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第28話 安土の宴は、値踏みの席

信長が「今夜、軽く座を設ける」と言った時、龍之介はまず“軽いはずがない”と思った。


 案の定、軽くはなかった。


 安土において、上様が“軽く”と言う時は、たいてい本題を正面から言わぬだけで、中身は十分に重い。

 とくに今の龍之介は、本能寺の朝を越えた後、信長の側へ置かれた妙な異物である。

 そんな男を、わざわざ宴へ同席させる。


 それがただ酒を飲ませるためのはずがなかった。


「嫌そうなお顔で」


 支度を整えているところへ、影鷹が例によって気配薄く現れた。


「嫌だとは言うておらぬ」


「言わずとも、そのお顔は“宴ほど面倒な値踏みの場はない”と申しておられます」


「……図星だ」


 龍之介は小さく息を吐いた。


「正面から詰められる方が、まだ楽だ」


「柴田殿のように、ですか」


「うむ。あの方は嫌なら嫌と出る。だが宴は違う」


「違いますな」


 影鷹は頷く。


「笑うて、褒めて、酒を勧め、話を逸らしながら、どこまで腹があるかを測る」


「まったく胃に悪い」


「ですが、向いておられる気もいたします」


「褒めているのか」


「感想です」


 そこは一貫している。


 龍之介は着流しの襟を軽く直し、刀の位置を確かめた。

 宴席にあっても、丸腰の気分では落ち着かない。

 だが武張りすぎてもまた浮く。

 そのあたりの加減が、まだ完全には掴みきれない。


 安土へ来てからというもの、言葉だけでなく立ち居振る舞いそのものが“どこに属する者か”を示すと痛感させられることが増えた。

 都の顔、安土の顔、と自分で言っておきながら、自分自身の顔はまだ定まっていない。


「……まあよい」


 龍之介は呟いた。


「どうせ避けられぬ」


「左様にございます」


「ならば行くしかあるまい」


「その方が三上殿らしい」


 まるで最初から分かっていたように影鷹は言った。


     ◇


 宴の座は、評定の広間ほど大きくはなかった。


 だが小さくもない。

 内輪だけの打ち解けた酒席というには、明らかに人選に意図がある。

 勝家がいる。

 丹羽がいる。

 ほかにも、信長の近くで顔の利く者、武で立つ者、政で動く者が何人か。

 光秀はいない。

 そこにもまた意味があるのだろう。


 本能寺の朝を越えた直後に、あの男までここへ置けば、酒席の温度では済まなくなる。

 今夜、信長が見たいのは別のものだ。


 龍之介が座へ入ると、視線が集まった。


 露骨ではない。

 だが隠してもいない。

 “ああ、これが噂の”と見る目。

 “都筋の妙な男”を実際にどういうものか見ようとする目。

 “上様が近くへ置いた以上、ただの客ではない”と値をつけに来る目。


 その中へ入る。


 信長はすでに上座にあった。

 珍しく、最初から機嫌が悪いようには見えない。

 だが、機嫌がよく見える時ほどこの男は怖い。

 面白がっているからだ。


「来たか、龍之介」


「は」


「座れ」


 いつも通り短い。


 だが、その一言で位置づけが決まる。

 どこへ座るか。

 誰の近くか。

 それだけでこの場では意味が違う。


 龍之介の座は、上座に近すぎず、遠すぎず。

 客として末席へ追いやる位置ではない。

 かといって重臣の並びへそのまま混ぜるでもない。

 まさに“異物として座らせる”位置だった。


 信長らしいと思う。

 近くへ置く。

 だが近すぎて安心もさせぬ。

 常に、自分が何者として見られているかを意識させる位置だ。


 酒が出る。

 肴が並ぶ。

 香の物、煮物、焼き魚、酒に合うよう整えられた品々。

 派手ではない。

 だが粗末でもない。

 “上様の内輪の席”としては、ほどよく整えられた膳だ。


 最初のうちは、あくまで軽い話だった。


 城下のこと。

