。
「どちらも使えるな」
それがこの男の恐ろしさだ。
普通なら、どちらかを選ぶ。
あるいは二人を競わせて片方を潰す。
だが信長は違う。
違う目なら、違うまま使えばよいと考える。
だから大きい。
そしてだから、人の方が削れる。
「上様」
龍之介は慎重に言った。
「何だ」
「羽柴殿のやり方は、早うございます」
「うむ」
「ですが、利を寄せた一人が、また別の太い管になるやもしれませぬ」
秀吉がすぐに笑みを添えて言う。
「その時は、その時に手を入れればよろしい」
「そうして手を入れ続けるのが、どれだけ人を削るか」
龍之介はついそう返していた。
少し強く出すぎたか、と一瞬思う。
だが秀吉は不快そうな顔をしない。
むしろ楽しそうだ。
「三上殿は、やはり綺麗に組みたがる」
「羽柴殿は、やはり濁してでも取る」
その返しに、勝家が思わず低く笑った。
「ようやく本音が少し見えたな」
たしかにそうかもしれない。
秀吉は、龍之介が“あとで潰れる人間”の方へ目を向けているのを見ている。
龍之介は、秀吉が“いま場を取る”ことを最優先に置くのを見ている。
どちらも隠してはいる。
だが、さきほどよりは互いの芯が少しだけ表へ出た。
丹羽が静かにまとめるように言う。
「三上殿は、構造を持たせる方から見る」
「はい」
「羽柴殿は、まず人を動かして場を取る方から見る」
「ええ」
「つまり、同じ政でも、使う手が違う」
「そうなりますな」
秀吉が笑う。
「わしは人を先に動かしたい。三上殿は流れを先に整えたい」
それは、あまりに明快な対比だった。
信長は、その差を聞きながら満足そうだった。
「面白い」
またそれだ。
だが今度の“面白い”には、たしかに意味がある。
この二人は違う。
違うから、同じ場へ置けば見えるものが増える。
信長はそう考えているのだろう。
「龍之介」
「は」
「羽柴の目、どうだ」
またその問いかと思うが、信長は飽きない。
「実に実務的にございます」
龍之介は答えた。
「ほう」
「しかも、人の欲と利を動かす方へ強い」
「そうだな」
「だからこそ早い。ですが、だからこそ後で歪みも残りやすい」
秀吉が、それを聞いて軽く笑う。
「後を気にして今を逃すよりは、よほどましとも申せますがな」
「今を取って後で潰れるなら、勝ちきったとは言えませぬ」
その返しに、部屋の空気が少しだけ張る。
真正面から否定ではない。
だが価値観は違うと、かなりはっきり言ったに等しい。
秀吉は笑みを崩さない。
だが、その笑みの奥で確実にこちらを見ている。
「三上殿」
「は」
「おぬし、やはり上様の未来を“持たせる”方の人間ですな」
その言い方に、龍之介は一瞬だけ返答を失いかけた。
そこまで見えるか。
秀吉は、ただ会話を楽しんでいるのではない。
龍之介が信長の未来図の中で、どちら側に立とうとしているかをかなり正確に掴み始めている。
「羽柴殿は」
龍之介はようやく返した。
「上様の未来を“進める”方にございますな」
秀吉はその言葉に、少しだけ目を細めた。
「さて、どうでしょう」
そう言いながらも、否定しない。
その否定しなさが、答えでもある気がした。
◇
話は、結局その日のうちに決着を見たわけではなかった。
信長は二人の意見を聞き、寺社への顔を立てつつ、同時にこちらへ口の利く者を一人作る余地も探らせる、といった折衷の形を選んだ。
つまり、どちらの考えも取ったのだ。
龍之介はその判断に、ある意味で納得していた。
信長は最初から、どちらか一方に寄る気ではない。
使えるものは全部使う。
違う目なら違う目のまま。
それがこの男のやり方だ。
場が解け、皆が下がり始める。
秀吉は立ち上がる前に、ほんの少しだけこちらへ体を向けた。
「三上殿」
「何でしょう」
「綺麗に組みたい癖がおありですな」
やはりそれを言うか。
「羽柴殿には、そう見えますか」
「見えますとも」
秀吉は笑う。
「流れが詰まらぬよう、人が潰れぬよう、先を見て組みたがる」
「悪い癖でしょうか」
「いや」
秀吉は首を横に振る。
「立派なお働きです」
その褒め方が、やはり怖い。
ただ褒めているのではない。
“そういう男だと分かった”と置いているのだ。
「ですが」
秀吉は続ける。
「世は、綺麗に組んだだけでは勝てませぬ」
そこに、龍之介は秀吉の芯を見る。
「承知しております」
「本当に」
「ええ。濁してでも取らねばならぬ時があることは」
「ならばよろしい」
秀吉は笑う。
「わしは、その濁りを恐れぬだけにございます」
その一言は、軽いようでひどく重かった。
この男は、自分が“濁す側”であることを自覚している。
しかも、それを恥とも思っていない。
必要なら汚れる。
必要なら人を寄せる。
必要ならその後の歪みはあとで考える。
そういう覚悟の男だ。
龍之介は、小さく息を吐いた。
「羽柴殿」
「はい」
「私は、やはり少し気が合わぬやもしれませぬ」
秀吉は声を立てて笑った。
「それで結構」
「よろしいので」
「気の合う者ばかりでは、上様の下は持ちませぬ」
その返しには、秀吉なりの本音も混じっていた気がした。
信長の未来は大きい。
だから、同じ目の者だけでは支えきれぬ。
違う手、違う価値観、違う強さが必要になる。
秀吉はそこをよく分かっている。
だからこそ、自分のような“綺麗に組みたがる男”にも一定の価値を認めるのだろう。
認めつつ、油断はしない。
そこがまた厄介だ。
秀吉は最後に、軽く一礼して去った。
その背を見送りながら、龍之介は心の底から思った。
やはり、ただの敵ではない。
だが、ただの味方でもない。
必要で、危うい。
それが羽柴秀吉という男なのだろう。
◇
外へ出ると、蘭丸が少し離れたところで待っていた。
「いかがでした」
毎度の問いだ。
だがいまの龍之介には、妙にありがたくもあった。
「同じ話をしておるのに、まるで違うところを見ていた」
「羽柴殿と」
「うむ」
「でしょうな」
蘭丸は淡々としている。
だが、その目は少しだけ深かった。
「三上殿は、持たせる方を見る」
「そうらしい」
「羽柴殿は、今どう取るかを見る」
「おぬしもそう見えるか」
「はい」
蘭丸はためらわず言った。
「上様は、その違いごとお使いになるおつもりでしょう」
「それが一番怖い」
「上様ゆえ」
何でもそこへ戻る男だ。
だが、たしかにその通りでもある。
龍之介は廊下の先を見た。
光秀がいて、勝家がいて、丹羽がいて、秀吉がいる。
皆、信長の未来図を支える。
だが支え方は違う。
違うからこそ強くもあり、違うからこそ危うくもある。
本能寺を止めた先で、自分はそういう男たちの差の中へ投げ込まれているのだ。
「……面倒だな」
思わず呟くと、蘭丸は珍しく少しだけ口元を動かした。
「今さらにございます」
やはりそれか、と思いながらも、龍之介は少しだけ笑った。




