第35話 上様の前では、皆よい顔をする
羽柴秀吉という男は、一人で話していても十分に厄介だった。
だが、信長の前へ出た時の厄介さは、また少し種類が違う。
龍之介は、それを知ることになる。
秀吉と“ゆるりとした話”をした翌日のことだった。
朝から安土の城内はいつも通り忙しい。
人が動き、文が動き、兵も奉行筋も、それぞれの持ち場でそれぞれの速さを保っている。
だがその裏に、羽柴秀吉が城内にいるという事実が、薄く張りついているのを龍之介は感じていた。
秀吉自身は、目立ちすぎない。
むしろ自然に溶ける。
だからこそ、いるだけで場のあちこちへ細い糸が伸びていくような気がするのだ。
蘭丸に呼ばれたのは、昼に少し差しかかる頃だった。
「三上殿」
「何だ」
「上様がお呼びにございます」
「羽柴殿もか」
蘭丸は一瞬だけ目を細めた。
「……お察しが早い」
「であれば、気は重い」
「でしょうとも」
珍しく、蘭丸がそこを否定しない。
それだけでも、これからの場がどういうものかは分かる。
「評定か」
「そこまで堅くはございませぬ。ですが、軽くもございませぬ」
信長らしい、と龍之介は思う。
きっちりした評定の形にすると、皆それぞれ鎧を着る。
逆に軽い座にしすぎれば、話が散る。
だから、そのあいだ。
人の腹が少しだけ覗く程度に、場の固さを調える。
◇
信長のいた部屋は、まさにそういう空気だった。
上座に信長。
脇に蘭丸。
少し引いた位置に丹羽長秀。
別の角度に勝家。
そして秀吉。
龍之介が入ると、秀吉は実によい頃合いでこちらを見て、柔らかく笑った。
「三上殿」
ただそれだけだ。
それだけなのに、“昨夜の続きがございますな”という空気まで含んでいる。
この男、やはり一言に余計な意味をきれいに織り込む。
「羽柴殿」
龍之介も一礼する。
ここで変に硬くも、逆に親しげにもできない。
ほんの少しの加減で、見られ方が変わる場だ。
信長が言う。
「揃ったな」
それだけで、部屋の空気が締まる。
信長は一見、いつもと変わらぬ。
だが、この男が自分の前へこういう顔ぶれを並べる時、ただの世間話で済ませるはずがない。
何かを見るために置いている。
「羽柴」
「は」
「都筋の件、どう見る」
いきなり来る。
しかも“どう処理する”ではなく“どう見る”。
つまり信長はまず、秀吉の目を見たいのだ。
秀吉は一拍も置かずに答えた。
「都は、静かに見えて、人の心が早う揺れます」
やわらかい。
だが、よく考えられている。
「ほう」
「とくに、何かあったとも、何もなかったとも言い切れぬ時ほど、人は勝手に気を回します」
その言い方は、本能寺の朝を正面から言ってはいない。
だが、あの朝の“器”のことを完全に承知している者の言葉だ。
「ならば」
信長が問う。
「どうする」
「勝手に回る気は、勝手に回りきらせぬことにございます」
秀吉は続ける。
「都筋には、安心だけを先に置く。細事であること、上様に変わりなきこと、今のところ騒ぎ立てるほどではないこと。その器を揃え、あとは余計な尾ひれが育たぬよう、拾うべき口だけ拾う」
丹羽が静かに頷いた。
勝家は腕を組んだままだが、露骨な反発はない。
さすがだ、と龍之介は思う。
秀吉の答えは、単なる火消しではない。
“どこにどの程度の安心を置けば、人の気がそれ以上膨らまぬか”まで見ている。
しかも、それをまるで当然のことのように言う。
「三上」
信長が、今度はこちらへ向く。
「おぬしはどうだ」
秀吉と同じ問いが来た。
ここが怖い。
信長は、二人へ同じものを投げて差を見ようとする。
しかも本人たちの前で、それを平然とやる。