 天気。

 道の具合。

 兵の動き。

 どれも宴の手すさびとしては自然だ。

 だが、その自然さの中で少しずつ針が紛れ始める。


 最初に明確に刺してきたのは、やはり勝家だった。


「三上殿」


「は」


「安土には慣れたか」


 問いだけを見れば穏やかだ。

 だが勝家にしては珍しく、わざと柔らかく入ってきている。

 柔らかく入る時点で、もう値踏みである。


「まだ半ばにございます」


 龍之介は酒盃を置いて答えた。


「都とも本能寺とも、空気が違う」


「ほう。どう違う」


 来たな、と思う。


「都は、言葉が多い」


「安土は」


「目が多い」


 一瞬、座が静かになった。


 勝家の目が少しだけ細くなる。

 丹羽の口元が、わずかに動く。

 笑ったのか、面白がったのか、そのあたりが絶妙に分かりにくい。


「面白い返しだ」


 勝家が言う。


「嫌われますかな」


「それもまた一興だ」


 今度は信長が声を立てて笑った。


「よい。たしかに安土は目が多い」


 上様がそう言ってしまえば、場は一度そこで和む。

 だが和んだように見せておいて、次の針はまた来る。


 今度は名前も知らぬが、奉行筋らしい男だった。


「都の方と申すれば、やはり公家や寺社の言葉も日々お耳に入るのでしょうな」


「多少は」


「こちらのように、言いたいことを真っ直ぐ申すわけには参りますまい」


「真っ直ぐ申しておるつもりでも、相手にはそう響かぬことも多いかと」


「ほう」


「都では“言ったこと”より“どう言ったか”の方が残ることもございます」


 男は盃を傾けながら頷いた。


「では安土は」


「“どう言ったか”より“何を決めたか”が残る」


 その答えに、今度は丹羽が口を開いた。


「つまり、都では過程が顔を作り、安土では結果が顔を作る、と」


「近いかと」


 丹羽の問い方は、相変わらず静かだ。

 だが、静かに会話を自分の土俵へ寄せていく。

 気づけば“軽い雑談”が、すでに政の話になっている。


「では、三上殿」


 丹羽が続ける。


「その二つの顔を、どうやって一つの政へ繋ぐ」


 あまり軽い酒席の問いではない。

 だが、ここは安土なのだ。

 酒席でも本気の話は混じる。


「一つには致しませぬ」


 龍之介は答えた。


 勝家が眉を上げる。


「ほう」


「一つにしようとすれば、どちらかが無理をする。都を安土のように真っ直ぐにすれば、都が壊れる。安土を都のように曖昧にすれば、上様の速さが鈍る」


 信長が面白そうに目を細めた。


「ならば」


「繋ぐしかあるまいと」


 龍之介は酒に口をつけ、少しだけ喉を湿らせてから続けた。


「言葉を変える。届け方を変える。どこで角を落とし、どこで曖昧さを削るかを決める。それは一つの顔にすることではなく、二つの顔のあいだで噛み砕くことかと」


 勝家が低く言う。


「相変わらず、理屈は立つな」


「ありがたく」


「褒めておらぬ」


「承知しております」


 座に、わずかな笑いが走る。

 ほんの少しだけ。

 だが、その少しが大きい。


 異物が座にいる。

 最初は皆そこへ違和感を向けていた。

 だが今は、その異物がどう返すかを面白がる空気が少し混じり始めている。


 それは油断できぬ変化でもあった。

 面白がられるということは、もっと見られるということだ。


「三上殿」


 また別の男が口を開いた。

 今度は年嵩で、笑みを絶やさぬ顔をしている。

 こういう男もまた厄介だと、龍之介は知っている。


「都筋に通じ、武も少しは扱われるとか」


「少しばかり」


「本能寺でも、なかなか見事であったと」


 来た。


 本能寺の朝。

 そこへ軽口のように触れる。

 笑って済ませられぬが、怒るほど露骨でもない。

 実に宴らしい探りだ。


「大げさに伝わっておりますな」


 龍之介は少しだけ笑って返した。


「血は出しておりませぬ」


