第34話 秀吉は、何を嗅ぎ取ったか
羽柴秀吉は、安土の夜の匂いが嫌いではなかった。
都の夜には都の匂いがある。
香、酒、脂、紙、灯、噂。
人が近く、言葉が濃く、息遣いまでどこか湿っている。
だが安土の夜は少し違う。
城の石と木の匂いが先に立つ。
整えられた道、抑えられた灯、動いているのに無駄の少ない人の気配。
ここは上様の城であり、上様の理が夜にまで染みている。
だからこそ、妙な匂いもまた拾いやすい。
秀吉は自室へ戻ってから、しばらく何も言わずに座っていた。
供の者は外へ下げている。
灯は明るすぎず暗すぎず。
酒は手元にあるが、もう口はつけていない。
さきほどまでの“ゆるりとした語らい”を、頭の中で改めてほどいていた。
三上龍之介。
妙な男だ、と思う。
まず、ただの都人ではない。
それはもう確かだ。
都の匂いはある。
言葉の返しに曖昧さを残すところ、場の空気を読んで一歩引くところ、角を立てずに芯を残すところ。
あれは都の言葉を知っている者の返しだ。
だが、それだけではない。
武の理も少し知っている。
しかもただ刀を触ったことがある、という程度ではなさそうだ。
勝家があれほど露骨に嫌っておきながら、完全には切り捨てぬのがその証だろう。
勝家という男は、口先だけの者にはもっと分かりやすく冷たくする。
さらに、上様の近くにいる。
ただ近くに置かれた客人の顔ではない。
本人もそこを曖昧にはするが、曖昧にしながら“すでに引き返せぬところまで入っている”自覚はあるように見えた。
「……なるほどのう」
秀吉は、誰にともなく呟いた。
やわらかな男ではない。
やわらかくもできる男だ。
そこが面倒だ。
もしあれがただの都の顔役なら、もっと崩しやすい。
武だけの男なら、勝家やほかの武辺者と同じ見方で処理できる。
だが三上龍之介は、そのどちらにもきっちり収まらぬ。
外から来た。
だが、もう外でもない。
中へ入ってきた。
だが、まだ完全な中でもない。
そういう半端な位置の人間は、えてして扱いづらい。
扱いづらいのに、上手く使えば思わぬところへ手が届く。
そして何より――。
「本能寺じゃな」
秀吉の声は低かった。
本能寺の朝。
そこに何かあった。
それはもう、ほとんど間違いないと秀吉は見ている。
いや、“あった”というより、“起こりかけた”と見る方が近いか。
明智日向守が朝まだきに本能寺へ参った。
急ぎ言上。
都筋の込み入った件。
上様ご無事。
大事なし。
器は揃っている。
揃いすぎている。
だからこそ、その器を誰かが先に置いたのだと分かる。
光秀一人では、あそこまできれいな空気にはならぬ。
いや、できぬことはない。
だが、明智日向守の理屈だけなら、もっと固く、もっと“整いすぎた説明”になるはずだ。
今の安土と都に流れている器は、もう少し“人が飲み込みやすい曖昧さ”を持っている。
つまり、都の言葉も分かり、なおかつ武家の側へ落とす加減も知る手が入っている。
そこへ、三上龍之介がいる。
上様のそばに。
都の匂いを持ち。
光秀と同じ本能寺の朝の空気に、おそらく噛んでいて。
ここまで揃えば、秀吉にとっては十分だった。
「おるな」
小さく言う。
「誰かおる、ではなく、たぶんこやつじゃ」
もちろん断定は早い。
だが秀吉は、断定しすぎぬまま、仮の答えを先に持つ癖があった。
相手が何者か、まずひとつ仮置きする。
そのうえで会話し、動きを見て、仮を削る。
最初から白紙で相手に向かうのは、かえって危うい。
三上龍之介。
都の匂い。
武の理。
上様の近く。
本能寺の朝の処理に噛んだ可能性。
仮としては上等だ。
「殿」
障子の向こうから小声がした。
側近の一人だ。
「入れ」
秀吉が言うと、男が静かに入ってくる。
「いかがいたしましょう」
短い問いだ。
だが意味は分かる。
あの妙な男について、どこまで手を伸ばすか、だ。
秀吉はすぐには答えなかった。
「今日、話してみての」
「は」
「ただの珍しい客ではない」
「左様にございますか」
「うむ。上様が近くへ置いておられるのも、面白がっておられるだけではあるまい」
男は黙って聞いている。
「都に近い。だが都に呑まれておらぬ。武も少し分かる。しかも、上様の速さに怖さを覚えながら、なお側におる」
「……」
「こういう男は、使えるなら面倒なほど使える」
秀吉は盃を持ち上げたが、飲まずに戻した。
「逆に言えば、こちらにとって面倒でもある」
「では」
男が問う。
「敵にございますか」
秀吉はそこで、ふっと笑った。
「早いのう」
「は」
「敵と味方で割るには、まだ早い」
これは秀吉にとって本音だった。
敵か味方か。
そう切ってしまえば楽だ。
だが楽な切り方は、得てして後で損をする。
とくに、上様の近くで妙な役を持ち始めた男を、最初から敵と決めるのは得策ではない。