「都へ安心を先に置くのは肝要かと」
龍之介は答える。
「羽柴殿の見立てと違えませぬ」
「ほう」
「ですが、安心の置き方が強すぎれば、今度は“なぜそこまで言い切る”と逆に勘繰られます」
秀吉の目が、ほんのわずかにこちらへ寄った。
「続けよ」
信長が言う。
「都は、安心と同時に“まだ聞く余地もある”くらいの曖昧さを残した方が収まりましょう。あまりにきっぱり切れば、相手の顔が潰れます」
秀吉がにこやかに口を挟む。
「なるほど。三上殿は“持たせる”方から入られる」
軽い言い方だ。
だが、昨夜の会話をここへさりげなく持ち込んでいる。
信長の前で、あくまで柔らかく。
「羽柴殿は」
龍之介もまた崩さず返す。
「まず“取る”方から入られる」
勝家が鼻を鳴らす。
丹羽は視線を少し下げる。
信長は面白そうだった。
「そうか、羽柴」
信長が笑う。
「おぬし、まず取るか」
秀吉は大げさに肩をすくめた。
「いやいや、上様。そのような露骨な」
「露骨でなければよいのか」
「そこは働き者の才覚ということで」
うまい。
否定しきらず、笑いの中へ落とす。
そうして、自分の腹の形を相手に見せすぎない。
龍之介は、あらためてぞっとした。
この男は信長の前でさえ、ただ従順なだけではない。
忠臣の顔を崩さず、その実、ちゃんと自分の色も残している。
「上様」
秀吉が続ける。
「三上殿の申されることも、ごもっともにございます。都へは、強く押しすぎると面倒が残る」
「ほう」
「ですので、器は揃えつつ、少しだけ“まだ聞く耳はある”ように残す。それが都向きでしょうな」
まるでこちらに歩み寄ったように見せる。
だが、その歩み寄り自体が秀吉の強さでもある。
人の意見をまるごと否定せず、自分の方へ編み込む。
勝家が低く言う。
「羽柴」
「は」
「おぬしはいつもよい顔をする」
部屋の空気が一瞬だけ止まる。
秀吉は笑みを崩さない。
「柴田様のように、恐ろしい顔の方がようございましたか」
「そう申しておらぬ」
「では、ありがたきことにございます」
すべる。
刺さりそうで刺さらず、受け流す。
しかも無礼にはならぬ。
勝家の方もそれ以上は踏み込まぬ。
踏み込んだところで、信長の前では秀吉の方が“忠義の顔”を保っている。
そこへ土足で乗れば、自分が荒く見えるだけだ。
龍之介はそのやり取りを見ながら、じわじわと実感していた。
やはり、秀吉は上手すぎる。
人当たりがいい。
柔らかい。
働き者で、忠義の言葉も自然だ。
なのに、その完璧さが逆に不気味だ。
人というものは、少しは引っかかるところがあって普通だろう。
だが秀吉には、引っかかるべきところが表へ出ない。
だから余計に、“どこに本音がある”と身構えてしまう。
「龍之介」
信長がまた呼ぶ。
「は」
「羽柴の顔、どう見る」
えらく乱暴な問いだ。
だが、この男はこういう聞き方で人の腹を抉る。
「……よい顔にございます」
龍之介はまずそう答えた。
秀吉が笑う。
勝家は鼻を鳴らす。
丹羽は何も言わない。
「ですが」
龍之介は少しだけ言葉を継いだ。
「よすぎる顔は、かえって中が見えませぬ」
部屋がまた静まる。
秀吉本人の前で、それを言う。
少し踏み込んだ。
だが、ここで曖昧に逃げても仕方がない気もした。
「おやおや」
秀吉が笑う。
「これはまた、三上殿に嫌われてしまいましたかな」
「嫌う嫌わぬではございませぬ」
「では」
「羽柴殿は、上様の前であまりにようできておられる」
龍之介は言った。
「それがすごいとも思いますし、同時に、どこまでが忠でどこからが才覚か、見分けがつかぬとも思います」