「出ておらねば、喉元へ刃を置いても大事なし、と」


 男がそう言うと、勝家が鼻を鳴らした。


「やめておけ。その辺りを酒の肴にすると、ろくな味にならぬ」


 その一言が、場の空気をわずかに締め直す。


 勝家はこういう時、露骨に釘を刺してくれる。

 ありがたいのかありがたくないのかは微妙だが、少なくとも座が変に濁らずに済む。


「失礼いたした」


 年嵩の男は笑みを崩さぬまま頭を下げた。

 だが、今ので分かったこともある。

 やはり本能寺の朝の話は、家中の中で完全に消えてはいない。

 誰も表では言わぬ。

 だが、言おうと思えば酒席の軽口に紛れ込ませるくらいには、もう“空気”になっている。


 信長は、その一連を黙って見ていた。


 何も言わない。

 止めもしない。

 ただ見ている。


 それが一番怖い。

 この男は、ここで自分がどう受けるかを見ているのだ。

 本能寺に触れられた時、怒るか。はぐらかすか。妙に正義ぶるか。

 そういうところで、信長は人の値を測る。


「三上」


 信長が不意に呼んだ。


「は」


「酒はどうだ」


 唐突な問いだった。


「嫌いではありませぬ」


「強いか」


「ほどほどにございます」


「ほどほど、な」


「潰れるほどではない、という意味にて」


「よろしい」


 信長は盃を軽く上げた。


「では飲め。話ばかりでは味気ない」


 それは“もっと砕けろ”ということでもあり、“酔って崩れるな”という試しでもあるのだろう。


 龍之介は盃を受けた。


 酒は強い。

 だが悪くない。

 安土の酒は、都の雅な席で飲んだものよりも、どこか芯が太い気がした。


 何口か進むうちに、座の温度が少しずつ変わる。

 笑いも増える。

 声も一段やわらぐ。

 だが、そのやわらぎの中で探りの針が減るわけではない。

 むしろ酒が入ったぶん、相手の問いは一見軽く、しかし芯は深くなる。


「三上殿は」


 勝家が再び口を開く。


「都と安土、どちらが性に合う」


 難しい問いだった。


 どちらが好きか、ではない。

 どちらへ寄る男に見えるかを、勝家は見ている。


「どちらも面倒にございます」


 龍之介は答えた。


 勝家が目を細める。


「逃げたな」


「いえ。本音です」


「で」


「都は、言葉で人を立てる。安土は、働きで人を立てる。どちらも筋があり、どちらも面倒です」


 丹羽が静かに問う。


「ならば、おぬしはどこへ立つ」


「そのあいだ、かと」


 龍之介は言った。


「都へ寄りすぎれば安土に嫌われる。安土へ寄りすぎれば都に弾かれる。ならば、そのどちらにも半歩ずつ足を置くしかあるまいと」


 信長がそこで笑った。


「器用なことを申す」


「器用でなければ、ここまで来られませぬ」


「違いない」


 上様がそう言えば、座も少し和む。


 だがその“和み”の中で、龍之介はよく分かっていた。

 いまのやり取り一つ一つが、全部記憶されている。

 勝家も、丹羽も、他の者らも、“都の妙な男はこう返す”と腹の中へ刻んでいるのだ。


 宴とは、記憶の席でもある。


     ◇


 夜が少し深くなった頃、座はようやく本当に酒席らしい緩みを帯び始めた。


 もっとも、それは完全な緩みではない。

 皆、上様の前では崩れすぎぬ。

 だが、最初のような“異物をどう見るか”の硬さは薄れている。


 龍之介も、自分が無事に最初の山を越えつつあるのを感じていた。


 その時だった。


 信長が、ふいに盃を置いて言う。


「次は羽柴にも飲ませてみるか」


 座が、一瞬だけ静まった。


 やはり来るか。


 勝家が露骨に顔をしかめる。


「上様」


「何だ」


「面白がりすぎにございます」


「何を」


「この男と羽柴を同じ座へ置けば、酒より先に腹の探り合いになりますぞ」


 信長は愉快そうだった。


「それの何が悪い」


「胃に悪うございます」