「上様が使うておられるなら、まずは“何に使えるか”を見る」
「は」
「使えるなら味方に近づく。邪魔なら面倒になる」
「承知」
「だが今は、まだどちらにも振れすぎぬ方がよい」
男は頭を下げる。
秀吉は続けた。
「三上龍之介の出を探れ」
「出、にございますか」
「うむ。どこから来て、都のどこに顔があり、寺社とどう繋がるか。浪人か、寺か、商いか、あるいは別の筋か」
「承知」
「ただし、露骨に追うな。上様の近くへ置かれた男だ。あまりあからさまに嗅げば、こちらの鼻が利きすぎると見える」
「御意」
「それから」
秀吉は少し考えた。
「本能寺の朝に、明智方以外で妙な動きをした者がいなかったか。都側、寺側、近習側、どこでもよい」
「三上殿をお疑いに」
「疑う、というより」
秀吉は静かに言う。
「確認じゃ」
たぶん、こやつは関わっている。
だがどこまで関わった。
ただ場にいたのか。
形を整えたのか。
それとももっと深いところで、上様と日向のあいだへ噛んだのか。
そこは見極めねばならぬ。
「は」
男が下がると、秀吉は一人になった。
静かだ。
だが、頭の中は少しも静かではない。
三上龍之介のことだけではない。
上様のこともある。
あの方は、本能寺の朝を越えたあとで、むしろ前より面白がっている節がある。
妙な異物を近くへ置き、光秀を生かし、勝家も丹羽も使い、こちらまで安土へ呼ぶ。
まるで、“終わるはずだった朝を踏み台にして、次を始める”とでも言わんばかりだ。
「やれやれ」
秀吉は、ようやく酒に口をつけた。
「上様も難儀なお方よ」
そう言いながら、胸の内には別の熱もある。
もしも本能寺の朝に、本当に何か大きなことが起こりかけていたのだとしたら。
もしもそれが途中で止まり、しかも誰かがきれいに包んだのだとしたら。
その誰かは、いま上様の近くにいる。
それが敵か味方かは、まだ決めぬ。
だが、見ておかねばならぬ。
見ぬままにしておくには、あの男は妙すぎる。
秀吉は、龍之介との会話を思い返した。
上様のそばは胃にこたえる。だが、こたえる方ほど見たくなる。
あの返しは本音だろう。
少なくとも全部が作り物ではない。
面白い。
だが、面白いだけで済む相手ではない。
「綺麗に組みたがる男、か」
ぽつりと呟く。
三上龍之介は、流れを見て、詰まりを見て、どこへ一本通せば持つかを考える。
そういう男だ。
ならば、秀吉のように“濁してでも取る”やり方とは、いずれどこかでぶつかる。
だがぶつかるからこそ、使い道もある。
敵と味方で切るには早い。
むしろ、今はその半端さが都合よい。
「……さて」
秀吉は盃を置いた。
「どこまで腹がある」
龍之介が、ではない。
自分の中で、その男にどこまで手を伸ばすかの話でもある。
上様の近くにいる。
都の匂いがある。
武の理も少し通る。
そして、本能寺の朝の“器”に噛んでいる可能性が高い。
もしこれがただの珍しい客なら、眺めて終わりだ。
だが、そうではない。
ならば――。
「使えるなら、味方へ寄せる」
秀吉は低く言った。
「邪魔なら、厄介じゃな」
その物言いは穏やかだった。
だが、中身はかなり冷たい。
人を嫌うとか、気に食わぬとか、そういう話ではない。
必要か、不要か。
使えるか、邪魔か。
秀吉の基準は、そこへ寄る。
その時、また障子の向こうから小さな声がした。
「殿」
「何だ」
「都筋の者より一つ、気になる噂が」
秀吉の目が細くなる。
「申せ」
男は、部屋へ入って声を落とした。
「本能寺の朝、寺社筋へ“急ぎ言上にて大事なし”の形が流れるのが、少々早すぎた由」
秀吉は、そこでほんの少しだけ笑った。
「やはりな」
男が続ける。
「しかも、その流れ方が明智方だけではなく、別筋の手も入っているようだと」
「であろうな」
予想通りだ。
やはり、あの器は一人では作れぬ。
そして三上龍之介がそこに噛んでいた可能性は、今のでさらに濃くなった。
「引き続き、探れ」
「は」
「だが急ぐな。急げばこちらが腹を見せる」
「御意」
男が下がる。
秀吉は一人、静かに息を吐いた。
「三上殿」
誰へともなく、名を呼ぶ。
「おぬし、ただの客ではないな」
笑みは消えていない。
だがその笑みの下で、秀吉の中ではすでにいくつもの手が組み始めていた。
本能寺の朝の真相。
光秀の腹の揺れ。
信長の再起動。
そして三上龍之介という異物。
これらは、きっと一本の線でつながっている。
ならばその線を見つけねばならぬ。
見つけたうえで、自分にとってどう使うかを決めねばならぬ。
その意味で、今夜の会話は上々だった。
何も確かめ切ってはいない。
だが、“何を確かめるべきか”はかなり見えた。
「面白うなってきた」
秀吉は小さく笑った。
その笑いは、昼間、信長の前で見せた人好きのするものよりずっと冷たかった。