秀吉の目が、ほんの一瞬だけ静かになった。
笑みは崩れない。
だが、そこだけは確かに変わった。
やはり、そこを突かれると少しは動くのだ。
「三上殿」
秀吉は柔らかく言う。
「それは、わしの顔が上様の前では出来すぎておる、と」
「ええ」
「ひどい」
「誉めております」
信長が声を立てて笑った。
「よい。まことその通りよ、羽柴」
秀吉もまた笑う。
「上様にそう言われますと、返しようがございませぬ」
こういうところだ。
秀吉は、自分が少し刺されたとしても、その傷をそのまま見せない。
すぐに笑いへ変え、場の空気ごと飲み込んでしまう。
龍之介は、その一連を見て改めて思った。
これは強い。
勝家のような正面からの強さではない。
丹羽のような静かな強さとも違う。
もっと、人の前で崩れぬことそのものが強さになっている。
「で」
信長が言う。
「羽柴、おぬしは三上をどう見る」
今度は来たか、と龍之介は思った。
秀吉は少しだけこちらを見てから、にこやかに答える。
「おもしろい御方にございます」
いきなりそれか。
「ほう」
「都の匂いがある。だが、都の顔だけでは済まぬ。物も見ておられるし、人の詰まりも見る。しかも上様のおそばで、それをやろうとしておられる」
そこまで見えているのか、と龍之介は思う。
いや、見えているように言っているのか。
どちらにせよ、十分に厄介だ。
「それで」
信長が問う。
「厄介か」
秀吉は、少しだけ笑みを深くした。
「働く者としては、実にありがたい。ですが、同時に、よう見られておる気もいたします」
うまい。
敵とも言わぬ。
味方とも言い切らぬ。
“ありがたい”と言って立てつつ、“見られている”と軽く針を返す。
この男、本当に一つの言葉で二つも三つも動く。
信長は満足そうだった。
「よい」
その“よい”が、今日は何度も落ちる。
つまり信長は、この二人のやり取りをかなり面白がっているのだ。
だが面白がっているだけではないだろう。
信長は、秀吉が龍之介をどう見るか、龍之介が秀吉の何に嫌な予感を覚えるか、その両方を記憶している。
皆、上様の前ではよい顔をする。
秀吉はとりわけ見事によい顔をする。
勝家も勝家で、露骨に嫌な顔をしながらも“筋を外さぬ臣”の顔を保つ。
丹羽は静かに整い続ける。
龍之介だって、異物として保つべき顔を作っている。
信長だけが、たぶん一番顔を作っていない。
作らずに、皆の顔を眺めている。
◇
その場は、最後に小さな案件をめぐる意見取りで終わった。
都の寺社筋へどう返すか。
羽柴の見る“人心の揺れ”と、龍之介の見る“言葉の角”と、丹羽の見る“流れの整え”と、勝家の見る“曖昧すぎる危うさ”。
同じ一つの事柄でも、皆違う目を持っている。
信長は、それを一つずつ聞き、最後に必要なところだけ取る。
この男にとって、臣下の意見とは、自分の考えを代わりに決めてもらうものではない。
違う角度の刃を見せさせ、その中で使えるものを取る材料なのだ。
やがて話が切れ、皆が下がり始めた。
秀吉もきっちり礼を取り、あくまで忠臣の形を崩さぬまま出ていく。
その去り際、ほんの一瞬だけ龍之介へ視線を寄越した。
軽い。
だが、その軽さの奥に“今のは面白かったですな”とでも言いたげな温度がある。
まったく、気の抜けぬ男だ。
秀吉が出ていき、勝家と丹羽もそれぞれ去ると、部屋には信長と龍之介だけが残った。
「どうだ」
またそれだ。
「何がでしょう」
「羽柴よ」
信長は飽きない。
いや、飽きないからこそここまで来た男なのだろう。
「ようできておられます」
龍之介は率直に答えた。