 勝家の返しに、座のあちこちで笑いが漏れた。

 だが、その笑いの下で皆、本気でそう思っているのだろう。


 丹羽だけは、静かに言った。


「いずれは避けられますまい」


「うむ」


「ならば、早い方がよろしいかもしれませぬ」


 信長が頷く。


「やはり丹羽は分かっておる」


「分かりたくはございませぬが」


 それもまた本音なのだろう。


 龍之介は盃を持ったまま、小さく息を吐いた。


 やはり、逃げられぬ。

 信長はもう、その先を面白がっている。

 勝家も丹羽も、時期の問題だと思っている。

 ならば、いずれ羽柴秀吉と同じ座につくのだ。


 会いたくないような。

 会ってみたいような。

 そういう相手ほど、本当に厄介だ。


「三上」


 信長が名を呼ぶ。


「は」


「どうだ」


「何がでしょう」


「羽柴と飲むのは嫌か」


 龍之介は少しだけ考えた。

 考えてから、正直に答えた。


「嫌と申せば嫌にございます」


 座に、また小さな笑いが起こる。

 だが信長は続きを待っている。


「ですが」


「うむ」


「嫌だからこそ、避けては通れぬとも思います」


 信長の目が細くなる。


「よい」


 それだけ言う。

 だが、その“よい”は軽くない。


 この男は、怖いと知ってなお向かう者を好む。

 無鉄砲とは違う。

 怖さを知ったうえで退かぬ者を使いたがる。


 だからこそ、周囲は削れるのだろうとも思う。

 光秀がそうであったように。

 自分もまた、どこかでその速さに巻き込まれつつある。


 宴は、それからしばらくしてようやく解かれた。


 皆が立ち、礼を取り、部屋を出ていく。

 その去り際に交わされる短い言葉、視線の一つ一つにも、まだ探りは残っている。

 だが少なくとも、最初に座へ入った時の“完全な異物を見る目”とは少し変わった。


 異物ではある。

 だが、ただの珍物ではない。

 それくらいには、今夜の値踏みを抜けられた気がした。


     ◇


 外へ出ると、夜気が少しだけ肌へ心地よかった。


 安土の夜は、都の夜より静かだ。

 城の明かりはあるが、町のざわめきは遠い。

 その静けさの中で、龍之介はようやく肩の力を少し抜いた。


「お疲れのようで」


 影鷹が、案の定そこにいた。


「おぬし、本当にどこにでもいるな」


「便利でしょう」


「今日はとくに、便利すぎてありがたい」


 影鷹は目を細めた。


「乗り切られましたな」


「乗り切った、というより」


 龍之介は少しだけ考えて言った。


「値をつけられた、という方が近い」


「それで十分かと」


「十分か」


「安土の宴とは、そういうものでございましょう」


 影鷹は淡々と言う。


「今夜で、皆が“都の妙な男はこう返す”と覚えたはずです」


「嫌な言い方だ」


「ですが、大事なことにございます」


 たしかにそうだ。

 宴は遊びではない。

 安土の宴は、記憶と査定の席だ。

 誰がどう笑い、どう返し、何を嫌がり、何に怯えぬか。

 そういうものが酒の中で測られる。


「それにしても」


 龍之介は空を見上げた。


「信長公は、本当に面倒なことを面白がる」


「羽柴殿との酒にございますか」


「うむ」


「避けられぬでしょうな」


「分かっている」


「では、腹を括るしか」


 龍之介は小さく笑った。


「おぬしはいつもそこへ戻すな」


「戦国にございますので」


 まったく、その通りだ。


 安土の宴は終わった。

 だが、それで終わりではない。

 今夜の座でついた値は、これから先も残る。

 そしてその先には、まだ見ぬ羽柴秀吉との対面が待っている。


 龍之介は静かに息を吐いた。


 嫌な予感は、だいたい当たる。

 長く生きていれば、そのくらいは分かる。

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