「うむ」
「だからこそ、どこまでが本当に上様のためで、どこからが羽柴殿ご自身のためか、見分けがつきませぬ」
信長はその答えを聞いて、ふっと笑った。
「見分けねばならぬと思うか」
意外な問いだった。
「違いますか」
「違わぬ。だが、それを分けきれると思うな」
龍之介は一瞬、黙った。
たしかにそうかもしれない。
秀吉という男は、忠と野心が綺麗に二つへ分かれているのではないのだろう。
信長のためによく働く。
それは本当だ。
だが同時に、その働きは秀吉自身の未来へも繋がっている。
どちらが嘘でどちらが本当、という話ではない。
両方が同時に本当なのだ。
「上様」
「何だ」
「それでも羽柴殿を使われますか」
「使うとも」
信長はあっさり言う。
「惜しいからな」
その一言は、龍之介にとって妙に重かった。
惜しい。
本能寺で自分が信長へ感じたのと、同じ言葉だ。
「おぬしも、羽柴にそう感じるか」
信長が問う。
龍之介は少し考えてから答えた。
「……いまはまだ、そこまで言い切れませぬ」
「正直でよい」
「ですが、ただの敵とも思えませぬ」
「うむ」
「そして、ただの味方でもない」
「それもよい」
信長は満足そうに頷いた。
「では、しばらく見ておけ」
「は」
「上様の前では、皆よい顔をする」
信長が、ふとそう言った。
その声は妙に静かだった。
「羽柴も、柴田も、丹羽も、日向も、おぬしもだ」
龍之介は何も返せなかった。
たしかにその通りだ。
この城で、信長の前で、顔を持たずに立っていられる者などいないのかもしれない。
「だが」
信長の目が細くなる。
「顔をよう見れば、その奥の理も少しは見える」
それはたぶん、信長自身がずっとやってきたことなのだろう。
臣下の顔を見て、その奥の忠と欲と怖れと才を見ている。
だから使えるし、だから削りもする。
「肝に銘じます」
「よろしい」
それで話は終わった。
◇
外へ出ると、すでに夕方の色が落ち始めていた。
影鷹が、また廊下の先で待っている。
「いかがでした」
「皆、よい顔をしていた」
龍之介がそう言うと、影鷹は少しだけ笑った。
「それは結構」
「結構なものか」
「安土にございますので」
それで全部説明するつもりか、とも思うが、あながち間違ってもいない。
「だが」
龍之介は小さく息を吐く。
「秀吉はやはり怖い」
「でしょうな」
「上様の前で、あれほどきれいに忠臣の顔をしながら、なお一つも緩まぬ」
「左様にございます」
「しかも、あれが全部作り物とも思えぬ」
そこが一番厄介なのだ。
完全な嘘なら、いずれ綻びも見える。
だが秀吉の忠義も働きも、きっと本物だ。
だからこそ、そこに混じる野心もまた厄介になる。
「敵か味方かでは、切れぬ男にございますな」
影鷹が言う。
「信長公も、まさにそう仰せだった」
「でしょうとも」
龍之介は廊下の外へ目をやる。
夕陽が安土の壁を染めている。
静かな城だ。
だが、その静けさの中で人の顔がいくつも動いている。
勝家の真っ直ぐな顔。
丹羽の静かな顔。
光秀の何もなかった顔。
秀吉のよすぎる顔。
そして自分の、異物としての顔。
「……面倒だな」
「今さらでございます」
「それはもう聞いた」
影鷹は小さく笑う。
「では、次は」
「秀吉ともう少し深く話すことになるだろうな」
「そうでしょう」
やはり、避けられぬ。
秀吉はもうこちらへ食いつき始めている。
こちらもまた、あの男の何が本当に怖いのかを、もう少し見ねばならぬ。
そしてその先で、おそらく信長はさらに面白がる。
厄介な主を、生かしてしまったものだと、龍之介はあらためて思った。




